
歪んでも、なおそれを愛と呼ぶ 11
Before…
【十五】
陽は八月三十一日の夜からずっと、同じ光景を見続けていた。首に手を掛け、笑っていた最愛の人の笑顔がすっと消えていく、あの瞬間。イカれた映写機が頭の中で流し続けるフラッシュバック・シアター。同じ場面を延々と繰り返し、そこに干渉する警察・検察・刑事・看守。その場面を話すことは容易であり、同時に最上の困難でもある。黙っていれば、事実が明るみには出ない。「自分が殺した」の一言で片付けられ、相応の罰を受け、その罰が贖罪となる。彼はそう信じるしか無い。
日に日に気が狂う自覚は陽自身にもあった。それもまた、陽が薫を殺めてしまった報いであると思っていた。他者の干渉が映写機を狂わせ、狂った映写機から垂れ流される映像にノイズを与え、そのノイズが正気をぐらつかせている。ぐらついた正気はすぐに崩れて自らの意思が理解できなくなる。自分は狂ってしまった、そう言い聞かせて正気を保っていたようにも思えた。陽はこの独房で過ごした期間、自分が徐々に自分で無くなっていく感覚に溺れていた。
忘我の中で偶然現れた山辺秀太という一人の看守。奴が一番のノイズであった。親身に接してくれた唯一の看守。正気を失った陽は、そこにもたれかかって良いものか掴みあぐねていた。一瞬寄りかかれると思って寄りかかってみれば、残酷な真実と勝手な空想を叩きつけられ、再び壊れてしまった。
薫が報われない。この言葉を信じたくなかったのだ。手紙を読んで、諦めず薫と会話を重ねて薫の意思を変えたかった。しかしそれは陽にはできなかった。結論として、罰を受けて薫を救う決意をしたのだった。薫を救ったと信じ、罰を受けることで永劫の時を過ごすことにしたのだ。投獄された当初は、映写機に負けて命を捨てたくなった。特殊な独房に移され、自死を諦めて映写機を眺め続ける以外の選択を取れなくなった。永遠に繰り返される悲劇の映画に勝手に出演し、陽の現実を覗き見ようとする連中に、本能的な怒りが湧いた。感情の全てをぶつけたが、返ってきた言葉は同じ。薫は報われない。
永遠の恋哀映画以上の苦痛との闘いに挑むしかなくなった。薫の御両親は真実を話してしまった。あの夜の出来事が白日に晒されつつあるが、陽が話さなければ真相を闇に葬ることができる。簡単だ。当事者の陽が否定してしまえば終了だ。だが、秀太と新しく来た宗次という初老の男がそれを否定する。薫が報われる結末にするには、陽自信があの日の出来事を繊細に語るより他の方法は無いのだ。頭の中で何度見たか分からない。薫を幸福にしてあげるには、どうするのが最善か。秀太と宗次に時折意味の無い質問をして、意味の無い答えが返ってくる。さながらウロボロスの蛇。自分で己の尾を喰らう。喰らい尽くすが先か、飲み込むのを諦めるが先か。
時間だけが流れていく。陽は最早独房でどれくらいの時間を過ごしたか覚えていなかった。あの晩からひたすら月日が去った。
「今日は、何月何日でしょうか…。」
「十二月三十一日だ。もうすぐ、年が明けるぜ。」
宗次と名乗った男がぶっきらぼうに返してきた。この男とは、初対面の時に鍔迫り合いの口論をした。本気で殺してやろうと鉄格子を蹴り続けた。あれは確か秋の半ば頃だったか。季節は過ぎていく。ここが、節目か。陽の脳裏で誰かが囁いた。
「おめぇさんとは最初に会った時にドンパチしたな、懐かしいぜ。腹ァ、括ったか。」
陽の表情から、宗次の長年の経験がそう思わせた。
「真実を知る奴が黙り込んでちゃぁ、他の奴が勝手に作ってそれが真実になる。それで藤瀬と青海が満足するなら、俺の出る幕はねぇよ。それに納得できねぇなら、少しでも藻掻け。足掻け。罰を決めるのはお前じゃねぇ。必要以上に罰を受ける必要なんてねぇんだよ。俺らが知ってる限りじゃあ、お前は此処にいるべき人間じゃねぇ。おめぇを許してねぇのはおめぇだけだ。もう、いいんじゃねぇか。」
格子に背中を預けて語る男のひとつひとつが、陽の心臓の奥に刺さり続けた。許してもいい、という言葉は陽に決意の一歩を踏み出させた。自分を、許すにはどうするか。形として残すには。その時、日付が変わった。遠くで鐘の音が微かに聞こえた気がした。
「紙と、ペンを沢山下さい。私のこれまでを赤裸々に綴ります。勿論、あの晩のことも。薫が報われる結末にするのなら、私にできることはこれくらいでしょう。」
宗次はあいよ、と言って無線で要求した。ボールペンが二十、紙が百届いた。格子の鍵を開く。それらを渡し、宗次は陽を抱き締めた。
「よく決意した。後は、おめぇさんが自分と闘うだけだ。負けんじゃねぇぞ。こいつは辛い戦になる。だが、勝て。俺が初めておめぇさんと会った時、秀太が紙二枚持ってたの、覚えてっか?」
全身全霊の優しさを込めた抱擁は、陽にとってどこか懐かしいものだった。薫の笑顔が脳裏に浮かび、自然と涙が零れ出した。
「はい、覚えています。薫の御両親が口を開いたと。あの晩殺めた薫の最期が書かれていると。私の筆が終わった時に、あの二枚と交換して頂けませんでしょうか?」
宗次は仏の笑顔で答える。
「そのつもりだ。頑張んな。」
陽と、交代で来た秀太はその笑顔を確かに見た。「鬼仏の宗次」の異名を完全に理解した瞬間であった。ここからは、藤瀬陽の過去へと時間が遡る。
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