もう一度立ち上がる力
何度でも何度でも挑戦すればいい、と言うのは簡単。
それをするには気力、体力が要るし、時間もかかるし、失敗によって自尊心を削ってしまっては元も子もない。
Perfumeは2011年発売の「GLITTER」という曲で、「転ぶのは簡単だけど、立ち上がるときはカロリーが必要」と歌っている。当時「その通りだ」と一人でうなずいたことをよく覚えている。
自尊心を削ってしまうのは、他人ではなく、自分だから、気を付けたほうがいい。自分を鼓舞するより、イジメるような言葉を心の中でつぶやいていることも少なくない。
何かに失敗するのはつらい。不合格も、落選も、拒絶も、ふられるのも、悲しいことだ。でも、それで人生が終わるわけではないし、ひとつの失敗が頭にこびりついて離れないのは、挑戦の回数が足りない、ということでもあるかもしれない。言い方は悪いが、常にいろんなことに挑戦していれば、失敗と成功にたびたび遭遇することになる。ひとつの事象の重み、出来事に対する受け止め方は軽くなる。
恋多き人は一度の失恋を引きずったりはせず、3か月後には新しい恋人が横にいたりする。もちろん、生来のモテる、モテないもあると思うが、打席に立つ回数がすごく多いのではないか。(モテない人は、打席がどこにあるのかわからないってこともあると思う。わたしがそう笑)
そう考えると、わたしの「日常」は、挑戦自体が少ないのかもしれない、と思い始めた。同時並行でいろんなことをやっていれば、ひとつの失敗も笑い飛ばせるだろう。逆にひとつのことしかやっていなければ、そこを焦点化してしまうのは仕方がないことなのだ。
「勉強のすすめ、入信のすすめ」という記事でも書いたのだが、新しい分野の勉強を始めるだけで、新しい世界が広がっていく。資格の勉強の場合、社会の仕組みとも繋がっているので、これまで見てきた風景が違って見えてくることもある。
働くだけでしんどい、土日は心身を休ませるだけで終わってしまう、という気持ちもわかる。わたしも嫌というほど経験してきた。頑張れないときは、ギブアップしても、途中退場してもいい、と思う。
「無職の終わり」という記事で書いた通り、わたしの収入は今、ワーキングプアレベルなのだが、悪いことばかりではない。
今の職場では誰かが誰かを怒鳴ったり、誰かが泣いていたり、急に仕事に難癖を付けられたり、暴言を吐かれたりすることがない。(←おいおい、今までどんな職場にいたんだよ)
なので、精神的な疲労感がなく、勉強したり、noteでアウトプットすることも日常的にできる。仕事の量が少なくて、ときどき手待ち時間がつらいけれど、多忙で土日もサービス残業するよりはどう考えてもマシなのだ。収入が全部支出になってしまうのは、マジでまずいのだけれど。
異常な職場にいるときも、麻痺はしておらず、「ここは異常だ」と客観的に見ていたつもりでいたが、心はかき乱され、頭はパニックになっていたのだと思う。人間はそんなことが繰り返されると、徐々に冷静さを失う。強いストレスにさらされると、ほかのことに取り組む気力が削がれてしまう。
今、資格取得に向けて、勉強をしているが、合格できるとは限らない。合格できないとなると、わたしの転職プランも総崩れとなってしまう。
「絶対、合格しろよ!」と自分に発破をかけていたのだが、だんだん気持ちに変化が生じてきた。
「今回駄目だったら、また受験すればいいよ」
自分にそう声掛けをしてみた。わたしにしては珍しくポジティブな考え方である。単にBプランを考えているだけなのだが、「これしか選択肢がない」と追いつめがちなわたしにしては、ずいぶんと自分に優しい。
ブレネー・ブラウンかTEDあたりで、仕入れた情報だと思うのだが、立ち直る力のある人は、「つらい経験も人生のひとつの味わい」として受け止めているのだという。(ソースがはっきりしたら更新します。なんで感動したのに忘れるかね笑)
ひとつ、ひとつの出来事に過剰な意味づけをするのではなく、人生という大きな枠組みの中で起きたひとつの出来事として捉えるのだという。痛みも喜びも、味わいなのだ。わたしはこの話を聞いて、その「強さ」が素晴らしいなと思ったことを覚えている。
人生には、喜びだけでなく、悲しみ、痛み、苦しみがあるのは大前提で、それに引っ張られるのではなく、ひとつの出来事として味わう。人生の滋味をがそこにある、という考え方をすると、乗り越えられるのだ。そのような人々は、失敗しても、自暴自棄になって、心身ともに不調になることもない。
「ああ、今回はうまくいかなかったのだな。しょうがない。つらいけれど、今後どうすべきか、ゆっくり考えよう」
やっぱり、出来事に真正面から相対するより、一歩引いたところに立って自分を見るぐらいの距離感が大事なのだろう。心持ちの問題と言えども、長年の思考の癖を直すのは難しい。
失敗が嫌いで、挑戦すらしない人がいることも知っている。知り合いのAくんは、バスケットボール部で万年補欠からレギュラーに抜擢されたとたんに、部活自体をやめてしまった。いろいろ言い訳していたが、人からミスを非難されたり、勝敗の責任を負うことから逃げたかったのではないか、とわたしは思った。Bさんは大学院の一次試験、書類選考を通過したのに、二次試験に行かなかった。多忙を理由にしていたが、落ちるのが怖かったのだと思う。そう、転ぶことすらできない人もいる。でも、その生き方も、否定はできない。どんなことが、致命傷になるかは、人によって違うので、その選択は尊重されるべきだと思う。
でも、わたしは「見る前に飛べ!(Leap before you look)」精神でやっていきたいと思っている。怖がっていると、どんどん自分が弱ってしまうような気がして怖い、というのもある。転んだっていい。失敗したことで、自己否定に走らなければ、深い傷にはならない。「失敗しちゃった(てへぺろ)」で終わらせることが大事。
「あの人、骨折してるけど、元気だよね」と言われるような生き方が理想だ。
一度でうまくいくとは限らない。何度、挑戦してもよいし、失敗することを過剰に恥じ入る必要もない。誰かと比べて自己卑下しなくてもよいし、うまくいったからといって高飛車になってもいけない。過剰に失敗することを恐れなければ、できること、やりたいことは増えていく。
自分の人生をもう少し長いスパンで見てもいいのではないか。今は、収入が少ないけれど、その分、時間と精神的余裕があるから、勉強ができる。だから、年収をちょっと上げるために無理に転職活動するのではなく、力を蓄える時間だと思って、気になっていた勉強をすればよいのではないかという考えに変化してきた。次の職場でも疲弊してしまったら、立ち上がれなくなってしまうおそれもある。わたしはまだ万全ではない。もちろん、今の職場で20年働くつもりはないが、1~2年はいても、いいのかもしれない、と思い始めている。
心のうちでは、自分を律するだけでなく、自分を罰することの多い人生だった。自分を労われるようになってきたのは、我ながらうれしい変化でもある。
駄目な自分と失敗する自分をちゃんと自分で許すのだ。他者評価に委ねたり、自罰的になる必要はない。この人生はわたしのものなのだから、もっと気楽にやればいい。