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「子ども」と「大人」の違い

「子ども」と「大人」の違いというは、かなり面白いテーマだと思う。最近だと、渡辺道治さんが書かれた『授業を研ぐ』でも、そのテーマで授業をした様子が描かれていた。

上記の問いを考えたときに、真っ先に浮かぶのは「私は大人なのだろうか」という問いである。そして、この問いに自信を持って答えられないあたり、僕自身の中でも「大人になりたくない」部分があるのかもしれない。

子どもというのは「いいなぁ」と素直に思う。
無限の可能性に満ち溢れている。
学級の子どもたちにいつも話すのは、「君たちには無限の可能性があるんだ。甲子園に出場することも、宇宙飛行士になることもできる。やろうと思えば、なんだってできるんだよ」という話である。

これは誇張ではなく、本心でそう思っている。

社会人として働くと(「大人になると」と書こうとして、辞めた笑)、様々な制約が生まれてくる。まずは時間的な制約。それは、行動を制約してくる。お金の制約は外れるかもしれないけど、時間が無ければ、人はあまり行動的でなくなる。
これは、マルクスもそう言っていた。労働者に必要なことは「賃金アップ」ではなくて「余暇」である、と。

そして、その制約は結婚し、子どもができると、いよいよ硬直的になり、もう制約によってギリギリ動ける範囲こそが、僕自身の可動域になってしまう。

しかし、これは別に不幸なことではない。最近になって特に強く思うのだが、「判で押したような日常」というのを「幸せ」だと感じれるようになった。これは、「毎日がイベントのような日々」を喜んでいた学生時代の価値観からの大変革である。

だいたい、人は選択肢が多いと「悩む」必要が生まれる。悩むと「決断」をしないといけなくなり、決断には「後悔」がつきものだ。そんなことで心を疲弊させるくらいならば、同じような毎日を過ごして、心が平穏である方がよほど幸せではないだろうか。

バカンスの酒池肉林騒ぎは、三日くらいなら楽しいかもしれないが、いずれ飽きる。クリスマスから年末年始にご馳走ばかり食べて疲れたときの七草粥みたいなものだ。実は日々の平穏こそがご馳走だったのだ。

さて、こうして考えると、「子ども」とは何かが見えてくる。
それは「クリスマスから年末年始のご馳走」を喜ぶ人である。
もしくは、「後先考えずに楽しめる」でもいいし「制約が少なく、可動域が広い人」でもいい。

ここで急いで訂正をしておきたいのだけど、本論考は「子ども」と「大人」を二項対立的に論じて「だから、子どもはいけないんだ」とか「早く大人になれ」と論断するものではない。

税金を納めるから大人は偉いとか、子どもは能天気に過ごして責任を知らないとか、そういうことを述べてもあまり生産的ではない。
税金を納めなくても有益な活動はたくさんあるし、あれこれ悩まない人のほうが周りを幸せにしていることはたくさんある。

しかし、それでもこの社会には「子ども」と「大人」という分断線はあると思うし、それ自体を考えることは有益である。なぜなら、それは「成熟」というテーマを含んでおり、我々は成熟しないといけないからだ。(となると、二段落前の内容は間違いということになるから、訂正の線を入れた。このすぐ後で論じるが、成熟は全ての人に必要である。)

この社会を持続可能にするためには、その構成員が成熟していないといけない。我々が生きる民主主義社会というのは、その構成員の成熟を求めるからだ。
独裁政権ならばその必要はない。優秀な独裁者が全ての物事を決めて、我々はそれに従っていればいい。
社会主義国家でもその必要はない。優秀な官僚が全ての物事を決めて・・・。

だから、かの哲学者JPサルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言ったのだ。

さて、ここで内田先生の考える「こども」と「おとな」の違いを引用してみよう。

僕が彼から学んだいちばん大きな教訓は「こども」のままでは「おとな」になれない、ということだったと思う。
僕は「こども」でも知識や技能を身につけ、経験を積むと「おとな」になれると思っていた。
「かっちゃん」はそれは違うと言った。
「こども」と「おとな」の間には乗り越えがたい「段差」がある。
そして、その段差を超えるときに、「こども」のもっている最良のものは剥落して、もう二度と取り戻せない。

『そのうちなんとかなるだろう』 内田樹著 マガジンハウス p79
※ 「かっちゃん」とは昭和大学理事長である小口勝司氏のことで内田樹氏とは高校の同期
※小口勝司氏の紹介は以下のサイトより

内田先生は、その「こども」と「おとな」の両者において「量的な違い」ではなくて「質的な違い」に言及している。

たしかに、我々はその分断線を「年齢」とか「学歴」とかで決めてしまう癖がある。「18歳になったから」とか「大学を卒業したから」とかである。しかし、そういう「量的なもの」というのは、その質に言及しない。つまり、「一定量」を超えたら「誰でも」が「おとな」になれる、ということは無いと内田先生は述べている。

さらに、「こども」の段差を乗り越えた先には、「こども」の「もっている最良のもの」は「剥落」してしまって、「二度と取り戻せない」らしい。

これは困った。
本論考を書く前には、「人は大人の部分と子供の部分を持ち合わせていて、それを自由に遊弋できるくらいがいいのですよ」と書こうと思っていたからだ。

たしかに、「成熟」という言葉から、果実が熟すというイメージに繋げると、それは「不可逆的」であり、戻ることは許されない。
しかし、一方で、内田先生は「成熟は葛藤を通じて果たされる」という有名なテーゼもある。葛藤とは、片方に滞留せずに、双方を移動できる運動性にこそ宿る心性でもある。

さて、「子ども」と「大人」の違いとは何なのだろうか。
そして、その違いは不可逆的なのだろうか、それとも、行き来できるものなのだろうか。

皆さんはどう考えますか?