「幸せ」にならなくてもいいが、「不幸」になってはいけない
「人生には自分を幸せにしてやる義務がある」というような表現がある。
確かに正しい。
でも、「幸せ」になるのは難しい。満ち足りた人生はなかなか手に入らない。
しかし、「まあまあ」「そこそこ」なら、目指せるような気もするし、維持できる確率もグッとあがる。
思考には癖がある。認知の歪みにはいくつかあり、わたしは「白黒思考」に陥っていることが多い。(下記サイトの説明がわかりやすいので、どうぞ)
何か一つ駄目になると、
「わたしの人生全部駄目。もう、さっさと終わらせたい。あー、〇にたい」
となってしまう。
短絡的で打たれ弱い。でも、口に出さないだけで、こんな思考を繰り返している人は意外と多いのではないか。みんな分別があるから、口には出さないだけで。わたしだって、noteには書くけど、人には言わない。ひとり言では言っているけれど。
この思考の繰り返しが、年を重ねるごとにしんどくなってきた。
たぶん、体力や内臓機能が落ちてしまったせいだと思われる。ストレスにも弱くなってきたのだと思う。
(ネット上でよく見かける)自分をまともだと思っている人が、まともでない人に説教しているような文章を読むと、本当に耐えられない。前者の傲慢さには腹が立つし、後者の浅はかさには既視感があるせいだ。でも、わたしは、おそらく、その前者と後者のあいだにいるので、共感性羞恥で、いてもたってもいられなくなり、苦痛を感じる。だから、「見ない」「読まない」という選択をしなさい、という話なのだ。ネットサーフィンで悪酔いをする、というのは何度となく繰り返している。
もう、「幸せ」じゃなくていい。日々、しっかり生活ができていれば、それでいい。だから、極端に「おまえは無能なんだから、さっさと〇〇」と考えるのをやめたい。自分に優しい言葉をかけてやれない。なぜだか、わたしは競争主義社会、新自由主義の申し子のような思考回路になってしまっている。
負けず嫌いな性格も災いしているなあ、と思う。
自分のミスも気にしない。顧みない人が心底うらやましい。意外と、物事と真正面から対峙することを避けている人も多い。おそらく、彼らは命に関わることとか、実害に対しては敏感なのだと思うけれど、それ以外は流しているのかもしれない。
わたしにとって「不幸」とは、自己否定をボディブローのように繰り返し、自分に「はやく〇にましょう」と教唆することなのである。
「幸せ」にならくなていいから、「不幸」から遠ざかりたい。