友人の浮気と村上春樹とわたし。
みなさんは、
どうしても許せないことが起こった時って、
どうしてますか?
今となっては色々と、自分と自分以外の人とを分けて、理解や賛成はできずともその人の考えはその人の考えとしてそれなりに受け止められるようになり、比較的心が広い人のように扱われがち(え?そうでもない?)なわたしではありますが、もともとめっちゃ心の許容量の狭い人間でした。
言ってみれば正論人間。
♬ 曲がった〜ことがだいきらい〜 ♬
って歌い出したくなるくらいに人の間違いに厳しい。
人の悪口言っているのとか聞くのも嫌。
女性に下ネタ言うのも無理。
社会的ルール守ってないやつとかもダメ。
もちろん浮気なんてもってのほか。
よく言えば「ピュア」。
悪く言えばただの正論しか言えない間違いを許せない頑固者。
いや、もちろんだめなんですよ。
誰かを傷つけることはだめ。
その考えは今でも基本的にかわってないわけですが、
でも間違いをただ許せない人間からは、
人って離れていくんだって。
そんな気づきのあった、とある出来事のおはなしです。
弱男性恐怖症からの東京での大学生活
小学校のころからこっそりと男性恐怖症気味だったわたしは、当時から男子を前にすると緊張したりびびってしまって、何を話していいかステータス混乱に陥ることが多かった。
だからよく失言もしたし、「こいつ何言ってんの?」みたいな白けた顔で去っていくクラスメイトを何度も目にした。そして男性恐怖症がさらに加速するというデススパイラルが発生。
高校にあがり、彼氏(今の夫)と出会いおつきあいをするまで、まともに会話ができる男子は数える程しかいなかった。
そのせいなのか、親の影響なのか、当時のわたしは鬼のように男性に対して潔癖な部分があり、冒頭に書いたように
人の悪口言っているのとか聞くのも嫌。
女性に下ネタ言うのも無理。
社会的ルール守ってないやつとかもダメ。
もちろん浮気なんてもってのほか。
こんな感じだったわけです。
とは言え、大学にも上がると工業大学でほぼ男子校みたいな大学だったこともあり男友達も増えてくる。またやっぱり高校までと違い、かなり自由な人もいて、男子免疫の少ない私からするとはてなが飛ぶ会話も少なくはなかった。
それでも「都会の人たちはみんななんかすごいな・・」みたいな不思議な感覚で色々と初めてのことを受け止めようと努力はしていた中で、とある事件がおこった。
そう。友人の、浮気です。
メロスばりの大激怒
当時比較的仲の良かった男友達の一人が、彼女がいたにも関わらず、同じグループの女友達と浮気をした。
これどうなんでしょ。
ありがちな話なんだろうか。
もしかしたら、よくある話なのかもしれない。
でも、当時、まだまだ世界が広がったばかりだったわたしにとって、
これは【あってはいけない大事件】だった。
当時この件を知ったのは、もしかしたら本人から告白されたんだったかもしれない。(正直なところは覚えていない。でもそうだった気がする)
なぜならその当時の彼女とのキューピット役になったのが私だったから。
罪悪感もあったんだと思う。
でもその時のわたしの反応は、こうだった。
「は?あんたなにやってんの?信じられない。マジでありえない。」
そして私はその日から、そいつと会話をしなくなり、SNSのつながりも削除した。
周りの共通の友人からは、
「めいちゃん許してあげなよ。めいちゃんが怒ることじゃないし。あいつも反省してしょげてたよ。そんなに怒んなくても」
とか言われて、わたしはついうっかりその人まで嫌いになってしまいそうだった。
なぜ?
なんで人を傷つけるとわかっていて浮気なんかできるの?
しかも友達の輪の中で?
信用してたのに!
そしてその結果、
孤立したのは浮気をしたそいつではなく、私の方だった。
浮気をしたそいつも、それを許した仲間も許せなくて。
正論を振りかざして怒りをあらわにした私だけがぽつんと取り残された。
悲しくはなかった。
でも悔しかった。
そしてしばらくして、わたしは同じ空間から去ることを決意した。
人の心を理解するためにわたしができること
その一件は、わたしのこころの中にぽつんと影を落とした。
そいつと過ごした楽しかった日を思い出したりして、
「私があの時怒らなかったら、あいつを許していたら、
まだ友人でいられたんだろうか?」
なんて、そんなことを考えたりしていた。
浮気なんてしてほしくなかった。
誰かを傷つけるとわかっていて、その行動に出た弱さが許せなかった。
大好きな友人だったからこそ、余計に怒りがわいた。
でも、それは【正しかった】んだろうか。
【正しいけれど、正しくなかった】んじゃないだろうか。
そもそも【正しい】ってなんなんだ。
どうして人は間違いをおかしてしまうのか。
まるで自分が、人間としての感情を理解できないロボットみたいな存在に思えてきて、絶望する夜もあった。
そんな時にふと突然、思いついたのが、
「小説を読めば、人の心を理解することができるんじゃないだろうか」
ということ。
私にはどうしても浮気をしてしまう人の心が理解できない。
人のこころの弱さを受け入れることができない。
受け入れることができないのは、私がきっと知らないから。
人の心をゆさぶる物語に隠された人のこころの動きを知ることができたら、もしかしたらあいつのことも許せるようになるかもしれない。
その時私はきっと、あいつのことを許したかったんだと思う。
でも暴力的なまでの正義を前にして、自分自身を納得させる必要があった。
そこで手にしたのが、村上春樹の小説だったのである。
「海辺のカフカ」
活字恐怖症のきらいのあった私が村上春樹を手に取った理由は、それは単純なものだった。
"ベストセラーっていって売れてるからには、
きっと人のこころを動かす人間らしさが描かれているに違いない"
おお、我ながらなんて単純な発想。
それゆえ、
①聞いたことがある作家の作品で、
②平積みされていて、
③ベストセラー!って書いてある
この3拍子が揃っていた作品、それが当時「海辺のカフカ」だったのだ。
当時の私の読書履歴といったら、
サン=テグジュペリの「星の王子様」か、
ミヒャエル・エンデの「モモ」
とかだったわけでして。
そんな当時の私の正直な「海辺のカフカ」の感想は、
・・・・・・わっからん・・・・・・!!!!
でした。
本当にすみません。なんかもうごめんなさい。
もうね、逐一主人公の行動がわからないんです。
何が起こっているのかわからない。
「?」「?」「?」
の繰り返し。
文学初心者の私にはハードルが高過ぎたのかもしれない。
でも、「海辺のカフカ」を手に取った時、
私はひとつの誓いをしていた。
それは、
【どんなにわからなくてもとにかく最後まで読むこと】
だって人の心がわからないと思ったから読み始めたんだから。
なので、
あたまの周りに「???」を飛ばしつつも
とにかく最後まで、上下巻を読み倒した。
感情を入れず、とにかく登場人物たちの動きを追った。
理解しようとせず、とにかくただただ受け止めた。
それはとても不思議な感覚だった。
自分がいかに何かを受け取りながら「判断」を下しているのかがよくわかった時間だった。
そしてほぼ何も理解できぬまま、小説を読み終えた。
人間ってやつは
それから、私は続けて村上春樹の小説を買っては、とにかく最後まで読む、を繰り返した。
羊をめぐる冒険
ノルウェイの森
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
ねじまき鳥クロニクル
やっぱりほとんどの作品は私には難解で、起こっていることを理解することは難しかったし、ほぼ共感はできなかった。
でも一方で、不思議な読後感を楽しめるようになってきていた。
そこから私は本屋へ行っては、
とにかく目についた本を片っ端から読み続けるようになった。
少しずつ面白いと思える小説との出会いも出てきた。
でも同時に、ベストセラーなのにやはり全く共感できない小説もたくさんあった。
でもその頃には、その小説の持つ世界観を咀嚼できぬままにとにかく飲み込み、そののどごし(時に飲み込めず、時に吐きそうになり、時にぐっとつまり、時にするっと行った)を精一杯感じて観察するようになっていた。
ただ、気づいたことは、
長きにわたり、たくさんの人たちの心に届いてきた物語の主人公たちは
決して完璧なヒーローでは全くないということ。
怒り、
悲しみ、
迷い、
時に情けなく、
時に間違いを犯し、
それでも悩み続け、
立ち上がり、
失敗し、
苦しみ、
だまされ、
それでも歯を食いしばり、
時に戦い、
時に成功したり、
幸せを手に入れたり、
時にそれでもうまくいかなかったりする。
「完璧に正しい」主人公は、ほとんどそこにはいなかった。
たくさんの主人公たちが、もがき悩み苦しんでいた。
そしてふと、あの時私が切ってしまった友人を思い出す。
私は、彼の物語の中で、一体何を理解してあげていたんだろうか?
彼の物語の中にあった、何か苦しみや悩みを少しでも受け取っていただろうか?
もう一度言うけど、
やっぱりだめ。
誰かを傷つけることはだめ。
でも、だったら、
私は彼を傷つけなかったんだろうか?
あの時、わたしは何も聞かなかった。
耳をふさぎ、目を閉じて、そしてそっと離れた。
でもその後、モヤモヤがずっと離れない。
私は間違いなく友達を失った。
だとしたら、きっとその時私がした対応は、
なにかきっと間違っていた。
私にできたことがきっと何かあったはずだったんだ。
だめなところもひっくるめて好きでいられるように
もう一度念を押すと、
浮気はダメです。今でもそう思う。
でも、何にも事情も知らないのに
ただただ責め立てて正義を振りかざした私も
誰かを傷つけていたかもしれない。
間違いを許せない人からはきっと人は離れていく。
だって息苦しいよね。
人は人である限り、ただただずーーーと正しくはきっといられない。
失敗もする。
判断を間違えることもある。
もしかしたら誰かを傷つけてしまうこともある。
私だって気づいていないところできっと誰かに迷惑もかけてるし、誰かを傷つけていることもあるかもしれない。
人を傷つけたくなんかないよ。絶対。
でも本当にそうできているかはわからない。
それでも人は生きていく。
しあわせになるために前にすすんでいく。
間違いをゆるせる人になりたい。
だめなところも愛せる人になりたい。
もう一度立ち上がりやり直していくことを受け入れたい。
大切な人をこれ以上失わないように。
怒りにまかせて誰かを傷つけないように。
またもし自分が許せない出来事が起こったとしても、
怒りで大切なものを見失わないようにしたい。
まだ許せないこともあるかもしれないけど、
理解できないこともあるかもしれないけど、
そんな時は村上春樹の小説を読んでいた時のように、
その人の物語をそのまま一度ただただ観察してみよう。
そしてその人のしあわせを、そっと祈ってみよう。
それくらいは、できるんじゃないだろうか。
そんなことを思いながら時間が経って、
またいつかそいつに会える日がきたら、
今度はお酒を飲みながら、他愛もない話がまたできたらいいな、なんて
そんな風に思えるようになった。
村上春樹氏の小説は、私にはまだまだ早かったけど、
でも自分の想像の枠を飛び越えたその物語のスケールには
本当に感銘を受けたし、
数多ある小説の中で、飛び抜けて存在感があったことは間違いない。
そして何より、私のあの出来事を、
その物語によって浄化してくれ、
私に新しい世界を与えてくれたことに本当に感謝している。
そんな村上春樹氏とはまた別の物語があるのだけれど、
その話はまたいつか。