ギャディスの『JR』を読んでいるんだけど、人生初の読書体験をしてるかもしれない
Twitterで話題、といっても結構な読書好きクラスタ、海外文学クラスタ、もしくは実験的な作品に震えるクラスタ、あるいは国書刊行会最高かよクラスタというとても局所的な界隈での話題に過ぎないのだけれど、ウィリアム・ギャディスの『JR』をいつもの本屋さん(小石川のPebbles Books)で買い求め、カバーを剥いでちびちびと読み進めている。
読みきれるわけないし、なんなら読む時間あるわけないのにカバンに三冊+Kindle入れて会社に行って仕事だけして帰ったりする自分でも、さすがに持ち運ぶのが躊躇される程度に分厚い。
主人公はJRという少年。彼が巻き起こす金融ブラックコメディってことになってるんだけど、そんなことよりもとにかくひたすら会話劇。地の文はごく僅かで会話の連続からシームレスに場面が転換していく。章立ても説明もないからいまどこで?誰が?会話してんのかすぐ見失う。
でも、意外と読めるから不思議。
と言っても、まぁなかなかの難読書であることは間違いなくて、途中で挫折*1 するかもなぁ、と思いながら買った。
ところが、今のところ読めている!
そう、順調に読み進められている!!
読みながらメモを取るようなマメさが無いことが読みの浅さと挫折の原因であることはわかっているけれどそこはもう性分だから変えらんない。
そんな私の強い味方が現れたんだわ。
それがこのまとめサイト。
便利な時代だよなぁ。そしてなんか常にこの人が伴走者のように傍らにいて一緒に読み進めている感覚になる。これって人生初の読書体験かもしれない。
国書刊行会さまはJRのマネークリップをぜひこの方に贈呈してあげて欲しいとすら思うよ。ちなみに僕も欲しい。応募した。
Twitterで検索すると同時多発的に『JR』と格闘してる人達がいて、なにこの共通体験としての読書が成立している感じ、新鮮なんですけど、とも思っている。
コンテンツを同時に体験する時間的な共通体験とかオンデマンドな世界になればなるほど失われていくというかあり方を変えていく。それは映像作品の受容において顕著な変化だと思うんだけど、アナログの極みである分厚い本、そして当然部数も限定的だと思われる作品が、特殊なクラスタにおいて体験の同時性を持っているというのはとても面白い。
それって分厚い難読書であることも大きな要因の一つで、とにかく時間かかるからさ、体験の瞬間の同時ではなく、体験する期間の長さによる同時なんだよね。読み終わるまでの長い日々が、「同時に」体験している仲間を増やしてる。
書評や感想ブログなどを読んであぁ、僕もその本読みました、あるいはこれから読みます、みたいな共通体験としての読書を感じるのと違うんだよね。読んでいるその途中の過程というか、いま、同じ作品を読んでいるという行為を共有している感じなんだわ。
あのレストラン行ったことあるよ、美味しいよね、じゃなくて、レストランの別の席で誰かが同じの食べてて、たまに美味しい!とか聞こえてくる感じ。俺もいまドラクエ or FF or ペルソナ5やってるんだよねーみたいな感覚がメジャータイトルじゃなくてものすごいマニアックな作品で起きていてWow!って感じなのよ、わかるかしら。
〜脚注〜
*1 途中で挫折
原則読み出した本は通読する信条なんだけど、これまでに途中で挫折した本が2作品だけあって、それがジョイスの『フィネガンズウェイク』とピンチョンの『逆光』だったりする。両方海外文学、しかも実験的なやつ!ギャディスの『JR』も挫折要素を多分に含んでいる!
Amazonのフィネガンズウェイクのレビューに最高な一節があった。
この上巻の中古価格が悲惨な理由は、この言語実験の極北にある小説をさらに独自の日本語で翻訳するという二重の実験に対して、「読破しよう」と試みて散っていった読者達の怨念である(笑)。僕自身、入手してから10年、何度も途中で挫折して今やっと上巻を読破した。
俺もそうやって散っていったよ...そして多分、全部読了する日は来ないと思う。
でも、ピンチョンはもう少し頑張れそうな気もするんだ。ギャディスいけるならピンチョンもいける気がしてきたのよ。無理かな?『JR』のまとめサイトに似たものあれば再挑戦したいな。まずはそれを探してみるか。
いや、まぁなぜそこまでして読むのかと言われると本と読書が好きだから、あるいは読んでみたいからとしか言えない。シャウエッセンや卵かけご飯やタン塩やハラミ、各種のお酒をいただくのにそこまで理由が必要ないのと似ている。