歪んでも、なおそれを愛と呼ぶ 16
Before…
【二十】
宗次と秀太は、月曜から土曜まで交互に番を続けた。陽は、紙とペンをひたすら動かし続けていた。さながら命の係った文を綴るように、寡黙を貫き与えられた紙にインクを刻み続けていた。
年が明け、寒さが厳しくなり、外には雪が積もり、陽が綴り始めてから二つの月が過ぎた。紙には規則正しさとは程遠い、雑多乱雑な言葉が次から次から刻まれるのを、看守の二人はただ黙って見守るだけだった。
紙には、細かい字でつらつらと書かれたものもあれば、大きく丁寧な字で記されたものもある。時たま紙をばらばらに破り捨て、頭を抱える姿も見られた。それでも、一心不乱に事実を紙に書き続けている。
ここ二日間、陽のペンは止まったままだ。正念場だろう、と秀太も宗次も直感していた。
そして三日目の日付が変わった時、陽はひとつ凄まじい咆哮を発し、血走った眼球で紙とペンを凝視し、続きを書き刻みだした。
【二十一】
流行りの感染症に接触した疑いがかかり、年明け早々に薫と会えない日々がありましたが、二人とも陽性反応が出ることも無く、新たな年度が始まりました。
薫の五年目、私の二年目。薫は翌年異動になるでしょう。私もまた、少しでも守ってくれていた新規採用という防護壁が無くなり、業務量は一気に増えました。成程薫でさえ苦労するものだ、と頭を抱えながら膨大な仕事を少しずつ片付けていました。時間外労働が八十時間を超えないようにするので精一杯でした。特に、六月は凄く忙しかったように思えます。祝日も無く、定期テスト、お偉いさん方の訪問、研修が一気に重なり、薫と会える時間も殆ど確保できませんでした。
怒涛の六月を乗り越え、約ひと月ぶりに薫と会った時、薫の表情はとても暗く、それでいて微笑むのが余計に哀愁を感じました。聞けば、薫の仕事量は五年目ということもあって私の比ではありませんでした。
「私、そろそろ限界。少し時間を頂くから、遠慮しないでいつでもうちに来ていいからね。」
年に一度ほど訪れる薫の精神不安定は、三年ぶりに早い段階で訪れてしまいました。生徒たちの夏季休業に入るまで、二週間ほど欠勤する形になっていました。薫の抱える業務は多く、彼女の強さという虚勢の鎧が半壊してしまったのでしょう。
夏季休業は、部活動の指導・面談等ありましたが、退勤時間はほぼ定時でした。定時に仕事を終え、薫の家に行って一緒に食事をする。翌日が休みの日は泊めてもらって、薫の心に強さが再び芽生える為に色々と暗中模索の中できることをしていきました。
八月のお盆休みに、薫は郷里へと帰りました。私も同行しました。薫の御両親はとても親切な方で、「薫から聞いてるわよ、いつもありがとうね。」なんて言われてしまい、少し照れたものです。
私が心の奥底で渇望していた、一家団欒に混ぜて頂きました。食事や酒を共にしながら、映画を観たり、お喋りをしたり。人生で一番素敵なお盆休みでした。
我々が薫の実家を後にしようとした時に、薫のお母様から呼び止められました。
「もしも薫の身に何かあったら、願いを叶えてあげて。お願いします、陽先生。」
この時は、特に深く考えることも無く了承しました。薫の儚い一面を知っていたので、力になってあげて、といった程度の言葉だと思っていたのです。
そのまま八月の最終週に突入し、休業明けの準備に入りました。夏季休業中、薫は一度も出勤できなかったと耳にしました。心配になりながらも、前倒し前倒しを意識して業務を遂行していたお陰で、薫の見舞いにはほぼ毎日行って様子を見て、彼女を支えることに使命感をもって愛しました。薫のお母様の言葉もあって、薫が何とか楽になれる方法を模索し、実行しました。しかし、薫の笑顔はどこか寂しく、本心から笑っていた明朗快活な薫の表情は夏に入ってから見た記憶がありません。
そして八月の最終日、退勤して家の郵便受けを確認すると、ひとつの何も書かれていない封筒がありました。
怪しく思いその封筒の中にある一枚の紙切れを読んで、私は絶句し崩れ落ちました。
薫に、もう会えないかもしれない。時既に遅し、では済まされない。手紙をばらばらに破り捨て、急いで薫の家に行きました。彼女は相変わらず乾渇の笑顔で手を振って待っていました。
「一緒に、ご飯を食べよう。」
二人で買い物に行き、特別豪華ではないけれど、決して貧相では無い、いつもの食卓を囲みました。私は、何を話せばよいか分からず、沈黙の晩餐でした。薫をベッドに寝かし、食べ終えた食器を洗って薫の傍に行った時、永遠に繰り返される映写機のオープニングが始まったのでした。
「陽、私を、楽にして。」
「楽にするって、どうすればいい?」
問い掛けに対して、ここ数ヶ月で一番の微笑みを見せました。何故そんな表情ができるのか。脳の整理が全く追いつきません。しかし、薫の返答は、至極単純で、至極難解なものでした。
「私を、殺して。お願い。」
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