
歪んでも、なおそれを愛と呼ぶ 01
【一】
「はい、一一〇番です。事件ですか、事故ですか?」
「私は、人を殺してしまいました。救急車と、警察を呼んで下さい。住所は…」
指定された場所に赤色灯が回り、藤瀬陽という二十九歳の男性が殺人未遂で逮捕された。被害者は首を強く絞められた二十九歳の青海薫という女性で、病院へ救急搬送された。
陽はずっと泣いていた。事情聴取を受けても、パトカーに乗せられても、警察署で取り調べを受けても、ずっと泣いていた。
「愛する人を、殺めてしまいました。」
この言葉を繰り返しながら、譫言の様に繰り返しながら、ただただ陽は涙を流し続けていた。八月最後の夜に、すすり泣きの残響が木霊する。
【二】
陽が拘置されてから一週間が経った。看守も警察も、流石に呆れ返る程だった。
拘置初日、陽は衣服を脱ぎそれを用いて首吊りを図って、巡回していた看守に慌てて止められた。部屋に自死できるものは剥奪され、常に看守が交代制で見張ることになったが、隙を見せると自分で己の首を絞めた。常人では考えられない強さで、まさに人を殺める強さで自分の首を絞め、それを何度も繰り返した。陽は隔離された独房に移された。
陽は精神鑑定を受けた。それでもなお、繰り返す言葉は同じだった。
「愛する人を殺めてしまった私に、生きていく資格など無いのです。どうか、どうか、死なせて下さい。或いは、死刑にして楽にさせて下さい。」
事件の担当者及び看守等の関係者ははたはた呆れ返った。青海薫の首を絞めたのは鑑定結果から間違いなく藤瀬陽である。それは紛れも無い真実であり、藤瀬陽の関係者から話を聞いていくと、二人が交際してから五年程で、結婚まで秒読みであったことも明らかになった。
ただ、動機が全く無いのだ。青海薫の家で事件は起きた。二人で家に入っていく様子を目撃した人物からは、「仲睦まじく歩いてきて、優しい表情でご挨拶をして下さいましたよ。」という証言まで得た。行動を洗って監視カメラを何度も確認したが、犯行に至るまでの動機が全く分からない。犯人は自首したが、ずっと同じことを繰り返すだけで、青海薫の家で何が起きたかを一切語らない。
青海家の人間に何度も事情聴取したが、青海薫については一切を黙秘された。藤瀬家の人間は藤瀬陽と長いこと連絡を取っていなかったようで、陽が交際していたこと、そして殺人に至るまでの一切を知らず、虚無の表情で陽が家を出るまでの話を淡々とされた。青海薫絞首事件について得られた手掛かりは、青海薫と藤瀬陽の人間性が多少分かった程度で、事件の核となる部分には一切触れることができなかった。
【三】
古く立派な佇まいを誇る一軒の家を、山辺秀太は中年の刑事と共に訪れた。秀太は、交代制で陽を見張っていたのが最初で、陽を見張っていた時間が一番長いという理由で刑事に呼ばれ、言われるがまま同行した。
―面倒くせぇなぁ。
秀太は心の中でずっと呟き続けていた。心理学に興味があり、適当に過ごしているうちに看守になっていた。向いていないとは思っていなかったし、この不可解な事件の犯人が何を思うかはずっと気になっていた。しかしただの見張りには、大きなネタとなる情報は入ってこない。「強い自殺願望を持っているから、気を抜かずに見ておけよ。」とだけ言われ、時折陽に声を掛けてみたりもした。しかし返ってくる言葉は常に「愛する人を、自らの手で殺めてしまった…」といった旨のものだけ。個人的興味で陽の心を探ろうとしたが、全く掴めない上に、今や事件と全く関係無い人物の家に同行されている。
「失礼のないようにしろよ。」
中年の刑事が偉そうに話しかけてくる。露骨に苛立った態度で、秀太は返事をする。
「うす。ただここ誰ん家なんすか?仕事だって言われたからついてきてますけど、何で俺が?」
「そこは追々話す。とにかく、この人に頼るしか現状を打開するしかないんだ。山辺の大先輩に当たる人だからな。」
「ういっす、分かりやした。」
中年の刑事がインターホンを押す。表札には「弥勒寺」と書かれている。
「はい、どなたですか?」
初老と思われる声が返ってくる。刑事は緊張した様子で応答した。
「弥勒寺先生、刑事の者です。引退なされた先生には大変申し訳ないのですが、お力をご拝借させて下さい。」
チッ、と舌打ちが聞こえ、インターホンを乱暴に切る音が聞こえた。玄関に続く引き戸の門が勢いよく開かれ、大きな音を立てた。背の高い、声を聞いてイメージした通りの白髪の男性が怒りを露わにしてこちらを睨んでいる。
「俺はもう引退したんだよ。金にも困っちゃいねぇし、このまま余生を静かに過ごしてえんだよ。またネクタイ締めて前線に出ろってのか?ふざけるんじゃねぇよ。」
弥勒寺という男は露骨に怒っている。その怒りにはただならぬ、最早殺気と言ってもいいくらいの憎悪を感じる。刑事は、秀太に挨拶を求めた。
「初めまして、看守をしております山辺秀太と申します。藤瀬陽という男が青海薫という女性を絞首した事件について、ご存じですか?」
露骨に怒っていた弥勒寺の表情が、少し柔らかくなった。
「おう、知ってるよ。速報で女が搬送されたって以来音沙汰ねぇな。箝口令でも敷いたか?」
動揺しながら刑事が言葉を続ける。
「そのようなお話は、署の方で…」
弥勒寺と名乗る男は、秀太の目をキッと一瞥して家に招き入れた。
「おぅ、秀太って言ったな若いの。お前がここに来たのは何かしら意図があってだろう。そうじゃなきゃこんな隠居した老いぼれのところに来れる訳がねぇからな。入んな、話ぐれぇ聞いてやる。俺は宗次、弥勒寺宗次だ。」
「ありがとうございます、よろしくお願い致します。」
秀太の挨拶を最後に、三人は弥勒寺家へと入っていった。
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