学校におけるホウレンソウについて
今回の記事を書くきっかけは以下のツイートです。
これには賛否両論、たくさんの意見をいただきました。ただTwitterでのツイートの宿命として様々な解釈があったみたいで、それについては僕も反論をしたいなと思ったので、こうやって筆を取ることにしました。
まず、大前提として僕自身がまったく「報告・連絡・相談(ホウレンソウ)」をしないということではありません。そして、ホウレンソウに意味がないとも思っていない。例えば、責任の所在を個人から組織に移すという意味でホウレンソウは自衛の手段として効果的であることは大いに認めます。これは、上司に伝えていないことで、上司に「知らなかったから私は関係ない」と言わせないためにも必要なことだと考えています。有能な上司はホウレンソウについて、次のように言うと思います。
「なんでも相談してくれ。それがあなた自身を守ることになる。責任を分散しておくことでダメージも軽減できる。一人で抱え込んではいけないのだよ。」
では、どんどんホウレンソウをすればいいのか、といえば、それは違うとも思っています。「ホウレンソウは扱いが難しい」という話を、これからします。
まず、「何をホウレンソウするのか」という問いがあります。
これに対して反射的に「全部だよ」と答えてしまうバカがいますが、そんなことは不可能です。工場での手順が決まりきったオペレーションならば、基本的には不測の事態は起きませんので、相談内容は限定的になります。効率化の手順とか、トラブルへの対応などホウレンソウをするメリットは多分にあるでしょう。
一方、教育実践は工場でのオペレーションとは異なります。同じような事象についても、背景が全く異なることも珍しくありません。
例えば、「ある子どもが授業中に頻繁にトイレへ行く」という事象で考えた時に、その原因は
「頻尿気味の体質である」
「45分間じっとしていることに耐えられないための息抜き」
「友だちと連れションすることで秘密の話をしている」
などなど考えられる要因は無数にあり得ます。そして、それらが単一ではなく、絡まり合っていることもある。だから、その要因を特定することはかなり困難です。
という話を上司にホウレンソウした結果教えてもらえれば、その先生の知見も広がり教育実践の解像度も高まることだとは思いますが、では、教室でのすべてのことをホウレンソウなんてできるのでしょうか。
私は教師になって14年目になりますが、それでも日々「わからないこと」だらけです。しかも「わかった」と思っていたことも「勘違い」や「偏見」だったこともたくさんあります。
さらに、知れば知るほど「わからない」ことが増えていきます。
先ほどのトイレへ行ってしまう児童への対応についてだって、「休み時間にトイレへ行っておかないからよ」と事象を簡単に片付けてしまう先生は多いでしょうが、それを指導すれば解決するのかといえば、そんなことはなく、むしろ「トイレへ行くなと禁止されたことによって、余計にトイレを意識させてトイレへ行きたくなる」というようなことも起きます。禁止は行為を助長させることもあるのです。
さらに「授業中にトイレへ行くと怒られる」と感じた別の子どもが「お漏らし」をしてしまうこともあるでしょう。
「お漏らし」という事象が発生すれば、管理職にホウレンソウをすることになるとは思いますが、これではなんだか遅きに失ししたような気がしますね。では、どの段階で管理職にホウレンソウをすればよかったのでしょうか。その子が初めて授業中にトイレへ行ったタイミングですか?「そんなことをわざわざ相談するな」と思われてしまいそうですね。では、その子が2回目にトイレへ行ったときですか?この問いに答えはありませんね。
「教師が「困り感」を感じたときにホウレンソウをする」というのは一つの答えなのだとは思いますが、では「本人が困り感を感じていない」場合はどうしたら良いのでしょうか。僕の場合は、大抵、これに該当します。僕の中では全く問題ではないにも関わらず、周りの人は問題だと感じることです。
例えば、僕の学級の授業では「課題が終わった後は静かに自由に過ごせる」というルールがあります。そして、これを問題視する先生が多いのです。つまり、「子どもたちの活動がバラバラなのが気になる」というものです。こういう先生は、「授業中の子どもたちの行動はすべて教師によって管理されているべき」という考えですね。これはこれで一つの考えなので否定しませんが、それを問題視して「こういう教育実践をするならば、ひとこと相談をして欲しかった」と言われてしまうと、僕も違和感を覚えます。僕はこの実践で何も問題を感じていない。むしろ、子どもたちが主体的に行動を選択できることを誇らしくさえ思っています。
つまり、教育実践において「何を問題と捉えるか」という点において、実はかなりに差があるのではないか、というのが僕の問題意識なのです。
少し話は逸れますが、僕は国語科における文章の範読は「教師の音読」によるものが望ましいと考えています。しかし、先ほどの「自由に過ごさせることは問題である」と考える先生は、授業において「声優による範読CD」を聞かせることを推奨しています。もちろん、これは教育観の違いであり、どちらが正解かを決められるものではありません。僕は僕で「音読というのは身体運動であり、それは生身の人間である教師の音読を通じて学ぶべきである」と考えているし、その先生は「プロの声優による範読を聞くことで音読の学習が深まる」と考えているのであれば、それは否定しようがありません。
しかし、これが上司と部下のように指導関係にある場合、部下側の意見は上司から見れば「指導対象」になることがあるのです。
そういう意味で「何をホウレンソウするのか」という問いが立ち上がってきます。こちらの「ホウレンソウしたいこと」と、向こうが「ホウレンソウして欲しいこと」は大いに食い違うことがあり得るわけです。
しかし、これらは瑣末な問題に過ぎません。
教育実践におけるホウレンソウの最大の問題点は他にあるのです。
それは「教師の意識が目の前の子どもから相談相手に移る」ことです。
教師が上司や管理職に相談をし始めると、心理的な負担が減ることもあります。困った時に相談することができるというのは心強いですから。教師はついつい問題を一人で抱え込みになりがちです。そうして心を病んでしまうことも多々あるでしょう。そうならないためにホウレンソウをすることは必要です。
一方で、教育実践をするということは、そういう悩みも含めて自分で抱え込んでいくということも意味するのではないでしょうか。これは厳しい意見に感じる人もいると思います。しかし、教育実践の責任をその教師が取らないで一体、誰が取れるというのでしょうか。
例えば、先ほどの「トイレへ行く児童」の事例で考えてみましょう。
それを相談した結果「休み時間に必ずトイレへ行くように声かけをし、授業中のトイレへ行くことを認めない」という回答を上司からもらったとしましょう。このような回答をする教師が一定数いることはかなり蓋然性が高いです。なぜなら、僕の職場にそういう先生が複数名いるからです。
それを実行した学級で、翌日「お漏らし事案」が発生したとしましょう。これは一体、誰が悪いのでしょうか。それを実行した先生ですか?いえいえ、その人は困ったから相談した結果もらった「正解」を実行したまでです。では、その回答をした上司でしょうか。いえいえ、その先生はその現場にいなかったわけですから悪いとは言えませんね。
こうして、この事象を「私の責任です」と「引き受ける」主体がいなくなってしまうわけです。
実はこのようなことが学校現場にたくさんあります。
どの先生にも「経験が浅い時期」というのは存在します。その時期には積極的に上司にホウレンソウをすることになるでしょう。そうして成功と失敗を繰り返しながら出来上がった「経験知」は一体、誰のものでしょうか。もちろん、その先生の固有のものだよ、と思う人も多いかも知れませんが、実はそうではないのではないかと感じるのです。
例えば、「授業中の子どもの意見はハッキリ述べさせるべき」という言説を考えてみましょう。これに違和感を持つ人は少ないと思います。
しかし、これに対して、「子どもが言い淀む時間を大切にしよう」という言説を対置させてみましょう。
人が本音で話すときというのはそんなにハキハキと話せるものではない。人がハキハキと話す時は「誰かが言っていた言葉を真似している時である」。だから、人がハキハキと話している時には本音は出ていない。人が本音で話す時の言葉は「生成的」であり、まさに生み出される生成的な言葉というのは「言い淀みながら」述べられるのである。
どうでしょうか。
僕はこのような言説に触れた時に、「意見はハキハキと述べさせるべきである」という学校現場にある「経験知」に対して違和感を覚えるようになりました。学校の先生の同質性については過去にも述べている通りです。学校の先生の多くは「学校文化に馴染んでいた元子ども」ということを少しでも考慮するのであれば、少なくとも「学校文化に馴染めない子ども」側の思いに寄り添うことはハードルが高くなることもわかるはずです。
だから、学校文化における「経験知」には「偏り」があるかも知れないと斜に構えるのは決して捻くれているわけではなく、むしろ「学級の子どもたちの多様性」に比べて「学校の教師の多様性」は弱いのだからこそ、学校の経験知に頼ってばかりではいけないのではないと強く感じるのです。この偏りを是正する鍵こそ、むしろ「目の前の子どもたちの多様性」なのです。
そして、上司へのホウレンソウを深く内面化して、その上司の答えに寄り添い出してしまうと、これが難しくなるのではないでしょうか。自分の心の中にいる天使と悪魔という比喩はお馴染みですが、自分の中に上司の経験知を深く内面化してしまえば、目の前の子どもの貴重なリアクションを見逃すことにもなるのです。
学校教育の世界の閉鎖性を感じることが度々あります。それは端的に言えば「教育観の貧しさ」です。教師のほとんどは大学で「教育学」を学んでいるはずなのに、その知見がほとんど生かされていない。むしろ、働いてから身につけていった「経験知」が土台になっている先生がほとんどです。
まあ、これは仕方のないことでもあります。大卒の先生がいきなり現場で「自分の学級」を任されたのですから、そこで「大学で学んだ教育学の知見」を生かしている隙間はない。「今、ここで」生きる知見をくれるのは紛れもない学校の「経験知」なのですから。
でも、それだけだと「狭い」と言っているのです。それで一時期は乗り越えられたとしても限界がある。実際、現在数多くの子どもたちが「不登校」という形で「学びから逃走」している現場を鑑みれば、このままでいいとも言っていられないでしょう。
これは、何も子どもに迎合しろということではありません。でも、「経験知の更新」は必要なのでしょう。そして、その答えは現場にはないのかも知れないということです。
教師という人たちはとても真面目なのに「本を読まない」ことが気になります。
上司には積極的に相談しても、自分の困り感を自分で勉強して解消する事例が少ない。もちろん、これは現場を多忙に追い込んだ教育行政の失敗の結果でしょうけど、そこの改善を期待しても仕方がない。
数年を経験し、自信がついてきた頃の「天狗教員」には、ぜひ、教育学の知見を学んでいただき、学校現場の「経験知の更新」に寄与していただき、学校の「ホウレンソウの精度」を高めてもらう努力をしてもらいたいものです。