#映画感想文243『戦場のメリークリスマス』(1983)
映画『戦場のメリークリスマス(原題:Merry Christmas Mr. Lawrence)』(1983)を映画館で観てきた。
監督は大島渚、脚本は大島渚とポール・メイヤーズバーグ、出演者はデビッド・ボウイ、トム・コンティ、坂本龍一、ビートたけし。
1983年、123分、日本・イギリス・ニュージーランド合作。
2023年3月28日に坂本龍一さんが亡くなり、現在、追悼上映として公開されている。去年から4Kで修復された大島渚監督の作品はちょこちょこ公開されていたが、タイミングが合わず、観そびれていた。
今回、大きなスクリーンで、初めて本作を観た。あまり期待せず、教養的な学びを得るために観に行った。
いやはや、まいったね。己の不明を恥じた。
「不明を恥じる」という日本語をちゃんと使うのも、今回が初めてだと思う。それぐらい衝撃的だった。先入観や偏見で、大島作品を避けていた自分は愚かだった。それぐらい素晴らしくて、驚嘆した。
(なんか、さっきから大袈裟な表現ばかりが続き、あたいも大島渚チックになってるわよ)
大島渚監督は、キワモノで自分の芸術的な感覚を強引に推し進めてしまう人という、勝手なイメージがあった。野坂昭如氏との一件もあり、かなりエキセントリックな人だと思っていた。
フジテレビの『ボキャブラ天国』においては、「だから、BOOMERは駄目なんだ!」と、芸人のBOOMERにはなぜか過剰なまでに当たりの強い、理不尽な人だった。しかしながら、大島渚に叱られるって勲章ものだよな、とも子どもながらに思ってもいたので、偉大な監督だという認識はあった。
この作品を観て、「なんだ、本人のキャラクターだけじゃなくて、映画もすごいじゃん。いや、映画がすごい人じゃん」と認識を改めることとなった。
舞台は1942年のジャワ島。第二次世界大戦の最中であり、日本統治下である。現地の人々はほとんど出てこず、日本軍俘虜収容所にいる英国軍の軍人と日本の軍人たちの日々の生活が描かれる。
映画冒頭、カネモトという朝鮮系の軍人が、オランダ人捕虜のデ・ヨンを強姦する、という事件を起こす。ここでカネモトはハラ軍曹(ビートたけし)からネチネチと辱められ、軍の風紀を乱したとして、衆目の中、切腹をさせられる。この日本の軍人の狂気と残虐性は、旧日本軍の病巣であり、大島渚は躊躇いなくそれを描いている。また、カネモトが朝鮮系だから、虐められたのだとも読み取れる。ジュネーブ条約をガン無視し、戦場で民間人の殺戮と強姦を繰り返していた旧日本軍に、まともな倫理観があったとは思えない。当時の、そして戦後にも残ったあからさまな差別意識、日本の植民地主義が、この一件に詰まっている。
捕虜の一人である英国陸軍中佐のジョン・ローレンス(トム・コンティ)は、来日経験もあり、日本語が話せるため通訳として働かされている。ただ、冒頭5分ぐらいのローレンスとハラ軍曹(ビートたけし)の日本語が何を言っているか、まったく理解できず、字幕を付けてくれ、と思ってしまった。むしろ、英語の方が、簡単な英語をはっきり、ゆっくり話してくれるのでわかりやすいぐらいだった。
捕虜収容所の所長であるヨノイ大尉を坂本龍一が演じている。英国陸軍少佐のジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)を捕虜に加えることになり、ヨノイ大尉は平常心を保てなくなっていく。セリアズのオーラや魅力に翻弄されてしまう。彼はセリアズによって、自分の心が搔き乱されていくことをいつまでも認められないのだが、本人以外は全員気付いている。そこは滑稽で、ちょっとコントチックですらある。はじめはセリアズを屈服させるため、銃殺をセリアズに体験させる。屋内で処刑部隊が一斉にセリアズに向かって発砲するのだが銃弾は彼の体には一つも当たらない。「死」を疑似体験させて、逆らわないよう、反抗できると思うなよ、と洗礼を与える。自分が支配者であり、おまえは被支配者(捕虜)であるという宣告である。こんなことがあったら、たいていの人間は委縮する。
その後、ヨノイ大尉は迷走する。大声を出して真剣で稽古をしたり(マジで危ない)、捕虜側のリーダーをセリアズに交代させようとしたりする。「ヨノイ大尉を惑わすものを取り除きたい」とセリアズを襲う軍人まで出てくる。セリアズに魅了されていることに狼狽するばかりのヨノイ大尉の無垢さに、こちらまでハラハラする。ヨノイ大尉は、自分のセクシャリティを直視できないのだ。
対照的なのはハラ軍曹で、彼は英語も話せず、教養などもなさそうなのだが、実務には長けており、戦死扱いにして遺族が恩給をもらえるように取り計らったりしている。野蛮で何をしでかすかわからない狂人の側面と、淡々と仕事を処理する面が描かれ、ビートたけしの無表情の演技によって、ハラ軍曹は単に上官に服従する人物ではなく自分の頭で考えられる人であることがわかる。何が起きても念仏を唱え続ける場面と、「セリアズもローレンスも大して価値のある人物でないから、独房に入れておく必要すらない」と平然と言い放ったシーンにはすごみがあった。
ジャワ島は日本軍の統治下ではあるものの、日本軍の戦況自体は芳しくない。そこでヨノイ大尉は英国空軍から軍事機密や銃火器などの情報を得たいと考えるが、捕虜の隊長に「何もない」と拒否され、何も進まないことに苛立ちを隠せなくなっていく。
そして、セリアズは無線ラジオを無断で捕虜収容所に持ち込んだという罪で独房に入れられる。そこでイギリス時代のことを回想する。異国の地で、囚われの身で自由はないと過去が追いかけてくる。
セリアズの家は、おそらく中産階級で、美しい花が咲き乱れる庭付の家に住んでいた。彼には弟がいるのだが、背中に障害があり、それが原因でおそらく背が伸びるスピードなどが遅かったのだと思われる。弟は美しい歌声を持っており、その歌声がセリアズの頭にもいつまでも残っている。
とある日曜日、教会でみんなで聖歌を歌っているとき、弟が音程が外れていると人のことを笑ってしまう。すると、馬鹿にされたと感じた少年グループは、セリアズ兄弟を待ち伏せして、リンチする。そして、成長した弟が兄と同じパブリックスクールに入ると、障害があることを嘲笑され、見世物にされ、彼は袋叩きにあってしまう。そのホモソーシャルな空間、男たちが一人の男を生贄にして友情を深める、イギリス人の残酷さも描かれている。
セリアズが抱えているのは「悔恨」である。弟がイジメられたとき、ちゃんと助けてやれなかった自分。ベッドで「兄さんにまで嫌われた」と泣きじゃくる弟に、彼は慰めの言葉すらかけられない。身内に完璧でいてほしい、身内に恥をかかされたくない、というのは十代の若者なら、誰しも抱えている葛藤だ。自分の親や兄弟を恥ずかしく思ったりした経験がない人はいないはずだ。弟がリンチにあっているのに見てみぬふりをして闘わなかった自分。臆病で勇気のない、狡い自分に対する自己嫌悪。自分のナルシシズムのくだらなさ。セリアズはさらに弟を遠ざけ、二人は疎遠になる。セリアズ自身は弁護士だったものの、英国軍に飛び込むことになる。
終盤、軍事情報を寄こさない捕虜側のリーダーに業を煮やしたヨノイ大尉は、彼に刀を向ける。見せしめに処刑するつもりだったのだろう。そこにセリアズが現れ、完全と立ち向かい、ヨノイ大尉の両頬に口づけをする。陶然としているのか、唖然としているのかわからないヨノイ大尉はショックでそのまま倒れ、更迭となる。
このセリアズの行動は、弟を救えなかった自分を乗り越える、自身の悔恨を克服するためであり、過去の自分を振り払うためのものだ。彼はこの件によって、処刑となるのだが、それを後悔はしていないはずだ。
新しい捕虜収容所の所長は、セリアズを地中に生き埋めにして処刑する。日本軍らしい残忍なやり口である。そして、真夜中にヨノイ大尉はたった一人でやって来て、セリアズの髪を切り、紙に包み、敬礼をして、その場を立ち去る。図らずも愛してしまった人の髪だけは持っていたいなんて、やっぱり、そこは大島渚だなあ、と思ってしまった。
日本は敗戦を迎え、ヨノイ大尉は処刑され、1946年のクリスマス前日、ハラ軍曹は死刑執行を待っていた。ローレンスに来てくれと手紙を出しており、彼は面会にやって来てくれる。ハラは獄中で英語の勉強をしており、ここではローレンスとハラは英語で言葉をかわす。「自分と同じことをしても、罰されない軍人がいるのは納得できない」と不満をもらすが、死ぬ覚悟はできている、と述べる。収容所にいたとき、ハラは「日本人は捕虜になる前に自決するから捕虜はいない。なぜ、おまえらは自決しないんだ」とローレンスにぶつくさモラハラをしていたことがこちらの頭をよぎる。
終戦後、ローレンスは自由を手に入れ、逆にハラは命を奪われる立場となる。ローレンスが立ち去ろうとしたとき、ハラが日本語の発音で「ローレンス」と怒鳴って彼を呼び止める。ハラ軍曹が、彼を小間使いしていたときの言い方で、ぎょっとする。そして、あのタイトルでもある名台詞が登場する。
「Merry Christmas, Merry Christmas, Mr. Lawrence」
ハラの目は涙で滲んでおり、はにかんだような表情のアップでこの映画は終わる。
坂本龍一の目元のメイクは、セクシャリティの演出でもあるのだろうけれど、すべてのシーンで顔が美しかった。それはビートたけしも、デヴィッド・ボウイも、トム・コンティも同じで、全員美しかった。ビートたけしの目は、左目が二重で、右目が一重なのだけれど、そのアシンメトリーがはっきりわかっても、なお美しい。当時の役者さんは歯科矯正をしていないのだけれど、それでもやはり美しい。
いい映画って、人間の顔の造形とは関係なく、どの顔も美しく撮られているから不思議だ。
そして、すべてのシーンの構図が、人間の配置、背景のジャワ島の風景、空の色までもが、すべて計算し尽くされているかのように美しかった。美術のことがさっぱりわからないわたしにもわかるぐらい、美しかった。それは撮影監督の成島東一郎のすごさなのかもしれない。
それだけでなく、1980年代に、ホモセクシュアリティとホモソーシャルを作品のモチーフにするという、その大胆さにも驚く。そして、旧日本軍に対する痛烈な批判として、その残忍さと狂気が描かれている。
宇多田ヒカルが『Merry Christmas, Mr. Lawrence』をサンプリングした曲でマントラを唱えていた理由も、ようやく理解できた。
上のモルモット吉田さんの記事も面白かったので、おすすめしたい。大規模な映画館での公開は、これが最後になるらしいので、お時間のある方はぜひ。
(自分でも信じられないのだが、この記事を書くのに3時間もかかってしまった笑。あとで配信でも見て気付いたことがあれば追記したいと思う)
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