社会の役に立つ、という物差しについて、の話
何年前だったかな?
私がまだ右手の怪我をする前のことです。
映画館で「ファインディングドリー」を見ました。
見たかったから、ではなく、暇だったからという理由でした。
前評判とかも知らず、「まあディズニー映画ならハズレはないだろう」と思って観覧したわけですが、私にとっては大ハズレな映画でした。
前作の主人公「ニモ」の友達のドリーが主人公の映画でした。
忘れっぽい性格のドリーが迷子になり、色んな仲間の助けを得ながら両親と再会するというストーリーでした。
大ハズレだというのは、そこに登場する主なキャラクターのほとんどが、身体的な障害を持っているという設定だったことです。
身体が不自由ながらも、知恵と工夫で困難に立ち向かい、困っている友人の役に立ってハッピーエンド、という描かれ方をしていました。
一見すると感動しそうなシチュエーションですが、私はモヤっとしたものを感じながら映画を視聴し、そのモヤは映画を見終わっても晴れることがありませんでした。
だって、障害を持つ人が評価されたのが、社会とか人の役に立ったという部分だけだったからです。
それはつまり、社会の役に立つという評価基準を満たせない人は評価されず、存在意義や肩身の狭さに対する救いがない、と私の目には映ったのです。
奇しくもその映画を視聴した数年後、怪我により右手の握力を失った私は、「社会の役に立たない人間の存在価値の無さ」を身をもって感じることになりました。
24時間テレビで、障害をもつ人が一生懸命に頑張って何かを成し遂げるというのがあります。
正直言ってうらやましかったです。
物が掴めて良いね。
痛みにのたうち回らなくて良いね。
人と笑顔で話せるゆとりがあって良いね。
理解して、支えてくれる人が周りにいて良いね!
障害というのは、身体的にせよ精神的にせよ、心をかなりダークに染めます。
常に社会や他人からの評価に晒され、「できない」のマイナスポイントがどんどん増えて行きます。
そうなると、他人のことを褒めたり認めたりする余裕なんてなくなります。
「障害を持ってる人だって、こんなふうに頑張ってるんだよ」
って言われるのが本ッ当に嫌でした!
ファインディングドリーで感じたものは、まさにこれです。
障害があっても、知恵と工夫と周りのサポートで、社会の役に立つようなことをできる人もいるでしょう。
ですが、例えば物を掴めるようになるためのリハビリが5年必要な人にとって、リハビリに費やす時間は「社会の役に立つ」どころのものではないんです。
評価基準を満たさなければ厄介者、と思われるのが、本当に苦しかった。
物を掴めずとも、痛みにのたうち回ろうとも、そのままの姿の私を認めて欲しかった。
パジャマのボタンをかけることができなかったのを、苦労してやっと一つ、ボタンをかけれるようになったことを、誰かに喜んで欲しかった。
歯ブラシが握れるようになった事も、誰も喜んでくれなかった。
もっと社会や家族の役に立つことをしなければ、私は評価されないのだという絶望感。
居てはいけないのだ、と、ずっと悲しみに沈んでしまった数年間。
いま思い出しても、悲しくなりますなぁ。
しかーーーーし!
自分以外の人間の評価など気にしなくても生き甲斐を感じれるものに、私は出会った!
それがフス戦争の研究と、前世探究なんです!
だから強いですよ。これに関しては。
魂がドン底に沈んだ果てに掴みとったものです。
心を海に例えるなら、その海の底の、めちゃくちゃな水圧にも負けず、光の届かない場所でもおのずから光を放っていたような宝物です。
それを掴み取ることができた私の人生は激変しました。
腕の痛みや不自由さはほとんど変わりません。
できることは少しずつ増えてはいますが、できないことの方がまだ多く、それこそ「社会的な評価基準に満たないと」いう点では同じでしょう。
でも、そんなマイナスなことも全然平気になるほどに、フス戦争の研究と前世探究は「面白い」んです!
面白いことの前では、他人と自分を比較することもなく、他者をうらやむことも、恨むこともなくなります!
それは、「社会や世間から評価されることが価値だ」、というものさしから、「そんなことより見てよコレ!面白いでしょ?」という、新たな価値観のものさしにシフトしたからだと言えるでしょう。
スピリチュアル界隈で「ポールシフト」という言葉を聞くことがありますが、それって個人の精神面でも起こることなんでしょうな。私はそれを実感しています。
今も右腕は、破けるような痛みがあります。
明日は雨の予報なので、気圧の変化によって右腕が痛むんです。
けど、この痛みは前世と今世をつなぐしるしのようなものだと思えて、今は愛おしいぐらいです(笑)
結びの言葉が思い浮かびませんが、今回の記事はこのへんにしておきましょう。