#映画感想文342『若き見知らぬ者たち』(2024)
映画『若き見知らぬ者たち』(2024)を映画館で観てきた。
監督・脚本は内山拓也、出演は磯村勇斗、岸井ゆきの、福山翔大、染谷将太、滝藤賢一、豊原功補、霧島れいか。
2024年製作、119分、日本・フランス・韓国・香港合作。
風間彩人(磯村勇斗)は、難病の母親(霧島れいか)を自宅で介護している。母親には認知症のような症状があり、徘徊やスーパーでの万引き、人の庭に入り込み家庭菜園を荒らすこともあり、彩人はそれらの対応にも追われている。昼間は工事現場で働き、夜は両親が経営していた借金の残っているカラオケバーで働いている。気の休まる瞬間はなく、終わらない介護と毎日の労働に疲れ果て、希死念慮にとらわれている。
弟の壮平(福山翔大)は、ライト級のボクサーで大会を控え、減量に励んでいる。日々に忙殺されている彩人と壮平とのやりとりはどこか殺伐としている。
親友である大和(染谷将太)が結婚することになり、そのパーティーに彩人は誘われる。その日はカラオケバーを早く閉め、パーティーに駆け付ける予定だったのだが、そこに輩、反社会的勢力のような男三人が店に入ってきて、酒を出せと絡みだす。彩人が抵抗を試みると、男の一人によってビール瓶で頭を殴られ大量出血した状態で店の外に連れ出される。
大和の結婚パーティーの様子と、彩人がいたぶられる場面を交互に見せられ、彩人の人生の悲惨さがよりいっそう際立つ。
彩人がリンチされている現場に警察が駆け付けるのだが、以前彩人と小競り合いをしたことのある警官二人だった。そのときは職務質問をされた若者が反発し、それを彩人が助太刀したことから、警官側からすると彩人は反抗的で面白くない人物だった。ベテラン警官(滝藤賢一)は、彩人にターゲットを絞り、彼を加害者として連行して、本来の加害者の三人を今回は見逃してやると放免にしてしまう。パトカーに乗せられた彩人は大量失血により意識を失い、心肺停止となる。若手警官の瀬戸は彩人が被害者であったことに狼狽する。彩人は病院に運ばれるも助からない。うまくいかないとき、極端なまでにすべてが裏目に出る。
彩人の死を不自然に思った大和は警察に捜査を訴えるのだが、警察は事件を隠蔽しなければ捜査の間違いが露見してしまうため動かない。
彩人の死後、難病の母親が手に取ったスクラップブックから、風間家の父親(豊原功補)も警官であったことがわかる。事件解決で表彰されたこともあったのだが、のちに誤認逮捕していたことが判明し精神疾患を患い、退職していたことが明らかになる。カラオケバーは父親のセカンドキャリアとして立ち上げられたものだったのが、トラウマに苦しんだ父親は家族のお金を使い込み、拳銃で自死をする。そこから、三人の家族の苦境が始まったのだろう。
父親は息子二人に「この世のあらゆる暴力から自分の範囲を守るんだよ」と何度も言い聞かせていた。父親の社会や他者に対する不信は息子にも伝染する。
彩人は間違いなく褒められた息子である。しかし、公的福祉に頼ること、家の中に専門家やヘルパーを入れることができていれば、彼がここまで疲弊することもなかったはず。なぜ、助けを求められなかったのか。父親の存在が彼に暗い影を落とし、行動が制限されてしまったのだろう。
とっくに彩人は倒れていてもおかしくなかった。歩けない人をいつまでも歩かせてはいけなかった。無理は十年、二十年できるものではない。当事者が介入を望まず、周囲もそれを放っておけば、ある日限界が訪れる。彩人は遅かれ早かれ死んでいたことは映画の冒頭でも示唆されている。
彩人が可哀想で、ただただ泣いてしまったのだが、家族というのはいつも難しい。幸せな家族には秩序がある。人と人の距離が適切で互いに慮って生きていける。すべての不幸せな家族にはそれらが欠落している。ある種の対人スキルがある段階で獲得できなかった人々はいかに生きるべきなのか。これは世代の問題ではなく、はからずも社会から隔絶されてしまった人々が抱える苦難なのだと思われた。