「主体」とは何か
「主体的で対話的で深い学び」と言うのは、ここ数年の教育現場における「合言葉」みたいなものである。どこもかしこも、この合言葉を元に教育実践を積み重ねているのだ。
しかし、そもそも「主体的」とは、どういう状態を指している言葉なのだろうか。おそらく、多くの教育関係者はこの「主体的」という言葉に、
「自分で考えて」とか
「自分発信で」とか
「誰かと共同して」とか(これは国立教育政策研究所が出している『「指導と評価の一体化」のための学習評価に関する参考資料』を読めばわかる)
そんな思いを乗せているのだろうが、果たしてそれでいいのかな。
「主体的」の「的」という言葉は、「行動力」とか「実践力」とかの「力」と同じように日本人が安易に使う文字の一つであることは、何もここで改めて言う必要はないだろう。
だから、『「主体的」とは何か』、というテーマはつまり、『「主体」とは何か』というテーマを論じることになる。
さて、主体という概念は紛れもなく「西洋からの輸入品」である。だから、これは「やま」とか「かわ」という古来から日本にあり、かつ、その意味を受肉していて「ひらがな」で書くような「やまとことば」ではなく、「アジェンダ(行程表)」とか「エビデンス(科学的根拠)」とか「ダイバーシティ(多様性)」とかいう類の「輸入品」である。
輸入品の使われ方の特徴としては、「その使い方はよくわからないけど、とりあえず、棚に飾って客人に見せびらかす」というものがよく知られている。お金持ちの客間には「異国の地のお面」などがあるのは、まさにそれである。
だから、「主体」についても、「その使い方はよくわからないけど、とりあえず」という使われ方がなされているのだろう。「主体」とは何かという議論があまり見られないにも関わらず、現在の学校現場では、子どもたちの学習状況を評価する際の「3観点」の一つが「主体的に学習に取り組む態度」なのだから。
では、ここで、本邦の学校教育における「主体的に学習に取り組む態度」に関する説明を引用してみよう。
学校教育だからある程度は仕方がないが、要するに、ここでは「主体的」とは「自学自習の力」くらいになるだろう。
現場にはベテラン層が大量退職し、それに伴い、教職員の指導力低下も叫ばれ、教育ニーズの多様化に学校は翻弄され、ついには塾講師にまで学校の授業をお願いする自治体まで現れた昨今、子どもたちには「自学自習」でお願いしたい、ということでは流石に無いだろうが、現在の国が子どもたちに求める「主体的」とは、「自学自習の力」である。
そして当然、「主体」とはそんな「矮小化された意味」では断じてない。特に「教育」という文脈での、子どもたちの「主体」の育成に関しての議論は、「学習」という狭い領域から抜け出して、「人間形成」としての教育という「大風呂敷」で語らないといけないのでは無いだろうか。
しかし、こんなことを言っても、現場の先生方には響かない。なぜなら、現場には数多くのタスクが舞い降りてきており、先生方が「人間形成とは何か」という哲学的な問いに向き合う「余裕」を持たせないようにしているからだ(誰が?)。
だから、暇な僕がそれを引き受けよう。
でも、ここまでで既定の文字数は突破しているので、続きはまた今度。