かつ丼はヨーロッパ由来のカツレツや玉葱を日本の伝統的な調味料で調味した和洋折衷料理の傑作 2020/06/15
早朝からランニング、今日は涼しくて快調で1時間コースを完走したが、朝から足がヘロヘロではある。仕事していたらあっという間で、途中お迎えに行くことを忘れていて、気がついたら時間になっていた時は焦った。飯野亮一『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』を読了。
幕末の開国を迎え、日本人は牛肉と豚肉を本格的に食べるようになったが、好まれた食べ方は異なっていた。牛肉は江戸時代の獣鍋やしゃも鍋の延長である牛鍋という食べ方が人気を得たのに対し、豚肉はイギリスから伝えられたカトレットという食べ方が人気を得た。その結果、牛鍋の料理法からは牛丼が生まれた。カトレットからはカツレツの名が生まれ、カツレツに天ぷらを揚げる技術が導入されて、厚切りの豚肉を揚げたとんかつが生まれた。そして、とんかつに親子丼や「まゝ子丼飯」のような肉を醤油や味醂で煮て玉子でとじる料理法が応用されてかつ丼が誕生した。かつ丼にはヨーロッパから伝来した玉葱も使われている。かつ丼はヨーロッパ由来のカツレツや玉葱を日本の伝統的な調味料で調味した和洋折衷料理の傑作と いえるが、蕎麦屋や食堂がメニューに取り入れることによって完全に和食化して今日に至っている。
飯野亮一『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』P.302
丼ものの歴史を知りつつ、とにかくお腹がすく本だった。同じ著者で『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ: 江戸四大名物食の誕生』という本もあるようで、俄然気になってきている。
続いて、ヨーロッパのカツレツに思いを馳せつつ、出口治明『哲学と宗教全史』を読む。世界史を背景にした思想の系譜。なかなか各思想家の原著をあたる根性はないけれど、概略を知りたいという欲求はあって、こういった俯瞰、概観できる本はとてもありがたい。哲学といえば昔『お厚いのがお好き?』という名番組&名著があったのを思い出し、再読したくなったのだけど、実家の書棚かな。
そこに登場してきたのが、ブッダとマハーヴィーラでした。ブッダは「無益な殺生はするな」と教えていました。マハーヴィーラの創始したジャイナ教は、もっと過激な考え方で、無条件のアヒンサー (不殺生) を主張していました。この2人の教えにブルジョワジーたちは飛びつきます。バラモンが畑にやってきて 「牛を持っていくぞ」といっても拒否すればいい。 拒絶する理屈ができたのです。
「私は仏教徒です。動物を殺すことは、私たちの教えでは禁じられています。牛はお渡しできません。よその畑に行ってください」
こう反論されたらバラモンも、引き下がらざるをえません。正論には勝てません。バラモンがケンカを吹っかけても、お坊さんが腕力でブルジョワジーに勝てるはずもありません。こうして、インドの大都市部でブルジョワジーの多くが、仏教徒やジャイナ教の信者になりました。
出口治明『哲学と宗教全史』P.127
宗教を信じるにも、その取っ掛かりとなる部分はなんだったのかという興味があって、何かしら実利を伴うというか、信者になることの合理的なメリットがないとそこまで流行らないでしょうと思っているので、インドにおけるこの説明はとてもわかりやすく腹落ちした。
カルヴァンを信じる人々は、自分たちは天国に行くことを認められて、この世に生まれてきたと信じています。だったら、どんなにいいかげんに生きても堕落して生きても天国に行けるわけで、なぜ一所懸命働き、 まじめに清く正しく生きようとするのだろうか、僕だったら、易きに流れてすぐに遊んでしまいそうです。
カルヴァン派の人たちは、天国に行くのであるからには、神を裏切ることは許されない。誠実に世のため人のために生きて、天国の門をくぐるのだと考える、強い誇りを持っていました。
出口治明『哲学と宗教全史』P.148
高貴なエリート意識というかノブレス・オブリージュのような精神を感じるのだけど、こういった己を律する理論の変化や、思想が、今へと至る資本主義の精神につながっていく、みたいなそのダイナミズムはめちゃめちゃ面白いというか、カルヴァンも、マックス・ウェーバーもとてつもなくすごいな、と高校時代えらく感銘を受けたことを思い出したのだけど、では日々生きる中でそれが身近かというとそんなことはなくて、現代においては日々の生活と思想の距離が遠いな、といったようなことを感じたりした。意識する、しないに関わらず、なにがしかの価値観、世界観に行動や判断は依拠してしまっていると思うのだけど、そのことに無頓着になっているってことなのだろうか、などとぐるぐると考えてみたり。
イスラーム教の大きな特徴は、キリスト教や仏教のような専従者(司祭や僧)がいないことです。すなわち教会や寺院を経営して、布教や冠婚葬祭などを専門とする聖職者が存在しないのです。イスラーム教では、たとえば八百屋の主人が聖職を兼業していて、必要なときは法衣を着てクルアーンを読み、儀式を進行させます。
ですからイスラーム教では、聖職者の生活のために寄付をする必要がありません。モスクと呼ばれる寺院や墓地などの管理は、自治体やNPO的な組織が行います。イスラーム教を学ぶ大学も、もちろん存在します。しかし、専従者はいないのです。
出口治明『哲学と宗教全史』P.226
そして我ながら情けないことに、イスラーム教に専従者がいないなんてことも知らなかったなぁ、と己の不明を恥じる気持ちなのだけれど、まぁこうやって1つ1つ知らないことを知っていくというのはとても楽しい。
今日は日本酒。早く寝る。