映画『シャイニー・シュリンプス! 愉快で愛しい仲間たち』(2019)の感想
セドリック・ル・ギャロ監督のフランス映画『シャイニー・シュリンプス! 愉快で愛しい仲間たち』を映画館で観てきた。
(余談であるが、この日は、とにかく、何も考えたくなかったので、4本連続で映画を観た)
ゲイの水球チームが、LGBTQの大会出場を目指して国内予選を頑張り、本大会に参加する、という話である。
スポーツといえば、スポーツ根性ものをすぐに期待してしまうが、この映画の脚本のすごいところは、とにかく登場人物たちが頑張らない、ところにある。
みんなおしゃべりに興じ、遊んじゃうし、お酒飲んじゃうし、ドラッグもやっちゃうし、セックスしちゃうし、もう地道な鍛錬とか、コツコツ練習を積むとか、やらないのである。
ストイックさのかけらも感じられない。
なぜなら、彼らの目的は、社会において同じつらい境遇の中にいる仲間たちと時間を共有することにあるからなのだ。
一緒にいると楽しいよね、最高じゃん、という小学生レベルの人間関係といってもいい。
しかし、中年になってそれを実行できる、というのは、実はすごいことなのだ。
大人になるとみな利害関係があり、家庭があり、社会的な立場があり、純粋な友達というのは減ってしまう。
彼らは「水球チームの一員であること」を理由に一緒にいられる。
それは、彼らが社会のなか(内側)におらず、アウトサイダーだからこそできることなので、手放しで喜べるものではない。
要するに、彼らは社会の一員、構成員としてカウントされていない。
社会から爪弾きにされ、彼らには安心できる居場所がない。
だから、彼らは意識的にその場所をつくり、ふざけあいながらも、互いに支えあっている。
映画の登場人物たちは、すでにみな中年であるが、幼少期から孤独と戦い、つらい思いをして生きてきたのだろう。
進学のときも不利益があっただろうし、就職活動がうまくいかないこともあったに違いない。
親しい人や見知らぬ人の差別に傷ついたことも数限りないはずだ。
長期的なスパンで人生を考えることができないし、その必要もない彼らが、刹那的な行動を取ってしまうのは、非常に合理的な選択なのである。
そして、この映画は、彼らのそんな行動を責め立てたりはしない。
だめな人たちのあるがままを見せる。
それによって救われたような気持になったのも事実である。
わたしたちは愚かで浅はかな人間に見えるかもしれないが、傷つきやすく、生きていくだけで精一杯なのだから、「今」を存分に楽しもうではないか。
そんなメッセージをわたしは勝手に受け取った。
もっと享楽的に生きても、ばちは当たらないよ、というような。
観る側は肩の力を抜いて、ドタバタ劇を楽しむぐらいでちょうどいい。
頑張らなくたって、チームスポーツやったっていいのよ。