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#映画感想文004『パラサイト 半地下の家族』(2019)

ポン・ジュノ監督の『パラサイト』をIMAXで見てきた。

IMAXでソン・ガンホを見る必要があるのだろうかと逡巡したが、それしか上映がなかったので、2,500円を黙って支払った。その価値はあった。

非常にテンポがよく、観客はすぐにあの貧しい家族を愛するようになる。一方の金持ち家族も、間が抜けており、可愛げがある。不思議ちゃんを演じているお坊ちゃんが、実は鋭い、という描写がよかった。

ただ、この作品の持つ絶望は、韓国社会に関わらず、世界中が抱えている問題で、滅入ることは間違いない。ポン・ジュノ監督も言及していたと思うが、父親の言葉は重い。

「あらかじめ計画を立てなければ、失敗することも落胆することもない

これは、先のことを考えても無駄なのだから、その日暮らしで構わない、という圧倒的な絶望である。将来を考えることを放棄した人たちが多数を占める社会に、どんな未来が待っているのだろう。自分自身をあきらめ、社会に対する期待もない。もちろん、人間は先のことばかりを考えてはいられないし、未来の自分のために今頑張るとういうことがなかなかできない。

努力は退屈で面倒なことの連続によって成立するからである。努力ができるのは才能である、というの事実なのだ。退屈さに耐えながら、未来で得られる報酬を確信できるという楽観とその過程を楽しむ瞬間の認知も必要なのだから。それができるのは、経済的な安定だったり、成功への執着であったり、自己肯定感、他者に対する信頼、安心感など、様々な要素が前提条件となる。短絡的に誰かを怠惰であるとジャッジメントしてはならない。

しかし、私たちは各個人が抱えている背景や問題を可視化することができないので、「自己責任論」なるものが、いまだに大手を振って歩いているのではないだろうか。

(是枝裕和監督の『万引き家族』の家族も、その日暮らしであるが、未来がやってくることに対しては肯定的に見える。それはやはり、子どもの存在が大きい。子どもは身体的に変化するため、視覚的にも成長がわかりやすく、否応なく時間の存在を強調する。絶望はあるはずなのだが、子どもの存在によって、それが曖昧になっている)

『パラサイト』の家族にとって、時間は残酷である。ろくな仕事をしていない両親と大学進学に失敗した長男と長女、彼らが何か悪いことをしたとは思えない。しかし、厳しい競争社会で、敗者でいることを強いられている。

彼らの対比的な存在として、パク社長がいる。

パク社長に象徴されるのは「一線を越えるな」というあの台詞ではあるが、彼は非常に冷淡な人物に見える。妻に対しても、娘と息子に対しても、愛情が見えない。すべてに期待をしていないようにすら見える。彼は自分に見合う美貌を持つ女性を妻に選んだ。妻には仕事の相談などはできないが、家のことはすべて妻に任せることにしている。そこまで自分が介入すると疲れるからだろう。家事や教育は外部委託(アウトソーシング)する原資は与える。妻子を持つことは、ブラックカードを持つことと変わらないのではないか。アクセサリーの一つに過ぎないから、本質的には無関心であり、夫と父親の役割を演じてはいるが、本気にはならない。どこか醒めている。社会的な地位に見合う高台の豪邸と家族。夫が無関心であるため、妻の頓珍漢な行動が放置され続け、それゆえにストーリーは破綻せずに進む。それが結末を象徴しているのかもしれない。

しかし、私はあのお父さんを犯罪者にはしたくなかった。地下室の扉を閉めるハンドルが『パワーハンドル』と段ボールに日本語で書かれていたが、日本で公開されたからカタカナになっていたのか、本当に日本製のああいうものが流通しているのかどうか判断ができないが、ちょいと複雑な気持ちになったのも確かである。

あのお父さんが失敗したビジネスの台湾カステラが、今フジパンから販売されている。本物とは全然違うのだろうけれど、雰囲気はわかり、しみじみと食べた。

そして、この映画を見た多くの人々が、モールス信号を学ばなければならないと思っただろう。いつ役に立つかわからんよ、マジで。

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