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教育と学習


 「教育」と「学習」について考えるのが今回の目的です。この二つの言葉は似ているようで大きく異なるのですが、その「差異」を意識できている人が少ないのではないかなと思っています。

 例えば、
「学習塾」はあっても「教育塾」はありません。
「学習者」は子どもを指す言葉であり、「教育者」は教師を指す言葉です。
「学習活動」の主語は子どもであり、「教育活動」の主語は教師でしょう。

「生きる力」と「学び」

 「学ぶ」という言葉もずいぶん広がりを見せてきました。例えば、文部科学省の「生きる力」のトップページには「学び」という言葉が3回も登場しています。

 ここでの「学ぶ」の主語はもちろん「子ども」ですね。最近の教育言説の潮流としては教室における「教師の権威性」を否定しつつ、「子どもたちを学習者」として位置付けていくようなものがほとんどです。

デューイの「コペルニクス的転回」

 学習活動の中心を教師から子どもにしようというのは、今から100年以上も前にアメリカの教育哲学者であるジョン・デューイも言っていることです。当時のデューイの発言は「コペルニクス的転回」としても有名です。以下がその有名な文章です。

旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。それでゆくなら、子どもの生活はあまり問題にはならない。子どもの学習については多くのことが語られるかもしれない。しかし、学校はそこで子どもが生活する場所ではない。いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。

J・デューイ『学校と社会』宮原誠一訳 岩波文庫p44、45

 このようなデューイの考えを「進歩主義教育」と呼び、それは今でも多くの教育実践に影響を及ぼしています。デューイの実践は、教科書のように実生活や実社会と切り離された学びを「死んだ知識」とする一方、「本物の仕事」の中に真の学びがあるとする考えでした。

例えば、「織物」の単元の報告では、ボタンをつけたり、裁縫をしたりするだけではなくて、原料である「刈りたての羊の毛」を与えられ、そこから織物の「歴史」や「科学」を学ぶといいます。羊毛産業に比べて、木綿産業が遅れた理由について、デューイは以下のように書き記しています。

たとえば、綿の繊維と羊毛の繊維との比較が行われる。羊毛産業と比較して木綿産業の発達のおくれた理由は綿の繊維を手で種子から離すのがひじょうに困難なためであることを、私は子どもたちから教えられるまで知らなかった。或る組の子どもたちは綿の繊維をたまざやと種子から離すのに三十分かかって、ようやく一オンス足らずのものを得ることができた。そこでかれらは、一人の人間は手で一日せいぜい一ポンドを繰りうるにすぎないであろうということを容易に推定することができ、かくしてなぜにかられの祖先が木綿の着物を着ないで羊毛の着物を着たかという理由を理解することができたのである。

同書 p31、32

実は何を隠そう、めがね旦那である僕自身がこのようなデューイの教育哲学のもとで小中学校時代を過ごしてきたという異色の過去があります。最近、映画化もされた「きのくに子どもの村学園」という学校は、このようなデューイの「本物の仕事」の考え方に共鳴して日本に作られたオルタナティブ教育の推進校であり、僕の母校でもあります。

このような学びの「豊かさ」は、誰でも理解がしやすい一方、「総合的な学習の時間」が現場から忌避されやすい傾向からも分かるとおり、「時間がかかり」、「準備が大変」という側面もあります。余白のない学校の先生たちに、このデューイの実践を真似しろなんて口が裂けても言えませんね。

学習から教育へ

最近の教育の言説が「教育」よりも「学習」に傾倒していると喝破したのは、現代の教育哲学者であるガート・ビースタです。その理由として、ここでは「人件費」と「教育効果測定」から考えてみましょう。

古くはテーラー主義まで遡りますが、工業が工場化される中で「いかに短期間に大量のものを生産できるか」という考え方が、様々な領域にどんどん広がっていきます。それは、教育も例外ではありません。教育費のほとんどは「人件費」だと言われていますから、「教師一人当たり」の教える子どもの人数は「少ない」方が「お得」になります。織物について実践的に学ぶ「15人クラス」よりも、織物について教科書で学ぶ「45人クラス」の方が、人件費は3倍もお得です。

そして、「15人クラスの子ども」と、「45人のクラスの子ども」の「教育効果を測定」する場合、おそらく「ペーパーテスト」が用いられるのでしょうが、それぞれの子どもたちの点数を比較して、これが同じであれば、教育効果は同等と判断されることでしょう。たとえ、前者の子供たちの学びの方が「豊か」であっても、それは数値化できません。教育効果が同等の実践ならば、「お得」な方が好まれることは、日本の財務省に聞くまでもありませんね。

さらに、教育の学習化への追い打ちをかけたのが「GIGAスクール構想」の「一人一台端末」です。「未来の教室(経済産業省が掲げるプロジェクト名)」は、AIが提案する学習プランを黙々と「こなす」だけの「超個別最適化」された「学習特化型教室」になっているであろうことは、想像に難くありません。

それでいいのか

子どもたちの「教育効果」が最大化され、「一人一台端末」で人件費も抑えられ、授業の「質」も均質化される。

これをユートピアだと思う方も多いのでしょうが、残念ながらこれはディストピアであるというのが僕の考えです。それは学校教育を、子どもという素材を「社会で役に立つ」ための「人材」として加工するためだけの「教育工場」以外の何者でもありません。

教育とは、もっと、こう、何だかわからないけど、もやもやした、「思い」みたいなものを、子どもたちに全身全霊をかけて、伝えるような、そんな「よくわかんない活動」だったのではないでしょうか。そうやって、人類は、「個」として出なく「集団」として発展してきたのではないでしょうか。

アフリカの真ん中にいた、弱小の生き物であった人類が、地球上の覇者になれたのは、そうやって「教育」を通して、何か大事なものを「教え」続けてきたからなのではないでしょうか。そして、それは「学習」に矮小化されて、本当に大丈夫なのでしょうか。

そんな「測定不可能」な「教育」という営みについて、なるべく「学問的に学びたい」人たちと、僕はこれからも研究していきたいです。

終わり