『授業の余白』 あとがき
拙著『授業の余白 学びの自由度を高める22の授業論』はいかがだったでしょうか。僕は改めて読んでみて「なかなか良いことを書くな」と自画自賛してしまいました。以前までは「自分の書いた文章なんて読み返してもおもしろくない」と思ってました。その原因は、何度も推敲を重ねたり、読み返したりしているうちに、自分の文章に「飽きてしまう」ということに起因しています。
しかし、今回の原稿は「喋るように書く」というテーマで書いてみました。練りに練った文章というよりも、その場で思いついたことを、その場で言葉にしていく、という感じです。だから、書いても読み返すことなく、どんどん書き続けていく。はじめに「見通し」があるわけでもなく、さらに「振り返り」もせずに、どんどん転がり続ける。
それができたのは、今回の原稿の内容の多くは「昨年の夏からの数々の講演内容」が元になっているからですね。一度、アウトプットしたことがあるからこそ「喋るように書く」ことができたのでしょう。
昨年の夏から秋にかけては、たくさんの場所で講演をさせてもらいました。少人数のオンラインサロンや国立大学のオンライン研修、大学のゼミの授業もありました。オフラインのイベントにも参加させてもらいました。Twitterで仲良くさせてもらっている先生方と同じ場で話ができた経験は大事な思い出です。
僕の講演におけるスタイルは基本的に「台本なし」です。その場で思いついたことを「即興的に」話すようにしています。だから、緊張で頭が真っ白になったことも何度もありました。そんなときでも、すがれる「台本」はないわけですので、聞いている人たちから「質問」を受けたりして、話題の転換を図ったりします。
でも、この本の中でも書いたように、「子どもたちを相手」にする以上、授業は常に「想定外の連続」なんです。だから、「即興性」こそが授業づくりにおける、最も大切な資質だと思っています。「計画通りに終えれた授業」というのは、果たして成功した授業と言えるのでしょうか。僕は、そんな授業を「つまらない」と感じてからは、今のスタイルを追求しています。コミュニケーションはいつだって想定外の連続です。他者との交わりなんて想定できないのです。
と、ここまで書くと「でも、私は計画が無いと不安です」とか「言葉がどんどん出てこない私は、教員失格なの?」と不安になられてしまう先生もいるかもしれません。でも、それは断じて違います。
この本には何度も同じような言葉が出てきました。それは「多様性」です。
僕は「多様性」こそが、教育を教育たらしめるものであると確信しています。だって、人はみんな違うのですから。そんな「違いという価値(多様性)」を「画一性」に収めてしまえば、その力は無くなってしまうでしょう。
しかし、残念ながら、現在の教育現場には、教師一人一人の多様性を大事にしようという言説は少ないと感じます。教育における大きな流れの一つは、まさに「画一性」です。例えば、「GIGAスクール構想」における「一人一台パソコン」はその典型です。数年後には、「優れた学習アプリケーション」と「学習管理システム」によって、子どもたちの学習はどんどん「画一的」になっていくでしょう。「子どもの進度や理解度に合わせた学習」をもって「個別最適化」と考えている人は多いでしょうが、それは「一つの線路」における「進度の違い」であって、学びの多様性はそこにはありません。
いろいろな先生がいていいのです。子どもたちは、そのいろいろな先生から、いろいろな学びを受け取ることができるのです。
例えば、怖い先生がいてもいい。怖すぎて、子どもが怯えて学校に行けなくなってしまうことは問題ですが、怖い先生からだって学べることはたくさんあります。その学びには時差があるかもしれない。大人になってから「あの先生は、当時は怖かったけど、実はたくさんのことを教えてもらっていた」となることだってある。
例えば、頼りない先生がいてもいい。自信満々の先生よりも、親しみやすさを感じる子どもだってきっといるはずです。子どもたちは、その先生を助けてあげるために、自身の能力を開発することだってあるでしょう。
いろいろな先生が、それぞれの教育実践を通して、子どもたちを育てていく。その結果は、すぐに可視化されないかもしれない。でも、学びは促成栽培に向かないことを考えるならば、学校教育に対しても「おおらか」に接する姿勢がもっとあってもいいのかなと、特に教育問題を扱うメディアには伝えたい。人を育てるという営みには「気持ちの余裕と活動の余白」が必要なのです。
僕がここまで多様性を尊重するのは、僕が「優しい人」だからでは決してありません。とても利己的な理由からです。僕の実践は「変わっています」。そして、それを管理職や上司的な立場の人から「指導される」ことも、たまにはあります。つまり、僕を「普通の先生」にしたいという圧力ですね。でも、そんな現場の力学を感じるたびに「息が詰まりそう」になります。「ほっておいてくれ」と。
たしかに、僕の実践は完璧ではありません。でも、その失敗からも「学びたい」と僕は考えています。失敗をしない人間なんていないのですから、失敗から学ぶと覚悟している人間には失敗をさせてあげてほしいと思う。失敗をする前に、指導して矯正をかけることは、果たして教育的と言えるのでしょうか。
僕はこれからも、匿名で活動をすると思います。それは、現場の片隅でひっそりと実践を続けていきたいからです。実名を出すことで、「あの先生は本を執筆している」とか「フォロワーがたくさんいるインフルエンサー」とかいう「権威」が、リアルな僕に帯びてしまえば、僕はその空気を感じて、これまでよりも「自由な実践」ができなくなってしまいます。僕はそんなものは望んでいません。
いっぱい勉強して、それを実践を通して具現化して、そこで考えたことを言語化して発信して、フィードバックをいただく。そのサイクルで成長していきたい。そう、すべては僕の学びのサイクルの行程なのです。そんな僕の学びにお付き合いいただき、ありがとうございました。フィードバックはTwitterにいる「めがね旦那」までお待ちしております。
今回の原稿も過去の例に漏れず、「持ち込み企画」です。僕はお仕事の依頼を受けることなどほとんどありません。全部、自分で企画を持ち込んで営業活動をしております。今回も「書きたい」という気持ちのまま書いた原稿が、ある程度の分量になったので、明治図書さんに持ち込ませてもらいました。担当の新井さんは、そんな原稿をおもしろいと言ってくださったので、こうして本書が刊行される運びとなりました。こんな原稿に価値づけをしていただき、本当にありがとうございます。
そして、今回の原稿のもとになった、僕の講演を聞きにきてくれた数多くの方々にもお礼を申し上げたいと思います。講演というのは僕にとっては、教室での授業と同じ気持ちで臨んでいます。つまり、「生身の僕」と「みなさん」とのバトルですね。かの昭和の教育実践家である斎藤喜博氏も、授業を「子どもたちとの格闘」と表現されていた気がします。貴重なお時間を使って、わざわざ僕の話を聞きにきてくださったのだから、せめて少しでも「よかった」と思わせたい。その気持ちは、もう「バトル」ですね。必死なんですよ。
でも、同じ話を繰り返しても、ダメなんです。確かに鉄板話は存在します。「宿題は残業」とか、「トイレ行っていいですか」とか、「授業中の水分補給」とか。しかし、そればかり話しても「僕が飽きて」しまうのです。そんなパフォーマンスでは「おもろい話」は生み出せません。「これまでそんなことを話したことなかったような話」こそが「おもろい話」であり、それは「観衆が引き出す」と僕は考えています。そうです「引き出される」のです。僕から生み出すわけではないのです。だから、今回の原稿が書けた最大の要因は、僕の話を聞いてくださった「みなさん」なのです。
どうもありがとうございました。
まだまだ書きたいことがあるのですが、紙幅の関係上、ここまでになります。またどこかでお会いできたら嬉しいです。
雪がちらつきそうな一段と寒い大阪の何処かにて
2023年2月 めがね旦那