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人はフィクションを通して現実を見る
人は臆病な生き物だと思う。
現実を直視するのは簡単じゃない。
一方で、人という生き物はフィクションを欲しがる。それは現実逃避か?なんて思ったこともあったけれど。思うに、一度フィクションをはさむことで、直視するのが難しい現実にどうにかアプローチしようとしてるんじゃないかな。
自分という物語に入るために、別の物語を経由する必要があるっていうか。
そのくらい、人はとても臆病で、繊細で、複雑で。なんとまあ奥の深い生き物なんだろうねえ。
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「ゲーム夜話」というyoutubeチャンネルが好きでよく見ています。
「大人が真剣に作ったゲーム作品を大人が真剣に語る」をコンセプトにしていて、この動画を作ってる方の感受性・視点がとても鋭敏で、ゲームの奥深さを今になって噛み締めているところ。
小学生、中学生当時はゲーム=遊び・娯楽としかとらえていなかったんだよね。あるいは暇つぶし。
けれど、「ゲーム夜話」の語りを聞いていると「人間の普遍的価値観」を無意識に作り手たちから受け取り、また、自分からも求めていたんだなあと思わざるをえない。
私がこの動画シリーズを通じて学んだことは、多くの優れたゲーム作品は、人間の普遍的価値観に基づいて作られているということです。
・人のために生きる
・助けた仲間に自分が救われる
・父さんが叶えられなかった願いを私が叶えたい
・おのれを棄てろ、大義のための礎となれ
根底に普遍的価値が備わっているからこそ、私たちはコントローラーを通じて女の子を助け、単なる“ゲームのルール”という解釈をも超越して、感情移入を伴いながら、ゲーム世界のなかに深く入り込むことができるのだと思います。
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「ゲーム夜話」の語りを聞きながら個人的に思ったのは、人はフィクションを通して現実を見ているんじゃないかな、って。
ゲームはもちろん、小説、映画、ドラマ、アニメ、フィクションの世界。きら星のごとくあるなかでも人気を集めるのは、緻密で丁寧でリアリティ溢れる世界観の描写が際立ったものだよね。
そのありありと感じられる世界観を感じることによって、その作品世界に没入できる、入り込める、感情移入できる。
その体験を味わったあとで現実に戻ったときに、ふと、この現実世界への興味関心が引き起こされたり、気づきがもたらされるんじゃないかな?
人は臆病だから、現実を直視するのが難しい。そもそもひとつの出来事も自分独自のフィルターを通してしか見ることができない。
だから、フィクションや仮想世界を一度経由し・迂回し・遠回りすることで、ようやっと自分たちの現実世界を見つめることができるのかもしれない。臆病がゆえにあえてそういうタイムラグがあるつくりにしてるのでは?と想像を巡らせてみたり。
映画『君の膵臓をたべたい』でのとあるシーンを思い出す。
主人公はるきに対して、ヒロインさくらは「真実か挑戦ゲーム」を申し出る。トランプを引いて数字が上のほうが相手に命令できるというもの。
はるきは聞きたいことがあるなら直接言ってくれればいいと言う。それに対しさくらはこう答える。
「みんな本当は臆病だから、こういう運にゆだねるの」
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たまに、「向き合う」ことや「ストレートに伝える」ことができない人を指して、意気地なしだとか弱いと切り捨てて笑う人がいる。
僕はそれを見て、う〜ん、、、と苦虫を噛んだような顔になってしまう。
すぐにできなくても当たり前なのかなと思う。なぜなら、人は臆病だから。
僕なら「人は臆病な生き物」という前提に立って考えるけどなあ。
フィクションの世界を体験しているある日、ふと、その人はその人自身のタイミングで「向き合う」こともあるんだろうし、「ストレートに伝える」日も来るのだと思う。
その人が望むかぎりは。