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”F”について:映画「ショーシャンクの空に」再考:「ショーシャンクの空に」と「ひとりあそびの教科書」:外部への脱獄から、内部からの「あそび」による社会システム変革の可能性へ
こんにちは、めいです。
今回の記事は、1994年に公開された映画「ショーシャンクの空に」について、「あそび」という概念を接続させた、新しい解釈を展開しようと思います。
はじめに
映画「ショーシャンクの空に」
この映画を観たことのある人・観ていなくても名前だけ知っている人が多い映画だと思います。
映画評論家の町山智浩氏は、本作の舞台である刑務所を「人生そのもの」の象徴として捉え、主人公が刑務所に穴を掘り続け、ついに脱獄を果たすシーンについて、「自分の好きなものを徹底的に掘っていけば、向こう側に抜けられる」と解説しています。
確かにこの解釈は、多くの観客の心を打ち、この映画に希望のメッセージを見出す重要な定説となっています。
今の情報社会に「外部」はない。刑務所=社会から脱獄することはできない
しかし、現代の情報社会において、この「脱獄」という行為は、本当に自由を得た、真の解放と言えるのでしょうか?
刑務所の外=外部は、果たして存在するのでしょうか?
現代の情報社会は、まさにパノプティコン(一望監視施設)としての刑務所と同じ構造を持っています。
SNSでの「いいね」の数や、デジタルプラットフォームでの評価システムは、刑務所における「模範囚」の評価システムと本質的に変わりません。
僕たちは常にスマートフォンを通じて監視され、同時に他者を監視する存在となっています。
現代の情報社会における監視するものと監視されるもの。
この二重の監視構造は、刑務所における看守と囚人の関係性を社会全体に拡大したものと言えます。
特に注目すべきは、この監視システムからの「外部」がもはや存在しないという事実です。
インターネットやスマートフォンを通じて、僕たちは常時接続された状態にあり、SNSやデジタルプラットフォームが作り出す同調圧力や監視の目から完全に逃れることは、事実上不可能となっています。
このような状況において、「ショーシャンクの空に」で描かれる「脱獄」という物理的な逃走は、現代社会における自由を得る手段としては有効性を失っているのではないでしょうか。
なぜなら、たとえ物理的な「外部」に出たとしても、SNSをはじめとする、デジタルネットワークという新たな「刑務所」からは逃れられないからです。
そこで、「外部への脱出」して自由を得る、という従来の物語の解釈ではなく、システムの内部からの変革という新しい可能性を模索する必要があると考えました。
その鍵になるのではないかと着目したのが「あそび」というキーワードです。
しかも、それは既存のルールに従う「あそび」ではなく、全く新しい形の「あそび」でなければならないと考えました。
「ショーシャンクの空に」における「あそび」の分析:制度化された「あそび」から創造的な「あそび」へ
「ショーシャンクの空に」に登場する遊びは、大きく二つの性質に分類できます。
一方は、チェスや図書館活動といった「制度化されたあそび」です。
映画内では、キャッチボール・チェス・音楽・映画鑑賞・図書館の設立といった、「あそび」が登場します。
これらの活動は、一見すると囚人たちに、一時の自由と解放感を与えているように見えます。
しかし、実際にはシステムによって許可された、このルールに則って一時の開放感を得てほしいと提示された「あそび」であり、むしろ刑務所システムを安定化させる役割を果たしています。
注目すべきは、これらの「制度化されたあそび」を提供したのが主人公アンディ自身だという点です。
彼は確かに囚人たちの生活を豊かにしました。
しかし、それは既存のシステム=刑務所の枠内での改善に過ぎません。
そして最終的に、これらの活動ではシステムを根本的に変革できないことを彼は悟り、脱獄という選択をします。
対して、本当に必要なのは「創造的なあそび」ではないかと考えます。これは、あらかじめルールが設定された「あそび」に縛られず、遊び手自身が新しい規則や意味を生み出していく活動ではないかと考えます。
「創造的なあそび」こそが、システムを内部から変革する力を持つのではないでしょうか。なぜなら、この「あそび」は、これまでのシステムが想定していない新しい価値や関係性を生み出すからです。
主人公のアンディが取るべき行動だったのは「脱獄」ではなく、むしろ新しいかたちの「あそび」を創造し、それを通じて刑務所というシステム全体の内部から変革していくことだったのではないでしょうか?
劇中のクライマックスでのアンディの脱獄シーンは、刑務所から脱出して、自分の自由を獲得したシーンのようにみえますが、この「あそび」の文脈を適用したとき、自由の獲得ではなく、根本的に変革できない社会システム=刑務所から逃走・敗北のシーンとして提示されてしまうのです。
ではどうすればよかったのでしょうか?
「ひとりあそびの教科書」との接続
ここで「ショーシャンクの空に」と1冊の本を接続させ、現代の情報社会における新しい自由の獲得の可能性について試みたいと思います。
その本は、評論家である宇野常寛氏の著書「ひとりあそびの教科書 (14歳の世渡り術)」です。
この本は、中高生向けに書かれた本で、ひとりで孤独に行う「ひとりあそび」の価値を説いた本です。
他人の顔色やSNSやインターネットの情報に流されない、人間ではなく「もの」や「こと」といった事物自体に純粋に向き合い、味わい、自分の考えを持って世界と向き合う重要な行為として「ひとりあそび」を提唱しています。
本著では、「ひとりあそび」を行う際のルールを4つ提示しています。
①人間以外の「ものごと」にかかわる
②「違いがわかる」までやる
③「目的」をもたないでやる
④人と比べない、見せびらかさない
そして本著の終盤では、ゲームで「あそぶ」ときのコツの論理が展開され、ゲームの本当のおもしろさを引き出したければ
決められたとおりにプレイしない。
ゲームにあそばれず、ゲームであそぶ
ゼロから自分でゲームを「つくる」ことを提唱しています。
ここで注目したのは、③「目的」をもたないでやる、とゼロから自分でゲームを「つくる」こと、の2つの文章です。
「ひとりあそびの教科書」が提示する「目的を持たないあそび」という行為において、特に重要なだと思うのは以下の三つの要素です。
第一に、「ものごと」そのものと向き合うという姿勢です。これは、SNSでの評価や他者の視線から離れ、ものごとそのものと純粋に向き合うことを意味します。
第二に、「違いがわかる」までやるという態度です。これは、表面的な理解や一般的な価値基準を超えた、新しい意味や価値を発見する過程です。
第三に、「つくる」という行為の重視です。これは刑務所から与えられた「制度化されたあそび」によって得られる、単なる消費や一時的な退屈しのぎではなく、自分自身で問題設定をし、「目的」を排除し、ただ「つくる」ということ自体を目的として行動することで、純粋にものごとが楽しむ行動す。
そもそも「あそび」は何か目的を持ってすることではなく、それ自体が面白く、楽しいからやるものです。それをすること自体がおもしろく、楽しいから人間は「あそび」からたくさんのことを学ぶことができる、と宇野常寛氏は「ひとりあそびの教科書」で主張しています。
そして、ゼロから「あそび」を創造することで、これまでの「制度化されたあそび」や決められたルールからの解放を通じて、新しい価値を創造することが「ショーシャンクの空に」には必要だったのです。
アンディに必要だったのは、劇中で囚人たちに与える「制度化されたあそび」=ゲームで遊ばれる、ではなく、まさにこの創造的な「ひとりあそび」=ゲームで遊ぶを実行することであった、と思います。
これこそが本当の脱獄という、自分自身の本当の自由の獲得につながるのではないか、と僕は考えます。
個人の「ひとりあそび」から刑務所内部=社会システムの変革へ
つまり、「ショーシャンクの空に」の新しい解釈は以下のとおりです。
主人公アンディは、刑務所から脱獄するのではなく、刑務所内にとどまり、ゼロからあそぶこと自体を目的とした「あそび」を創造し、その「あそび」の価値観をほかの囚人に伝え、更には刑務所内の看守・所長にも伝播させ、刑務所=社会システムを内部から変革させるべきだったのではないでしょうか?
ゼロからの「ひとりあそび」を創造することで、刑務所内の社会システムを内側から変革させる。これが真の脱獄ではないかと考えます。それには三段階の要素が必要ではないかと思います。
まず第一段階として、既存の「制度化されたあそび」からの解放が必要です。
映画の中でアンディが提供したチェスや図書館活動は、刑務所システムを補強する機能しか持っていません。
これらの活動は「模範囚」という評価システムの一部となっており、真の自由とは程遠いものです。
この段階では、他者からの評価や承認を求める活動から意識的に距離を置くことが重要です。
SNSやインターネットといった、タイムラインの流れから一旦離れ、自分自身が何を本当に大切にしているのか、何に心を動かされるのか、を見つめ直す事が必要です。
第二段階では、創造的な「ひとりあそび」を実践します。これは目的を持たない純粋な「あそび」であり、刑務所内でおこる出来事や空間を、一般的な解釈で考えず、新たな視点から捉え直します。
僕達の日常生活に、この「ひとりあそび」を適用してみた場合、日々の自分の生活の中で起こっている出来事・味わっている娯楽が「制度化されたあそび」に当てはまっていないか、社会や娯楽から提示された「ゲーム」のルールを、何気なく享受していないかを自分に問い直す必要があるのではないか、と考えます。
第三段階では、この創造的な「ひとりあそび」から生まれた新しい価値観を、ほかの囚人たちと共有していくことです。看守や所長を含めた刑務所全体のコミュニティに影響を与えることで、システムの内部から新しい関係性を構築していく過程です。
自分自身が純粋にあそぶことを目的とした「ひとりあそび」を確定させ、この「ひとりあそび」の価値観を他者へと伝える・もしくはサードプレイスなどのコミュニティに加入して、「ひとりあそび」の実践方法を伝播させていくことが必要なのではないかと思います。
これらの活動は、最初は個人的な「ひとりあそび」として始まりますが、その「あそび」の創造性を徐々に周囲へと影響を与えることで、最終的には刑務所システム全体=自分の人生・または自分の所属しているコミュニティ・社会の在り方を問い直すきっかけとなるのではないでしょうか。
僕達の日常生活に適用すると、普段の何気ない活動や出来事に対して、目的を持たず、誰からの指示や称賛も必要とせず、ものごと自体を純粋に楽しむ「ひとりあそび」の姿勢をもつことで、新しい自由の可能性が広がるのではないではないか。
これが僕の考えた「ショーシャンクの空に」を鑑賞して考えた最終的な結論です。
終わりに
情報社会が発達し、スマートフォンやSNSが日常となった現代において、「ショーシャンクの空に」が示す「脱獄」という物理的な解放は、もはや有効な選択肢とはなり得ません。
なぜなら、僕たちは常に監視され、また監視する存在として、デジタルネットワークという新たな「刑務所」の中に生きているからです。
その状況を打開する案として、「創造的なあそび」による内部からのシステム変革という視点からの論理を展開しようと試みました。
宇野常寛氏が「ひとりあそびの教科書」で説くように、目的を持たず、誰からの指示や称賛も必要とせず、ものごと自体を純粋に楽しむ態度。
それこそが個人の自由を獲得する新たな可能性ではないかと思います。
アンディが「脱獄」して自由を獲得するシーンは、確かに個人の自由を獲得する物語として多くの人々の心を打ち、観客の「感動」を呼び起こしたのかもしれません。
しかし、現代において必要なのは、既存の社会システム=刑務所からの逃避ではなく、創造的な「あそび」を通じた内部からの変革なのです。この解釈をもって、「ショーシャンクの空に」を現代社会における希望の物語として、改めて捉え直したいと考えます。
以上が、僕が考えた映画「ショーシャンクの空に」の再解釈となります。
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最後までお読みいただきありがとうございました。