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#映画感想文297『アニー・ホール』(1977)

映画『アニー・ホール(原題:Annie Hall)』(1977)を観た。

監督・脚本はウディ・アレン、出演はウディ・アレンとダイアン・キートン。

1977年製作、93分、アメリカ映画。

猿渡由紀さんの『ウディ・アレン追放』という本を読み、『アニー・ホール』は、ウディ・アレンとダイアン・キートンが別れてから作られた映画だと知り、すごく驚いた。

普通、撮影中に燃え上がってその後に別れるという方が一般的だろう。彼らは別れてから、恋の始まりとピーク、倦怠期、別れ、よりを戻そうとして失敗する、別離、再会という過程を演じていたのだ。これはすごいことだ。自分たちの経験を追体験して作品を作っていたのである。仕事上のパートナーシップ、絆の強い関係だったのだろうが、お互いへの信頼がすごいなとも思う。

『アニー・ホール』を通しで観るのは、5回目ぐらいだと思うが、ウディ・アレンの喜劇と悲劇の塩梅が本当にちょうどよい。お高くとまったインテリ映画ではなく、終わりを迎えてしまった恋愛がどうにもならないことの悲哀がしっかり描かれている。

映画冒頭には「自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない」という名台詞がある。これは自分を好きになるような人を好きになりたくない(自分のことを好きになる人間なんてろくでもない)という、自己肯定感皆無の言葉であるが、これに苛まれている人は意外と多いのではないか。自己愛は強いくせに、外から見ている冷徹な自分が自己陶酔を許してくれない。

アルビー・シンガー(ウディ・アレン)は何度もカメラ目線でこちらに語りかけてくるし、幼少時の自分にも会いに行ってしまうし、映画的な仕掛けもたくさんある。特に、アルビーがアニー(ダイアン・キートン)をデートに誘うシーンで、二人の会話と同時に、内面のモノローグが字幕に出るという演出があり、一時的に情報量が増え、ちょっとしたパニックになる。まあ、現実では、会話しながら、相手の言葉の裏を探る、というのは、ごく自然にやっていることではある。小説では違和感なくできることでもあるが、映像はそうではない。

そのうえ、恋人のアニーが眼鏡をかけたフランク・シナトラに殺されかける夢を観るのだが、そのフランク・シナトラは、ウディが次に付き合うことになるミア・ファローの元旦那である。現実とも交錯しており、以前、鑑賞したときより、複雑さを増していることに驚く。

ラストでアルビーは、なぜ、わたしたちは恋愛をするのか、と観客に問いかける。「結局、卵がほしかっただけなのかもしれない」と生殖に突き動かされていたと結論付ける。これはアイロニー、ペーソス(悲哀)であるのだが、それだけではなかったでしょうと思わせる効果がある。

自分に合う、運命のような相手に出会ったとしても、徐々にズレが出てきて破綻を迎える。それでも、運命的な相手のことをあきらめきれない。しかし、ふたたび会ったところで喧嘩別れしてしまう。

合う合わないと、続けられる関係か否かは、また別の問題なのだ。そのことがわかっているのに、頭の奥では理解できずに立ち尽くす男がいる。

一緒にいなければならない、という強烈な利害関係があると、人間関係は安定するし、長続きするが、義務感に支えられている関係特有の苦しさはある。好きだから一緒にいるだけの、アルビーとアニーのような関係は、ものすごく脆い。一緒にいる根拠が感情だけなのだから。

コメディシーンもたくさんある。アルビーがアニーの実家に行くと、アニーの弟に呼び出され、「車の運転中、対向車に衝突したいという衝動にかられる」と告白される。アルビーは弟の頭がおかしいと思ってまともに相手をしてやらない。しかし、その衝突願望のある弟に空港まで送られることになってしまう。その弟の運転する車の後部座席で顔面蒼白状態で死を覚悟しているアルビーは最高だった。

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佐藤芽衣
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