#映画感想文『ボストン市庁舎』(2020)
フレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー映画『ボストン市庁舎(原題:City Hall)』を映画館で観てきた。
4時間32分と長尺だったが、無事完走した。(まあ、席に座っていただけなのだが、妙な達成感があった)
ボストンの行政を描いた映画である。。
マーティン・ウォルシュ市長は、2014年から2021年の2期の任期を務め、現在はバイデン政権の労働長官に就任している。今年、ボストンの市長になったのは台湾系のミシェル・ウーである。
この映画を観ていれば、アジア系の女性市長が誕生しても、決しておかしくない、というぐらいウォルシュ市長は真っ当な人だった。
彼は「ボストン市は、市民のためにあるのだ」と繰り返し市民に語りかけていく。職員の話を聞き、職員にも語りかける。市のあらゆる行事に出向き、市民と対話を重ねていく。市民が市長を信頼している。これは政治家の支援者回りではない。
(日本の地方自治体は、官僚や国会議員の天下り先みたいになっているところも、ちらほらある事実を考えると、彼のような存在はうらやましい限りだ。)
彼の二期目はちょうどトランプ政権と重なっているので、「オバマ政権のときと比べスムーズにはいかない」と本音を吐露している。
この映画は、市庁舎の内外が描かれていくのだが、すべてがうまくいっているわけではない。
ある会社が、市の認可を受け、大麻のビジネスに乗り出そうとしている。その敷地の周辺住民は猛反発する。ただでさえ、ドラッグや暴力が蔓延しているのに、よそから大麻を求めて人がやってくるなんて耐えられない。その会社の経営者は中国系なのだが、黒人の男性は「あなたたちは黒人を雇いませんよね」と言う。一筋縄ではいかない。いろいろ問題はある。その経営者は「この集会は市から命令されて、仕方がなくやっているが、あなたたちと対話を重ねることはやめない」と言う。そこにいる市の職員は「市に届けられた声はすべてファイリングされる。電話でもメールでも手紙でも何でもいい」と話す。これぞ、民主主義という気がした。もちろん、アメリカの民主主義も完璧ではない。
やはり、この映画の中心にいるのは男性で、話す量が圧倒的に多い。リーダー的な立場にいて、決定権を持っているのは男性で、男性は長く話すことに慣れている。女性は異議申し立てをする側にいるのだな、という場面も、いくつかあった。
それでも、安心するのはウォルシュ市長が「不平等と差別を解消していく。男女平等を目指し、LGBTQの人たちと一緒に歩いていく。私たちは移民の末裔で、あらゆる人種を尊重する」と宣言してくれるからなのだ。
白人の資産の中央値は23万ドルで、黒人の資産の中央値は8ドルという衝撃的な数字も出てくる。白人男性の給料1ドルに対し、ラテン系の女性は49セントであるという統計的データも示される。彼らは、そこを直視して、変えていこうとするから、希望が持てる。
翻りたくもないのだが、どこかの国は、差別や不平等があるという前提すら、認めようとしない。差別を温存しても何も問題ない、という態度だけは頑ななまでに崩さない。
移民は認めず外国人労働者を低賃金で長時間働かせて搾取する。医学部の受験、公務員の採用試験ですら、不平等がまかりとおっており、女性差別があることすら認めない。女性に肉体労働はできない、妊娠・出産で仕事を辞める人がいるから採用しない、などという言い訳がまだまだ通用する。男女の給与格差を無視して、女性が会社の中で発言権も役職もないと知っているのに「映画のレディースデーがあるから、女性は優遇されている」とか、性暴力の加害者の存在を語らず「女性専用車両があるのは不平等だ」とか言い出す人々がいる始末だ。
ボストン市は、某国より、三億光年先に進んでいることだけはわかった。この映画が公開されるだけマシなのだ、ありがたいと考えよう! と思ってしまうのは、やっぱり末期症状なのかもしれない。