「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉が登場します。ちなみに、コギト・エルゴ・スム Cogito, ergo sum. というラテン語は後に、第三者が訳したものです。 2020/06/16
6月も半分終わり。午後出社。オフィスの席替えのため自席の荷物を箱に詰める。懐かしい冊子が発掘されたりと、なかなか時の流れを感じる作業だった。久しぶりに会った人らで軽くご飯を食べて帰る。飲食店の営業時間も徐々に伸びているようで、少しずつ元に戻りつつある感じなのだろうか。
社会が安定してるって大切よね、なんてことを思いながら出口治明『哲学と宗教全史』を読む。
さらに頻発するテロ行為については、ユースバルジ (youth bulge・若年僧の膨らみ)の問題を視野に入れるべきでしょう。
政情が不安定で経済が低迷している中東では、人口の多い10代から20代の元気な若者が働きたくても働く場所がありません。イラクもシリアも国が壊されているのです。若者がたくさんいる、けれども働く場所がない、一方でこれらの若者も恋をしたい、デートをして充実した青春を過ごしたいと思っている。でも働けないからお金がないし、娯楽の機会も少ない。そこでこれらの国の若者は、絶望してテロに走ってしまうのです。
出口治明『哲学と宗教全史』P.247
なんとも物悲しい構造が出来上がってしまっているのだな、ということやイスラーム教とテロというよりもユースバルジ問題の方がテロとの親和性が高いのではないかということなども初めて知るわけで、無関心というのは何よりも恐ろしいことであるな、と思ったのでもう少しオススメされた参考図書を読んでみようかという気持ちになった。
昔、カルぺ・ディエムという靴のブランドがあり、たいそうイケているブランドだったのだけど、いつの間にか見なくなった。「今、この瞬間を楽しめ」という意味なのだとは知っていたけれど、それもまた意訳で「一日の花を摘め」という訳語は知らなかったのでこれまた新たな発見。
逆にもう一つの生き方も登場してきます。いつペストの犠牲になるかわからないし、ペストに感染したら神様も助けてはくれないのだから、この人生を楽しく生きようぜという考え方です。神の手から自分の人生を解放していく生き方です。
「一日の花を摘め(カルペ・ディエム)」、つまり「今この瞬間を楽しめ」、という意味の言葉も人々の口の端にのぼりました。このような立場から書かれた「デカメロン」という物語集があります。作者はダンテの理解者であったイタリアのジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313ー1375)です。ここには神への畏れや敬愛の姿勢は、ほとんど出てきません。
出口治明『哲学と宗教全史』P.291
疫病は人の価値観、人生観をも変えうるということで、あくまでも歴史の出来事だと思っていたようなことが今まさに目の前で起きているというのは、なんとも不思議な感覚になる時があるというか、自分が生きている「今」もまた歴史なのだな、と思うようなことが起きている。もっとも震災なども歴史的な出来事ではあるのだけど、今回は世界規模ということで世界史の瞬間に立ち会っている、しかもどこかで映像で見ているといったようなものではなく当事者として世界史を体験している感じがする。そして家に引きこもりながら日々、本を読み、カルぺ・ディエムしながら生きている。
そして格言的な話でいうともう一つ地味に衝撃だったのがデカルトの話で、ラテン語はデカルトが言ったわけではないのか!?ということ。必ず「我思う、ゆえに我あり」とセットで「コギト・エルゴ・スム」は出てくると思うのだけど、逆にそれほど普及したのは何故なんだろうというのが気になる。気になる気になる木。
そしてこの本の中に、「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉が登場します。ちなみに、コギト・エルゴ・スム Cogito, ergo sum. というラテン語は後に、第三者が訳したものです。
出口治明『哲学と宗教全史』P.325
風呂入ったら寝落ちしそうなくらい眠くなったのでさっさと寝た。