明治初期の学校破壊事件
1872年(明治5年)の学制をもって始まった日本の近代学校教育制度ですが、その初期は就学率も思ったように上昇せず、学制後、8年経った1880年(明治13年)になっても、就学率は41.06%(『日本近代教育史辞典』より)と低調でした。その主な理由については、前の記事に書いていますが、今回はその中の「学校破壊事件」を中心に取り上げたいと思います。
森重雄によれば、学制発布後10年を経った1882年(明治15年)になっても就学率は48%弱であったといい、しかもそれは名目の数値であり、日々の出席率を乗じた実質就学率にいたっては、31.5%であったと指摘しています(しかし、この数値には現れない「寺子屋通いの子ども」もいたという資料もあり、明治20年を過ぎても、寺子屋需要があったということには驚かされますし、我が子に教育を受けさせたいという思いは数値以上にあったと推察されます)。
就学率が伸び悩む中、公共広告機構もない当時は、それぞれの自治体が様々な手法で「就学キャンペーン」を行なっていたことを森は紹介しています。
現代の私たちからすれば、読んでいて少し滑稽にも感じるような就学キャンペーンですが、まさにそれほどまで「通わせたい」という国の思いを感じます。アメとムチで言うならば、上記の作戦はアメですが、一方、ムチの作戦もあったようで、森は次のような事例を紹介しています。
このように、地域ぐるみで「子どもたちを学校へ」という就学キャンペーンが行われていたようです。しかし、それはまた西欧式「学制」による学校教育が「未だ受け入れられていない」ことの証左でもあります。
以下は、その住民の心情をよく表している明治6年の『東京日日新聞』の記事です。
このような内容が新聞記事になるのには驚かされますが、同時に当時の人たちにとって、西洋風の「学校」なるものがいかに「不気味」であったかも伝わってきます。
そんな中、明治初期には「学校破壊事件」が全国で発生します。それは、校舎の瓦が剥ぎ取られるという比較的軽微なものから、香川県では48校を焼失させるという大規模な破壊活動まで発生しました。特に明治9年の三重県の事件は「79校毀焼」で「50000人以上処分」という最大規模で、その影響は周りの自治体にも広がったといいます。
これらの学校破壊活動は、一見、過去の時代に起きた「一揆」のような「金銭的な理由」から行われたと解釈されがちですが、森はそうではないのではないかと論じます。
森はこの事件を詳細に分析してみることで、当時の事件が無作為に学校を焼き討ちしたわけではないことを突き止めます。つまり、住民は「特定の学校を狙って」焼き討ちをしていたということなのです。それは「大規模校」です。
では、どうして「大規模校」が標的にされたのか。ここで森は、寺子屋を比較に出して検討しています。つまり、それまで住民に受け入れられてきた教育機関である寺子屋は「日常生活」に即した教育内容を、比較的「小規模な空間」で教えていました。一方、当時の住民にとっては不可解な「西洋的」な教育内容を、西洋的な建築物である「大規模な校舎」で教える「学校」が狙われたわけです。
今回は明治初期の学校破壊事件について考えていきました。
私たちにとって「当たり前」である、大規模建築である「学校」は、明治初期の住民にとっては「受け入れ難い」ものであったという指摘には考えさえれました。「当たり前」を根付かせるには、長い年月が必要なのでしょう。
ちなみに、就学率は1900年の時点で81%を超え、1905年には95%を超えるようになります。
参考文献
『モダンのアンスタンス 教育のアルケオロジー』 森重雄著 ハーベスト社 1993