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『小さなことに左右されない、「本当の自信」を手に入れる9のステップ』〜メモと気付き①〜


どこで読んだか忘れてしまったが、あるブログで「このコロナ禍で、元々その人が持っていた問題が助長されている」といったニュアンスの内容を読んで、とっても納得した。

人生や他人に対する怒りや悲しみ、責める気持ちなど、元々その人が抱えていた感情のタネが、ドラえもんのビックライトに照らされたかのように、大きく感じる。

私の抱えていた問題は「自己肯定感の低さからくる気の遣いすぎ」だ。人生が上手く行っていないときに感じやすいこの問題と、今あらためて向き合っている。

「気の遣いすぎ」と言っても、オドオドしたり何でも遠慮がちという訳ではない。相手のことを本当に思った気遣いというより、「相手の気分を害して攻撃されないか、嫌われないか」というある種の自己防衛的な気遣いである。そしてその自己防衛のための気遣いは、私の行動パターンにインプットされていて、自分の気持ちよりも他人の気持ちをつい優先してしまう。

例えば、「何食べたい?」「どこに行きたい?」と聞かれても、「何でもいいよ」とか「どこでもいいよ」とつい答えてしまう。

本当にこだわりが無くて「何でもいいよ」と答えるならまだしも、昔よくパートナーと外食する時、相手にまず「何食べたい?」と聞き、その後携帯で調べてもピンと来るお店が見つからないと、「私は本当は〇〇が食べたかった」と、後から怒りをぶつけることもあった。相手にしてみたらいい迷惑だったと思う。

改めて自己肯定感の低さを思い出す今日この頃

最近私が感じる「気の遣いすぎ」は、この状況下で買い物に行ったり、家族・友人と話すとき、異常に気を遣ってしまってグッタリしてしまうこと。

このコロナの難しいところは、ウィルスに関してまだ解明されていないことも多いため、「人によって持っている情報・捉え方が違う」ということだ。「コロナウィルスが色んなところに蔓延しているから、絶対外出したくない」という人に対して、自分があまり対策をしていないような印象を与えないようにしたい。また、道や買い物でどうしても近くですれ違わなければならないとき、「この距離でも大丈夫かな?」と人の表情が気になってしまう。レジで会計するときも「あ、今手が触れちゃったけど大丈夫かな?」と相手の顔色を伺ってしまう。

こんな調子でウィルスと同じくらい人の反応が怖いので、なおさら外出は自粛したい。

「あなた人に気を遣いすぎていませんか?」

人に気遣いすぎて疲れを感じる日々、いつも通院している病院に行くと、先生に「人に気を遣いすぎてませんか?」と言われた。そして、「自信があまりないですよね」とも。

ビクッ。ドキッ。

「自分には自信がないなぁ」といつから感じるようになったか分からないが、20歳になるとき「30歳には自信満々の女性になっていたい!」とノートに書いた気がする…。

「え…また自分の自信のなさに向き合わなきゃいけないの…」と内心そう思っていたら、先生は水島広子さんの本を紹介してくれた。

そしてこの『小さなことに左右されない、「本当の自信」を手に入れる9のステップ』を読み始めた。

「自信」と本当の自信

4分の1ほど読んだところで、大きく気付いたことがある。

「自信」という言葉ほど、曖昧な言葉はない、ということだ。

自分を信じるって何?存在を?

よく歌の歌詞でも「自分を信じて〜」とあるが、本当は「自分の進む道を信じて」とか「自分の選択が間違っていないことを信じて」という意味なんだと思う。

この本を読んで、その「自信」と、自己肯定感や自尊心といった本当の自信は、ちょっと違うような気がした。

著者は、その本当の自信のことを「BEの自信」と呼んでいる。

「BEの自信」は、自分の「あり方」についてのそこはかとない安心感であり肯定感である、ということをお話しましたが、それは簡単に言えば、自分についてよい感じをする、ということです。

「そこはかとない」なんて…そんなフワフワした言葉を精神科の先生が使うのか…と思ったが、

言葉にしてしまえば「自分はこれでよいのだ」「自分は存在する価値があるのだ」ということになりますが、そのような言葉にしただけでニュアンスが変わってしまうくらい、「そこはかとない」ものなのです。

とのこと。これは、さっきの歌の歌詞のような「自分を信じて〜」とは強く自分で思い込むものとは別物である。そして「〜するのに自信がない」というニュアンスでもない。

そういった「BEの自信」に対して、成果や評価によって支えられる「自信」が「DOの自信」とのこと。そして多くの人がこの「DOの自信」(私は〜ができるという自信)と、本当の自信(BEの自信)を取り違っていると言う

「DOの自信」はもろい

ある時、友人に「私はあまり自分に自信がないんだ」とぼやいたところ、「そんなことないよ、自信満々じゃん!」と言われたことがある。

「へぇ〜、他人からはそんな風に映っていたんだ!」とびっくりしたが、確かに自信がある部分もあったが、それはこの「DOの自信」。

海外へ留学して大学院まで行ったあと、日本で就職した私はもしかすると「何でも成し遂げてきた、意識高い系の帰国女子」と映っていたのかもしれない。

実際、「私は何でもやってきた」というプライドはあったけど、「BEの自信」は底打ちで、何をやっても失敗続きのとき、「なんでもやってきた」という「DOの自信」は返ってジャマだった。

バリバリのビジネスマンとして「DOの自信」に満ちていた人が、引退すると急に老け込んでしまったり、新たなライフスタイルにいつまでも馴染めず、過去の栄光の自慢話ばかりをして周りをうんざりさせたり、というのもその一つでしょう。

とあったが、自分の体験と重ねて「うんうん」と頷いてしまった。

この「DOの自信」というのは、「私は〜ができる」といった類の自信のことだが、そこはやっぱり人間である。どんな条件下でも同じことができるとは限らない。

もしかするとこの「DOの自信」は「DIDの自信」なのかもしれない…。「私はこんなことをやってきた。だから次も/他のことも成功する」という、誤った認識につながりやすい。

どうしたら「BEの自信」がつくのか

じゃあどうしたら本当に揺るがない自信がつくのか、ということだが、著者はまず読者に大事な注意点を与えている。

しかし、「自信を持つべき」と思えば思うほど、実は「本当の自信」から遠ざかってしまいます。

とのこと。「え〜!自信をつけたいのに、自信を持つべき、と思っちゃいけないなんて、禅問答だな…」と思ってしまった。

「BEの自信」につながるのは、「べき」ではなく、「したい」という感覚です。

「したい」というのは、「こんな『あり方』を大切にしていきたい」ということだそうだ。例えば、「人に優しくしたい」とか「新しいことに挑戦したい」だとか、人生の羅針盤・道標のようなもの。

何か人生に迷ったり困難に直面したときに、そっと光を照らして進む方向を示してくれる灯台のようなものかもしれない。

「確かに壁にぶつかってしまったけど、その方向に進もうとしていたんだね」と、優しく自分の背中を押してあげること。結果はどうであれ、その方向に進もうとした自分の姿勢を認識してあげることなのかもしれない。

その自分の存在「BE」を認識してあげることが、「BEの自信」なのかもしれない。

そして、自分で自分を認識してあげることが、自己肯定感にもつながっていく。

自分に振り返ってみると

ここまで読んで、このコロナ禍で自分にもできることがいくつかあるな、と思った。まずは、「他人の気持ちを大事にする姿勢」を自分で認識し、その自分を大事にしてあげること

他人に不快な思いをさせたくない。ウィルスのリスクに晒したくない。他人を守りたいと思っていること。

それがBEの自信。

そしてその奥には、自分は安全・安心な人間であると思ってもらいたい、というニーズがあるということ。

しかし、どんな人間であると思うか相手の自由なので、そこに重心を置くのではなく、一歩踏み込んで「どんな自分も受け入れて欲しいというニーズ」を見つけてあげることが大事かもしれない。

そしてまたBEの自信に振り返り、「どんな自分も受け入れようとしている自分の姿勢」に気付くことができた。

このコロナで、たくさんの大事なことに気が付いた。



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