#映画感想文240『TAR/ター』(2022)
映画『TAR/ター』を映画館で観てきた。
監督・脚本はトッド・フィールド、主演はケイト・ブランシェット、ほかにノエミ・メルラン、ニーナ・ホスが出演している。
2022年製作、158分、アメリカ映画。
リディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、ベルリンフィルハーモニーの常任指揮者であり、周囲からマエストロと呼ばれている。EGOT(エミー賞、グラミー賞、オスカー、トニー賞)を受賞し、博士号も取得。学歴もジュリアード、ハーバードと非の打ち所がない。理論家でもあり、歴史的な知識も十二分にあり、著作もある。トークショーで大衆を惹きつけることもできる。指揮以外のパフォーマンスも優れている。
ターは天才であり、カリスマ性がある。妻と娘がいて、瀟洒な豪邸に住んでいる。この世のすべてを手に入れているかのような人物に見えるが、徐々に綻びが出始める。
ターは影に追われ、女性の悲鳴、耳鳴りのような音叉の高音、メトロノームに悩まされるようになっていく。
序盤で、バッハに敬意を払わない若い男性(おそらく中南米系のマイノリティの男性)を理詰めで追いつめる場面がある。明らかにパワーハラスメントだが、現在の文脈で古典音楽を解釈できるのか、というターの主張は別におかしくない。「作曲家に奉仕しろ」という彼女は真っ当ですらあると思う。「なぜ、無知で凡庸なおまえらが偉大な先人に敬意を払わないのか」という苛立ちがそこにはある。ただ、やり方は高圧的でパフォーマンスが過剰で、わたしがここのボスであり、おまえたちは従え、という明確な意図があり、そこが問題なのだろう。あと、「SNSに毒され過ぎ」と学生を揶揄したター自身が、終盤SNSに追いつめられていくさまは皮肉でもある。
ターが自殺に追い込んだ将来有望な若手指揮者のクリスタ。ターとクリスタのあいだに実際に何があったかはわからない。ターが彼女に恋をしてしまい、それが叶わず、彼女が音楽界に残るための梯子を外したのか。音楽上の対立があったのか。才能を潰しておきたかったのか。(ちなみにノーベル文学賞の選考委員も、同じようなことをしており、その事件を思い出した)
フランチェスカ(ノエミ・メルラン)は、ターのアシスタントで、指揮者志望である。ターは自分の魅力と権力をうまく利用して、彼女を便利使いしているが、フランチェスカ側もターからの見返りを期待している。微妙な関係だが、暗黙の了解を双方が期待しており、それが裏切られると失望はより大きくなる。
パートナーのシャロン(ニーナ・ホス)は、ベルリンフィルハーモニーのコンサートマスターであり、ターは彼女と二人三脚で常任指揮者まで上りつめた。利害関係のある関係しかないとターが嘆くと、養女のペトラだけは違うだろうと冷たくあしらわれる。ターの娘を守ろうという気迫は強烈だった。
大スターだったはずの彼女はパワハラとセクハラを告発され、居場所を失っていく。アメリカの実家に戻って、彼女はVHSでバーンスタインの映像を涙ぐみながら見る。ターが指揮者の仕事とクラシック音楽を愛していることは間違いのないことなのだ。芸術に奉仕しろ、その芸術を一番よく理解しているわたしに従え、という理屈はわからなくはないのだが、幸か不幸か今の時代では通用しなくなっている。
天才芸術家がその傲慢さによって破綻していく、という解釈の立場をわたしは取らない。なぜなら、天才でもなく、能力がない人でも、パワーのある職位にあると、職権を乱用することは、ままある。みなさんの近くにもいるはずだ。無能な凡人が横暴にふるまうことは珍しいことではない。おそらく、自分の権力をうまく使える人はあまりいなくて、そのパワーによって身を滅ぼす、という、ある種の普遍的なことが描かれている。人間は自分が一番かわいいんだから、誰かに奉仕することだけで人生を終えられるほど謙虚な人はいない。誰もがターのように輝けるわけではない。だから、スターは少しずつ恨まれてもいる。誰かの影になることを喜ぶ人はいないし、輝いている人は影を慮る必要がある。
本作はトッド・フィールド監督がケイト・ブランシェットをあて書きして、脚本を書いたのだという。ケイト・ブランシェットありきの作品で、ケイト・ブランシェット様を崇める映画でもある。
映画冒頭で舞台袖で深呼吸を繰り返すターは普通の人に見える。ただ、そのあとは圧倒的な存在感で周囲を魅了し、混乱させる人物である。
ラストでわたしは「???」という状態だった。わたしは何を見せられたのだと久々にざわざわしてしまった。帰宅後に調べると、あれはカプコンのモンスターハンターの音楽であり、観客はモンハンのコスプレをしているのだという。
たかがゲーム音楽だと手を抜く指揮者もいるだろう。零落した自分を甘やかす人もいる。しかし、クラシックの最高峰であるベルリンを離れ、フィリピンの片隅で息を潜めるターは事前の準備をものすごく綿密にやっている。ター自身は、常に音楽に奉仕しているのだ。ただ、それを周囲に強要してしまうと問題になる。(世にいう社畜も、会社に献身をして、ライフワークバランス重視の社員を憎む。ただ、奉仕や献身を強要することはできない。あくまで自主性と自発性が重要なのだ)
トッド・フィールド監督のインタビューでも言及されていたので引用する。
女性でも権力を持てば、パワハラやセクハラをする、というの一面的には正しい。ただ、この現実社会で「ター」のような女性が存在できるとは、とても思えなかった。あのようなふるまいをして、頂点にまで上りつめる、というのは考えにくい。全方向に配慮、配慮、配慮の人でないと、女性の場合、そもそも生き残れない。頂点に立ってから、ふるまいが変わった可能性の方が高いのではないか。天才でも特別でも、潰されてきた女性など、山のようにいる。ターだけを例外にするのは難しい。レズビアンであることも攻撃理由になっただろう。
(終盤、フィリピンの定宿にしているホテルにマッサージ店を紹介してほしい、と依頼すると性風俗店を紹介され、ターが道端で嘔吐するシーンがある。単なるレズビアン、性欲をコントロールできずに転落した指揮者扱いされていることに耐えられない、そのような自分を嫌悪する描写であったように思う。その苦しみは非常に人間味がある。蔑まれ、カテゴライズされ、記号化されることは誰にとってもつらいものだ。)
現代の女性リーダーや管理職は、八方美人的なふるまいを強いられ、お母さん的な優しさを求められ、四方八方から攻撃され、疲労困憊しているのが現実だ。外部からも女性だと一段低く見られる。身内からも、どうせ反撃してこないだろうと思われ、なめられる。周囲が増長して、本人は暴君どころか、平社員の頃より、縮こまっているほうがリアルだと思う。あるいは名誉男性のようになって男社会に順応して、反抗してきた人間を制裁できるようになる人もいる。専制君主として動くとまた違ってくるが、ターは名誉男性ではなかった。
女性プロデューサーの苦闘をコメディドラマにしたティナ・フェイの『30ROCK』では、女性が上に立つことの困難さが丁寧に描かれている。部下は全然言うことを聞かないし、上司もバカにしてくるので、彼女はストレスフルに働いている。ちなみにティナ・フェイは「サタデー・ナイト・ライブ」の女性初のヘッドライターに指名された人で、その指名をした人はアダム・マッケイだと言われている。才能のある人が、才能のある人を引き上げる。すごい世界だ。『30ROCK』は「サタデー・ナイト・ライブ」時代の実体験が反映されている作品だと言われている。アメリカでも、女性リーダーが男性リーダーと同じように活躍するのは難しい現実がある。
とにもかくにも、ケイト・ブランシェット様は偉大なので、その偉大さを堪能すればよいのだと思う。
(ちょいと不可解なのはオーケストラの練習シーンのドイツ語が翻訳されないのは、どのような意図だったのだろう。ケイトが何を指示しているのか、おいらも知りたかったよ)