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宿題と向き合う

学校には宿題という文化がある。
ここで「文化」という言葉を使ったのは、宿題という言葉は、学習指導要領や文科省の文書などにはほぼ登場しない言葉であり、なんら制度的・法的根拠を持たない教育実践だからである。

宿題について各種研究を行っているという宮崎麻世も宿題について以下のように述べている。

しかし実は、宿題についての研究は数えるほどしかありません。そして、定義づけられたものもなく、文科省からの文言にもまったくと言っていいほど登場していない。もちろん、先生や学校を縛る法的拘束力があるものも全く存在していません。
みんなが知っているのに、実は漠然としている。
そんな不思議な存在が宿題です。

https://note.com/mayo_miyazaki/n/n7681c937800a?magazine_key=md02bb80e4b2b


宿題に類するものは学校にはいくつか存在していて、たとえば「通信簿(通知表、あゆみ)」などと呼ばれる、学期末に子どもたちへ配られる学業成績などを記述した用紙についても、これは法的に定められたものでは一切なく、学校による「サービス事業」である。

法的に定められている法定表簿は「指導要録」であり、これは作成が義務付けられている。しかし、これは通信簿などと異なり、「1年間の学びを総括する」形式が多い(形式についても、教育委員会に裁量権が認められているなど自由な部分がある)。一方、別に作らなくても良いサービス事業である通信簿については「学期末」に作成されることが多い。

そして、この「通信簿作成」が教員にとっては負担が大きい活動であり、学期末の残業時間増加の主要因となっている。なぜか。
指導要録と通信簿の大きな違いは「保護者に見せるかどうか」だと私は考える。指導要録だって、保護者からの開示請求があれば開示しなければいけないから、決して「適当に作っている」というわけではないが、それでもわざわざ開示請求をする保護者はほとんどいないので、指導要録は「作っておしまい」という感が強い。
指導要録自体は卒業後5年保存(2種類あって、もうひとつは20年保存)ではあるが、それが教育活動において有益に使われている事例を私は寡聞ながらに知らない。
しかし、通信簿は「保護者に見せる」ことが前提で作られている。内容についても、保護者から「疑義」が提出されることも珍しい案件ではない。
「私の子どもの成績について客観的な説明をお願いします」なんていう保護者からの訴えにも対応できるように、教師たちは日々「子どもたちを査定し」、「その資料を保存する」ということを繰り返しているが、これについての問題点は過去に何度か論じているし、本書でも別の項で論じることになるだろう。

「だったら、通信簿を作ることを、辞めてしまえばいいじゃないか」と思うのだが、それは既に「文化」として根付いてしまっている宿題と同様に、かなり困難である。

長く続いてきた文化を辞めるというのは、かなりの責任が問われる。それは、過去の否定を伴うからである。「それを辞めた結果、辞める前よりも改善したと、確実に言えるのですね?!」と問い詰められてしまうと、「では、辞めません」となる人は多いであろう。何も自分がその文化を息絶えさせる必要はないか、となる。

学校教育では「始めるのは簡単だが、終わらせることは困難である」ということがよく言われる。宿題も、古くは明治時代からあるらしいが、どこかの誰かが始めた「画期的な教育実践」であっただろうが、今では辞めることが困難な文化になってしまっているのだ。

では、私はどうして宿題を辞めたいと考えているのか。
それは、2点に集約できる。
一つは「学校の指導の怠慢である」という点。
もう一つは「効果が薄い」という点。
ちなみに、過去に宿題について論じているので、そちらから参照していただいても良い。

まず、第一に宿題というのは「学校側の怠慢」である。
学校は子どもたちの教育に責任は持つべきであるが、それはあくまで「子どもたちが学校にいる時間」に限定されるべきであろう。毎日のように児童の帰宅後の行動を制限するような宿題を課すというのはどう考えても、家庭教育への越権行為である。

近頃の子どもたちは本当に忙しい。私自身が都心部で指導をしているから尚更であろうが、毎日のように「習い事」をしている子どもはたくさんいる。ダンス、野球、サッカー、バスケ、プログラミング、そろばん、演技指導、公文などなど。それらの子どもたちは、そんな忙しい合間を縫って宿題をしてくるのである。

では、暇な子は宿題をさせたらいいのだろうか。いやいや、それもまた「学校の悪癖」である。学校は「隙間があれば学ばせる」ということが骨身の奥にまで染み込んでしまっている。
現在は「モジュール学習」というのが現場では流行している。これは、「学ばせることが多すぎる」が「まとまった授業時間は取れない」ということから編み出された苦肉の策である。つまり、授業の合間などの「5分間」に「短時間指導」を「9回」行うことで「45分間(授業の1単位時間)」としようという方法である。
これが現場では、画期的な方法だ!と、大いに受け入れられることになる。ここに詰め込まれる学習活動は、多くが「外国語」であるが、それは「プログラミング」でも「SDGs」でも「主権者教育」でもなんでもいい。学校教育で習わせてほしいと思われているものは無数にあるのだから。

暇な子たちは暇な子たちなりに忙しいのである。帰る準備をしながら、子どもたちは「今日は何して遊ぶ?どこの公園で遊ぶ?」とスケジュール調整に大忙しである。とても嬉しそうに放課後のことを語っている子どもたちを見れば、それがいかに豊かな時間であろうことは想像に難くない。子どもたちは放課後の遊びのために学校へ通っているのだろう。

そんな子どもたちに課せられる宿題の中身を見てみると、それは「三種の神器」であることがほとんどだ。つまり、「音読・漢字・計算」である。言い換えれば「読み・書き・そろばん」である。

これらはとても大切な学習活動である。私の授業でもこれらを蔑ろにしているつもりは毛頭ない。むしろ、一番力を入れている。そして、いや、だからこそ、私はこれらの学習活動を「宿題で習得させよう」とは微塵も考えていない。

大体、学習活動というのは、「環境」によってその成果が大きく異なるものである。これは私の息子たちの様子を見ればわかるのだが、テレビをつけながら、ぼーっとする「漢字の書き取り」にどんな学習効果があるというのだろう。テレビにも漢字にも意識が半分ずつ持っていかれて、なんとも無駄な時間である。

一方、教室という環境での漢字の書き取りは良いものである。シーンとした教室に、鉛筆が紙に擦れる音だけが聞こえる空間では、いやでも漢字に向き合わざるを得ない。嬉々として漢字の勉強をする子は少ない。それは、退屈な学習である。しかし、教室だと多くの子はそんな退屈な学習にも臨むことができる。それは、「みんながしている」からである。
家庭ではこうはいかない。家庭では「誰も勉強をしていない」のである。母親は家事に忙しく、父親はスマホばかり見ている。そんな環境で「自分だけが勉強をさせられている」というのは、子どもからしたら「理不尽」なのである。こうして、子どもたちの中で「学習は苦役である」に変わっていくのだとしたら、宿題の罪は深い。

音読にしても、それは「聞いてくれる誰か」を想定して出される課題である。しかし、子どもによっては、保護者が夜遅くまで帰ってこないということもあるだろう。夜遅くまで働いて、帰ってきてから、子どもの音読を聞かされる保護者の身になって考えてみたら、保護者の苦悩に頭が下がる思いである。

音読は大切な学習活動である。私の国語の授業の半分は音読で構成されていると言っても過言ではない。「文章を読み取る」ことの基礎段階として音読活動というのは大切である。文字を音声化しないと意味が読み取れない人がほとんどであろう。黙読というのは、結局、内言語による音読なのである。だからこそ、それは「誰かに聞いてもらう必要」がある。音読というのは負荷が高い活動であるから、一人で行うと「だらけてしまう」のだ。しかし、その聞いてくれる人は「保護者である必要」はないであろう。教室の教師がしっかりと聞いてあげて、指導してあげたらいい。

先生によっては、「音読の宿題を出しているから、授業中は音読をさせない」という先生もいるが、こういうのをみて「怠慢だな」と感じるのである。大切な指導は、教師が責任を持って管理するべきなのではないだろうか。

付け加えると、最近の教科書には「音読音声」が収録されているものもあり、教師による「範読」がなくなってきている。しかし、これは危惧すべき事態であろう。音読は身体活動である。それをCDに頼ってしまっては、子どもたちが得られるものは少なくなってしまう。生身の身体を備えた、教師が、児童の目の前で範読をすることを甘くみてはいけない。そこから、児童はたくさんのことを学び取っているはずである。「音読音声」の全てが悪いわけではないが、音読音声を使う理由が「音読が苦手なもので」という教師の思いにあるとしたら、これもやはり問題である。音読が苦手な教師から子どもたちが学ぶのは、「音読が苦手」という意識だからである。
こういう面でも、「授業のデジタル化」には、学習における「身体性の軽視」が垣間見られて辟易させられる。

計算の宿題は一番厄介である。
計算は個人差が大きい領域である。得意な子はすぐに終わらせられる一方、苦手な子は永遠に終わらない。しかも、苦手な子は「これ、合ってるのかな?」という不安を翌日まで抱えないといけない。これはかなりの苦痛であろう。

だからこそ、計算の習熟は教室でさせるべきなのである。苦手な子には、教師が寄り添ってあげて、逐一、丸をつけてあげる。「大丈夫だよ。できているよ」という教師の声かけという安心感が必要な子どもは教室にたくさんいるのだ。家庭によっては、計算で躓いたら保護者が教えてくれる環境が整っていることもあるのだろう。

こんな話を聞いたことがある。
全国学力・学習状況調査において上位の成績を収める秋田県の学校関係者が「秋田県には、児童が帰宅後に迎えてくれる保護者が必ずいる。両親が仕事であっても、祖父母がいる。宿題に困ったときに助けてくれる保護者の存在を抜きにして、秋田の躍進は説明できない」というのである。
これには納得した。学習は学校のみの成果ではないのだ。そういう意味でも、上記の調査の都道府県別順位に一喜一憂する関係者を見て寒々しく思う。

ここまで見てきたように、宿題は、「学校側の怠慢」である面と、「課外の学習活動が必要な低学力層へのアプローチが弱い」という面があることがわかった。そういう意味からも宿題は廃止したいというのが私の考えであるが、私には「文化の破壊者」になれるほどの権力がなく、こうしてnoteに綴ることが精一杯なのである。