日本に宗教戦争はあったのか。
この記事を書いているのは2024年10月9日。去年の10月7日、パレスチナ・ガザ地区を支配するハマースがイスラエルに侵攻しパレスチナ・ガザ戦争とも呼ばれる紛争が発生した。それから一年が経ったというニュースを見て、もうそんなに長期化しているのかと驚いた。
イスラエル・ガザ戦争の本質は宗教ではない
この紛争は、一般に宗教戦争とも言われる。イスラエルは、ユダヤ人・・・つまりユダヤ教に基づく民族国家であり、パレスチナは、イスラム教世界の一員だ。ユダヤ教とイスラム教の宗教対立が戦争のきっかけとするのは簡単だが、本質的には領地をめぐる争いである。僕は、戦争に関する知識がほとんどないので、その本質に関して語ることはしない。しかし、古今東西、人類というのは本質的な領地や権力を、宗教に仮託して争い続けてきた。宗教は人の心に安寧をもたらすために生まれた物だが、争いの大義名分として用いられ、現代では「宗教は害悪」と揶揄される。宗教自体に意思はない。いつもそれを利用する人間たちにこそ責任がある。
古代日本では、神道と仏教は対立していた?
日本でも、宗教戦争があったという通説がある。なにせ、学校の歴史でそう習うことがあるくらいだから、根強く信じている人もいるだろう。
いわゆる「日本の宗教戦争」の概略は、以下のとおり。
飛鳥時代、朝鮮半島との交易の中で仏像と共に仏教が持ち込まれ、その受容を巡った神道と仏教の対立が起きた。神道を重んじ、仏教を排斥しようという物部氏と、仏教を受け入れようという蘇我氏の間で宗教的紛争があり、蘇我氏が勝利して仏教が朝廷に受け入れられた。
確かに、古代日本における宗教は現代よりはるかに大きな影響力を持っていることは確かであるが、果たしてそれだけの理由で、有力豪族同士が骨肉の争いを繰り広げるだろうか。
宗教戦争と言われる物部氏と蘇我氏の争いは、確かに宗教が大きく関わってはいる。当時の権力というのは世襲されるもので、一族単位で決定される。その根拠が、神話時代からの豪族であるか否か、天皇(当時の大王)の先祖との関わりが如何なるものだったか、というものだった。
そういった視点から両者の家系的な事情をみると、この争いは、単に政権争いであったことがわかる。
物部氏は、神話にルーツを持つ系譜があり、天皇(当時は大王と呼ばれていた)の側近としての血統を背景とした権威を持っていた。超名門である。
当時は、能力ではなく血統によって地位が決定していたので、血統を背景とした権威は絶大で、特に物部氏はその権威を背景に軍事的な力を持っていた。軍事的権力者は、その技術を保持し、支配しようと目論む。しかし、物部氏は外交的権威は持っていなかった。大陸から持ち込まれる新たな技術や文化は、別の豪族を通じて朝廷に伝わる。そうなると、軍事を統括する物部氏としては、その軍事的権威を保ことが難しくなるのだ。
一方、蘇我氏もまた有力な豪族であり、物部氏と権力を二分するほどの名門ではあったが、軍事的権威はない。その代わりに、代々渡来人との関わりが深く、大陸からの新技術・新文化が日本に持ち込まれる際の窓口となる一族であった。蘇我氏としては、新たな技術や文化によって日本が発展すれば、自分達の一族の権威も高まると思っていたことだろう。
当時の権威・権力というものは、神道神話に基づいた世襲であると先述した。
そんな時に伝来した仏教を受け入れることは、外来の文化や技術も同時に受け入れるということになる。現在と違い、頻繁な行き来ができない古代は、あらゆるものがセットで輸入されるのである。
物部氏としては、仏教と共に新技術が持ち込まれると、それを蘇我氏に独占されてしまう。仏教を受け入れないことは、新技術も受け入れないことであり、自分達の権威を保つためには仏教を許すわけにはいかなかった。
一方、蘇我氏としては、仏教をと共に持ち込まれる新文化や新技術を、窓口である自分達が管理・保持することにより、朝廷での権威を高めようとしていたのではないか。
こうした背景を見ると、両者はそもそも相容れない政治的立場を持っていた。その政治的対立を、神道vs仏教というそれぞれの旗印として争ったに過ぎない。
大きな視点で言えば、国内での政治権力を保とうとする保守派の物部氏と、海外の技術や文化を受け入れて発展しようという革新的な蘇我氏の政争であったといえる。
聖徳太子の対外政策が、奈良以降の日本文化の礎となった
結果は蘇我氏が勝利し、多くの文化が新たに受け入れられたが、仏教はその一つでしかない。蘇我氏側について勝利した聖徳太子の政策を見ると、この両者の争いが単なる宗教的対立でなかったことがより明確にわかる。
聖徳太子は、摂政に就任して以来、血統ではなく能力によって役人を起用する冠位十二階を制定。(もちろん限定的ではあったが)これは、それまで物部氏をはじめとした保守的な権威からの脱却だった。また、数度の遣隋使を派遣し、中国・隋の文化を多く吸収して国づくりを進めた。これもまた、渡来人との関わりが深い蘇我氏の方向性と合致しており、それまでの政治的権威から脱却して広く技術や文化を受け入れることとなった。
さらに、この遣隋使の派遣はその後の日本に決定的な影響を及ぼし、中国風の衣服・言語・建築が導入され、いわゆる弥生文化の色濃かったそれまでの日本から、奈良時代に花開く大陸調の古代日本文明のきっかけとなる。日本は、ユーラシア大陸を横断するシルクロードの終着駅となり、豊富な大陸文化と技術を享受し、国内初の大規模な都市・平城京が建造され、その中心を平安京に移してからも基本的な国づくりや文化は継承された。
このような豊かな文化を花開かせたのは、間違いなく聖徳太子による遣隋使の派遣であり、その前哨戦として、神道vs仏教という旗印によって争われた物部氏と蘇我氏の戦いがあったわけだが、それが相手を徹底的に殲滅しようとする宗教戦争でなかったことは、その後も日本で神道と仏教が同時に信仰され、ついには天皇自身が二つの宗教を信仰・推進するに至ったことが証明している。
しかも、物部氏自身も決して滅ぼされたわけでなく、その後も軍事的な権力は保持しており、その象徴として、物部氏の氏神を祀る石上神宮が奈良に建立され、その後も一定の権威を保持し続けた。
このように、物部氏と蘇我氏の対立は、宗教戦争などではなく。日本の方向性を巡った、政治的な戦いだったのである。
おわり
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