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読書日記:「阿修羅のごとく」、「わたしは家族がわからない」、「凪のお暇」日本人にかけられた「普通の家族」という呪い

そして日本の女性が「ノーと言える」ようになるまで

向田邦子「阿修羅のごとく」、ヤマモトリエ「私は家族がわからない」、コナリミサト「凪のお暇」


 
<ネタバレ注意! 以下の文章はネタバレしてます。これから読むって方はご注意>
 

Netflixで公開している向田邦子原作「阿修羅のごとく」を見終わった。
 
舞台は1970年代の東京。定年退職した父親に愛人と子供がいることが分かり、すでに成人している四姉妹に激震が走ることから、物語は始まる。
家族や姉妹、結婚とは何かについての問いを投げかける、何度も映像化されてきた名作だ。

令和版ともいえる今回は、是枝裕和監督の映画のような美しい映像と、宮沢りえ等の豪華な俳優陣の演技が素晴らしい。ちなみに1970年代の第一回の放映時、私は幼児だったのだが、オープニングのトルコ音楽が斬新だったのを覚えている。両親が楽しみに見ていたのだろう(放映が始まると部屋に行って寝るように言いつけられていた。大人になって作品を見て、子供に見せなかった意味が分かった)。
 
父の浮気が発覚した後の姉妹の反応は各人各様だ。一番上の姉の綱子(宮沢りえ)は自身が妻のある男と恋愛をしている。次女の巻子(尾野真千子)は夫(本木雅弘)の浮気を疑っている。そして、浮気をされた、今風にいえば「サレ妻」のふじ(松坂慶子)は浮気を知りつつ、何も知らないように振る舞い続ける。だが、新聞に投稿をし、浮気を知っているとは告げずに波風をたてないのほうが、本当に妻として賢明なのだろうか、と思いを吐き出す。
 
「夫の不実を知っても、黙って耐える妻が賢い。浮気を知って騒ぐのは、妻が一番やってはいけないことだよ」
 
これは私が知り合いのオジサンに今から25年ぐらい前、つまり平成の初頭に言われたセリフである。オジサンはたぶん昭和30年代の生まれで、今は70代になっていると思う。
 
「そんなの不公平だ」
 
と当時、若い娘だった私は思ったが、実際、昭和の祖母や母親たちの世代は、夫が浮気しても、ふじのように黙って耐えることが多かったのだと思う。(そして、そうすると賢妻と賛美された)
 
女性が「クリスマスケーキ」とモノのように揶揄され、寿退社(これ、死語ね)が当たり前だった時代、夫の浮気を知っても、離婚してシングルマザーとして子供を育てることは今よりもさらに難しかったはずだ。特に明治以降、日本の家族制度は意図的に父親が中心の父権社会として作られたため、父親の権威がやたらに強く、ふじの世代では、
 
「女は黙っておけ」、「自分の意見を持つ女は可愛くない」
 
と女性が意見を持ったり、ノーということが、まるで罪悪のように扱われていた。人間なのだから、生きていれば男だろうと女だろうと誰しも意見はある。嫌なものは嫌だ。だが、それを声に出して言うことは、一部の特権的女性を除き、ふじの世代の女性にとっては、社会に対して反旗を翻すに等しかった。そのため、「阿修羅のごとく」では、ふじは死ぬまで夫に浮気を問いただせない。

 戦後世代である次女の巻子もなかなか夫に向き合うことができないでいる。ふじの疑問=「妻は黙っていて、家庭に波風を立てないほうがいいのか」を受け継いでしまっているのだ。
 
 結局、巻子は悩みに悩んだ末に夫に疑念をぶつける。ふじは、大正の終わりごろの生まれ、巻子は年齢的には戦中の生まれだろう。妻が、夫の浮気に対して声を出してノーを言うまで、一世代かかっているわけだ。
 
 では、今の時代の女たちは、「ノー」が言えているのか。

 やまもとりえの「わたしは家族がわからない」の美咲は現代=令和の、パート主婦だ。公務員の夫がよそに家庭を持っていると勘づいていながら、1週間も家に帰って来なくても直接は何も聞かない。何もなかったように、1人娘と夫の3人で鍋を囲む。

 美咲の口癖は「普通がいちばん」。実は、これは美咲の母親の口癖である。母親は父親とうまく行っておらず、
 
「口を開けば、自分の生い立ちや夫への恨み言しかでてこず、自分のことしか見えていない。“普通の幸せ”にあこがれて、不幸なまま」。
 
美咲は現実に向き合わない母を嫌悪しつつ、同時に、母のあこがれる「普通の幸せ」に自分も固執している。夫に問いただして、「普通の幸せ」を壊すぐらいなら「私1人が我慢すればいい話なのだ」と考える。母親を批判しながらも内在化しているのは、巻子と同じだ。これはもう、「呪い」としか言いようがない。
 
でも、いったい「普通の幸せ」って何なんだろうねぇ。
 
美咲の夫は「美咲の言う”普通”はハードルが高くてしんどい」と思っているが、口に出さない。そして、血縁のない他人が集まって暮らしている「普通でない」家族に入り込み、そこで安らぎを見出す。

誰かの普通は自分にとっての普通ではないし、そもそも家庭に定型などないはずなのだが。
 
「普通の家族」の「普通の幸せ」の呪いは、コナリミサト「凪のお暇」にも登場する。

主人公の元カレである慎二の家族は、東京のいわゆるアッパーミドルクラス。世間的には恵まれているが、父親には愛人がおり不在、母親の関心は家族から自分に移っており、その結果、家事は放棄し、整形ばかり繰り返して遊び暮らしている。優秀だった兄は引きこもりになっている。その兄は日曜夜6時からのファミリー向けアニメ2本を見ては、テレビが壊れるほど、荒れる。働きものの父がいて、料理上手のお母さんの作った唐揚げを食べながら子供たちが今日あった出来事を話するような「普通の家族」が欲しかったと。
 
日曜夜6時からのファミリー向けアニメとはサザエさんであり、まるこちゃんだと思うが、両作品の描く昭和の「普通の家庭」は、令和の世では少数派で、もはやファンタジーの世界だろう(特にサザエさん)。だが、何世代も前の作品が描き出す幸せな家族の食卓のイメージに、人はとらわれ続ける(だから美咲は家族で鍋を囲むことにこだわる)。もはや、サザエさんの呪いだ。
 
美咲の娘は、高校生になり、父親がもはや帰って来ないことを悟っている(夫と向き合わない美咲は分かっていない)。父と娘の間には対話があり、娘は父を自分なりの方法で理解しようとし、実際、理解している。娘は美咲に「私も普通の人と結婚しようと思う」と告げる。一見、祖母の「呪い」の継承か、とも思えるが、実は、ここで娘の言う「普通の人」は美咲の思う普通とは違うのだ。美咲は理解していないだろうが。
 
 時代は大正、昭和、平成、令和へ移った。

 今、理不尽なことや性暴力にノーと言った女性たちがニュースになっている。彼女たちに対しての不当な個人攻撃や感情的な中傷を見ていると(ちゃんとした意見もあるが)、いまだにノーと声をあげる女に対して抵抗があったり生理的に受け付けない人間が多い(男女問わず)ことが分かる。自分がつかまってきた何かが脅かされる気持ちになるのだろうか。理屈ではなく感情論だけに、より問題の根深さを感じる。

 だが、時代は非常にゆっくりだけれど、変化しているのだ。

 象徴的なのが、「わたしは家族がわからない」で、主人公の美咲がパートを辞めたあとの後任の若い女性(きっと平成生まれ)が、噂話ばかりする年配の従業員にきっぱり「興味ないです。あと顔近いです」と拒絶するシーンである。美咲が不快に思っていても長年、愛想笑いで我慢していたことを、この若い女性は迷いなく、瞬時に、飛び越える。爽快!

令和に生きる私たちは、世間体とか、どっかの誰かが作った理不尽な規範や、時代遅れの定型化した「幸せ」のイメージには、もはや従いたくないし、従う必要もない。私たちはもっと自由になりたいし、なれるはずだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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