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【SERTS】scene.12 天文学者たちの湯圓

※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)


「まもなくスタートから五キロメートル地点です。休憩を取ることを推奨します」
 骨伝導イヤホンから伝わる『猫のジュンコ』の声を無視して走る。ひた走る。しばらくすると、心拍数、歩数、体温、消費カロリー、その他諸々が表示されているスポーツサングラスの視界に、「休憩してください」とバリケードテープのようなデザインをした警告が表示され、ちかちかと明滅して煩わしい。
「ああもう、うるさいな」
 アスリート設定にしていても、所詮は人間の身体能力を元に作られたランニングコーチング機能だ。最近は身体が鈍りがちとはいえ、人外族かつ身体を資本としてきた僕にとって、これではなかなか物足りない。サングラスの縁をタップして中断からのリスタートを選択しようとすると、アプリのUIが反映された薄黒い視界で僕と併走していたホログラムのジュンコが、「不正行為はいけません」と開いた肉球を向けてきた。黒い肉球……鼠を捕まえる猫の肉球である。
「前までそんなこと言わなかったじゃない」
 その柔らかそうな部位のいじらしさに免じて中断のタブを元に戻したものの、なにが不満なのかジュンコは難しい顔をしたままだ。
「学習しました。あなたは無理をしがち……いえ、無理がお好きですから」
 声だけはフラットに、ジュンコはそう言って僕に釘を刺す。
「無理してないんだけどなあ」
 しかしここはジュンコに譲ることにして、徐々に減速をして徒歩に切り替える。汗を拭き、少しずつ水分を補給。それからキャップを脱ぎ、頭皮を気持ちよく風に晒して髪を結い直していると、唐突に爆竹の音が聞こえてきた。
「いやー、びっくりするね、これ」
「そうですね。私が本物の猫でしたら尻尾が膨れていたところです」
 ジュンコと一緒に次弾の気配に耳を塞ぐ。ばん。ばんばん。ばらばらばら。慣れない音なので聴こえる度に一瞬身構えてしまうが、今は王が傍にいないことを思い出し、ふっと平常心に戻る。すこし心臓に悪いが、これは祝いの音だ。悪意があるわけじゃない。
「そろそろ戻って大丈夫かなあ……」
 向こうで老人に「ここで爆竹を鳴らすな!」と怒鳴られて、きゃあきゃあと逃げ回る少年少女とすれ違いながら、僕は憂慮に息を吐く。ジュンコが「ヴォートランに問い合わせましょうか」と窺ってくるのを、いいよ、と断ったのは、今朝の個人的大惨事が思い出されたからだ。
 今朝はやけにぱっちりと目が覚めた。耽美系代表として恥じない低血圧である僕は、可愛い我が王に起こされない限りは毎朝気分が最悪で、だらだら水を飲み、スマホを確認し、『ご相談』メールや「次はいつ会えるの?」メッセの数だけ酷さを増す眩暈に視界をジャックされたりして、何度も何度も意識をブレさせながら一時間ほど経ってようやく目が開くといったところなのだが、今朝は違った。これはいい朝の予感だ……なにかいいことありそう春節だしね! と隣で寝ていた王に向かって勢いよく寝返りをうち、朝から一戦交えませんかの意味を込めて「おはよう!」と声を張り上げようとしたその途端、傍らに王がいないことに気がついた。見れば隣のベッドに、就寝前にはいなかったはずの先客。……途端、普段なら朝には出そうと思っても出ないようなクリアで大きな声で以て、「おはよう」を「おっぱじめてんじゃねえ!」に転換した僕は、続けて「信じられない!」と嘆いて頭を抱えた。
 いや、正確には『おっぱじまって』いるかどうかは、わからない。しかし布団の作る膨らみの下からは、ふたりぶんの吐息と、その質量の蠢きがありありと。僕のベッドと隣のベッドの間の床にはネグリジェやらシャツやら下着やら。おまけに息継ぎを求めるかのように布団の下から飛び出してきた白くて小さな手が、苦しそうに枕をぎゅっと握り込んだところを、遅れて這い出てきた黒いネイルの大きな手が掴んで中に戻したりして。……そんな、惨憺たる犯行現場に悲鳴すら引っ込み、茫然自失としている僕の耳に「すごい……」と王のか細い声が届き、期せずして言質が取れる。すごいって、すごいって、なんなんだ。
 なんかもうさ、逆にさ、見せてくれればいいじゃん?
……とは言えずに、「ちょっと自分、走り込み行ってきます!」とあの日のリフレイン。僕は転がり落ちるようにベッドから下り、躓き、椅子に脛をぶつけてキャンと鳴き、半泣きになりながらトレーニングウェアに着替えて、そして今に至る。性欲だろうが嫉妬だろうが、燻ったものの解消には運動が一番。基本中の基本だ。
「ちくしょー……僕も朝っぱらからやりたいよう……すごいって言われたいよう……」
 僕が朝から煩悩まみれの呟きを漏らしていることも知らずに、若い女の子たちの集団が僕を見てきゃあきゃあと黄色い声を上げている。僕はそちらに視線を向けないようにしながら、袖で拭いていたサングラスをかけ直すと、ジュンコに「軽く朝ごはん食べたいなあ」と訴えた。

 ジュンコの普段よりも妙に優しいエスコートを受けながら、真赤い正月飾りが賑やかな街並みを歩いて最寄りの朝市へ。流石に元日とその前日の徐夕はどこも閉まっていたが、ここの通りは今日から営業開始らしい。開いている店舗が普段より少ないように見えるものの、朝食を摂る程度なら充分すぎるほどだ。
 どうせのちほど皆で食事をするのだから、今がっつり食べても仕方ないと、ジュンコにさっぱりしたものが食べたいとオーダーすると、彼女は一秒ほどの間ののちに、「薺菜豆腐湯ジーツァイドウフタンはどうでしょうか。ナズナと豆腐のスープです。薬膳料理でもあり、胃腸を労わるのには最適ではないでしょうか」と僕の腹具合にもぴったりの提案をしてきた。
「いいね。そうしよう」
「二軒先、左手の店舗です」
 彼女の言ったとおり、指定された屋台では店員の手により大鍋がかき混ぜられていた。肌寒い朝の空気に大きな湯気がぶわりぶわりと吐き出され、暖かそうな雰囲気にちらほらと人が集まっている。僕も三人ほどの列に並び、その薺菜豆腐湯を注文すれば、僕の体格を見たらしい中年の女性店員が「兄さん、こんなんで足りるのかい? 包子パオズも一緒にどうだい」とすかさず営業トークを挟んできた。彼女の指すほうを見てみると、隣の店舗の調理スペースには蒸し器が詰み上がっており、そちらにいた女性店員も僕に向かって「うまいよ!」と笑顔を向けてくる。
素菜包スーサイパオあります?」
 スープの会計をしながら声を張ってそう問うと、向こうの店舗の彼女は「あるよ!」と蒸し器の上段を開けながら答えくれた。ならば買ってやるかと「ひとつください!」と彼女と同じだけの声量で注文し、スープの容器を片手に移動して、こちらでも会計を済ませる。この国では大声でのやりとりが多いが、それにも慣れてきた。最初のころは思わずびくりとしたものだが、言語の性質上そうなるものなのだと学んでからは受け入れられるようになった。それに併せて自ら進んで相手とテンションを合わせるようになったのは、言葉や行動の端々から仲間意識を持ってもらえればそのぶん手厚くもてなしてもらえることを旅客の立場から実感してきたからだ。ぶっきらぼうでありながらも親切。仲間意識を抱いた相手にはとことん世話を焼く。この国の人間に対して、僕はそんな分析をしている。これは国の歴史や地理、宗教観などからそういう傾向が見られるのだろうが、それを観察する僕の立場が変わればまた印象も変わるに違いない。結局人は自分の感覚という不確かなスケールを使ってでしか物事を推し量れないのだから、僕は「僕がこう思った」ということでしかものを言えないし、皆が皆そうであることを胸に留めておこうと思う。
 会計処理をしたあとその女性店員は、「これっぽちで足りるのかい」と怪訝そうな顔をしながらも、選んだ包子を手早くバーガー袋に入れてくれた。それを受け取りながら、
「はは、あっちでも言われましたよ。でもランニング中なので……」
 と笑ってみせれば、彼女はぽっと少女のようにはにかむ。
「まあこの時期なのに偉いね。モデルさんかい?」
「いや、ただの日課ですよ」
「そーお。なおのこと偉いね。ほら、席が空いてるからそこで食べていきなよ。今日は客が少ないんだ。兄さんがいてくれたら客が寄ってくるよ」
「はは、そんなことはないですよ」
「またまた、謙遜しちゃって。いやあ、本当にいい男だねえ」
 すると、先ほどスープを買った屋台の店員が、声だけで割り込んできた。
「ちょっと、どうせ結婚してるんだからあんまりちょっかいかけなさんな。ごめんねえ、兄さん」
 外からは完全に目元が見えない仕様のサングラスであるのにもかかわらず、微弱ながらも魅了体質が働いているのは、おそらく王が贈ってくれた眼鏡ではないからだろう。あれなら目元が透けていても単に『顔のいい男』で済むのだが、汚破損や紛失を避けるため、僕は外でのトレーニングでは市販のサングラスを使っていた。魅了を遮断する機能はあの眼鏡より遥かに劣るものの、僕の裸眼が危険なことに較べれば、この程度のちやほやとした扱いを受けるストレスなどどうということはない。
 引き続き僕の顔を褒めるふたりの店員をのらりくらりと躱し、簡素ながらも広めのイートインに移動すると、二人掛けのテーブルに腰を下ろした。どうぞ、と椅子を引いて背の低いジュンコ(もちろん普通の猫のサイズではなく、小柄な人間程度の背丈がある)を促すと、彼女は「ご丁寧にありがとうございます」と言って席に腰を下ろし、頭に被っていた肉球ロゴのスポーツキャップを脱いだ。そして顔を洗う可愛らしい仕草を見せてくれる。
「あー、沁みるー……」
 プラスチックのレンゲで口に運んだそのナズナのスープは、上品な塩味にゴマ油の風味が効いた、ほっとする味だった。細かく刻まれたナズナによりスープ全体がしっかりとした緑色をしているので、もっと青臭いのかとも思ったが、予期していたエグみはない。むしろさわやかな青っぽさに野菜好きとしては嬉しくなる。糸状に刻まれた豆腐と豚肉がアクセントになっていて、野菜嫌いの王でもひとくち食べさせればあとは勝手に食べてくれるような、そんな一椀。とろみがついているのも冬場にはありがたい。ジュンコの食のセンスがかなり良いことを改めて実感しつつ、「キミも食べる?」とお礼の意味も込めて包子をを半分に割って、片方を彼女に差し出してみる。冒険したくないときや元気のないときに、僕は頻繁に彼女の世話になっていた。
「私に食事は必要ありません」
 案の定、テンプレの返事。しかし彼女は「お気持ちだけいただきます。ハオチーです」と可愛いフォローを入れてくれた。
「ラドレさんはおひとりで食事をされるのが苦手なようですね」
「……まあ、さみしがりやなんでね」
 そう答えて齧った素菜包の中身は、チンゲン菜と椎茸のようだ。むっちりした生地に繊維質の触感が組み合わさって、きちんと噛むことを要求されるが、そのぶん野菜の甘味が染み出す。これぞ野菜餡といった満足感。ぎっちり詰まったチンゲン菜の青物っぽさを、椎茸の豊かな風味がマイルドにしてくれている気配があって、なかなかのコンビネーションだ。
「あの兄ちゃんが食べてるのかい? そりゃあこの素菜包だよ。食物繊維たっぷり。これを食べたらあんなふうに綺麗になるよ!」
「こっちのスープもだよ。ナズナは女の子には特にいいんだよ。あ、妊娠中の子はやめときなね」
 向こうで、僕をダシにした営業トークが聞こえてくる。それに付随してきゃあきゃあと女子の集団の声。よくもまあ見た目だけの男の見た目だけに反応するものだ。白けた心地でスマホを取り出せば、予想を裏切らずメッセージアプリに通知が溜まっている。ざっと確認してみた限り、ほとんどが女の子たち(年齢不問)からのもので、思わず大きな溜め息が漏れた。傍から見たら僕が彼女らを囲っているように見えるであろうそのハーレムでは、実のところ『僕が囲われている』のだが、そんなことは誰にも理解されない。
 僕は人材派遣というサービスを売って、それと並行して自分も売っていた。ビジネスにおいてはコネとハッタリがすべてだ。実力なんてスパイスでしかない。目に見える範囲、手に負える範囲の経済を円滑に回すために僕は顔も身体も売り捌いてもうなんにも残っちゃいない。相手はお偉方のご夫人。やり手のワンマン女社長。女記者。謎に女優も。当然そのパートナーなりなんなりが怒りを爆発させ僕を呼びつけるが、そっちの処理はもっと簡単だ。屈辱そうな感じを出しつつ一発しゃぶっておけばいい。その最中、僕はなんにも考えていない。別に屈辱じゃない。どうでもいい。女を抱く二時間より、男相手の五分十分程度、安い安い。しかも彼らは一律に口が堅いときたものだ。そりゃあそうだろう。僕らの業界はノンケやっててもゲイやっててもなにもしてなくてもイマジナリー『男らしさ』に殺される化石の世界だ。クソみてえなマッチョイズムにあやかって、平伏すポーズで乾杯一発。なにから釈放されたのかも曖昧なまま、お目溢しという免罪符を交付してもらえば、あとは素知らぬ顔で商い商い商い。『男の生きづらさ』だあ? 知るかよ。個々人で勝手に設定しているだけなのに主語大きく唱えやがって。可哀そうに、ごっくんしてやろうか? 笑顔で一気飲みさせていただきます。女々しくても男らしくなくても結構。僕はとっくにそこから降りている。降りていながら、利用されてもいる。ほんとに、しょーもない。パライソなんてどこにもない。
 だからこそ、いま王と演じているバカンスという名の逃避行が、心底楽しいのだ。身体が空くだけで、いま幸せだ。
「はーあ、だる……」
 レディどもに一律、ハートマークを浮かべた犬のゆるキャラのスタンプで返信して、スマホをアームバンドに戻そうとすると、上海で機種変更したばかりのそれが未だ耳に慣れぬ音で鳴った。これは着信の音だったはずなので一応名前を確認すると、『ファユエン』とある。ああ、よかった。イヤホンで受話しながら席を立つ。「もしもし?」「新年好シンニィェンハオ! ラドレくん!」「新年好、ファユエンちゃん……ってメッセでも言ったじゃん」「ええー、直接言いたいでしょ?」手にしていたゴミをゴミ箱に放り込んで、屋台の並ぶ大通りに背を向ける。
……ちょっと待て。僕は今、「よかった」と思ったのか? 安堵したのか? 他の女ではなくこの小娘でよかったと?
 妙に喉が鳴る。喉が渇いたのかと腰のホルダーからペットボトルを抜いて残りを口に流し込むが、その不穏な喉の蠢きは治まらない。イートインの裏手から細い路地を経て来た道へと戻るあいだ。目だけで自販機を探すあいだ。彼女が初売りの戦利品について話すあいだ。僕はなぜだかずっと全身を震わせていた。身体がちぎれそうだった。この世にパライソはない。でも、花園はあるんじゃないか。その期待感が、不可解だった。ようやく見つけた自販機の前で茫然と立ち尽くしながら、口では明るく彼女のとりとめもない話に相槌を打つ。ここでなにを買うべきかわからない。パッケージの色しか認識できない。
「杭州にいるんだぁ、いいね。綺麗なところがいっぱいあるよね。あ、西湖醋魚シーフーツーユイには気をつけて。当たり外れがあるから。高いからって油断しちゃだめ。たまに生臭いのがあるんだよ」
「うん……わかったよ。わかった……」
 彼女の話に頷きながら、僕はずるずると自販機を背に座り込む。しゃがんだ膝関節がごきりと痛くて、途端に目が醒めたような気がするのに、なぜだか立ち上がれない。
「あ、そういえば会長さんは? お元気?」
 沈黙。なんの思考もない十秒が過ぎる。会長さん。ああ、会長さんね……。
「……オトコといるよ」
 僕はなにを。
「朝っぱらから熱愛中」
 ちょっとさみしそうな息なんて漏らして。
「えっ……。あ、そ、そうなんだあ。……ええと、その、ラドレくん、大丈夫?」
 するとたちまち彼女は慌てた様子でその動揺を隠そうとする。その健気で真っ当な反応に、その精神性を垣間見て、タバコを吸っていないのに目元に皺が寄るのを感じる。フツウのイイコだ。フツウのイイコなのに。
「なにが? 僕は大丈夫だよ」
 心拍数の異常を告げるジュンコを、コーチングアプリのウィジェットとともに消す。ごめんと唇だけで謝って、首を傾げて心配そうにしていたその残像に痛む胸を、その感情を、直視しないようにする。
「……ううん、なんでもない」
 ちょっとウケるくらいに、僕が騙した女は優しい。
「あ、きのうはちゃんと湯圓タンユエンは食べた? ちょっと地域で呼び名が違ったりするし、春節に食べるかどうかも地域とか家庭によるんだけどね。浙江省が発祥って言われてるんだよ。食べてなかったら食べてみてね」
 湯圓。発音が団円トゥアンユエン(団欒)に似ていることで縁起物とされている団子のことだ。まったく、いじらしい小娘である。
「ああ……ライス・ダンプリングだよね。写真で見たことあるよ。まだ食べたことはないから、見かけたらチャレンジしてみるね」
「うん……その、元気出してねっ。まだ寒い日もあるけど、旧暦だと春だし、ね?」
「ありがとう。ファユエンちゃんも風邪ひかないようにね」
 終話の余韻が憎らしくて下唇を強く噛む。
 最低だ、とたぶん声にした。イヤホンのせいで自分には聞こえなかったと言い訳したかったが、僕が今使っているのは骨伝導イヤホンだから耳は塞がっていないことに気がついて、改めて「最低だ」と軽蔑の切っ先で自分を刺した。僕は最低だ。事実と微妙に異なるニュアンスで王を引き合いに出し、あまつさえ、白々しく慰められようとした。いや、正しくはすべてを敢えて匂わせるだけのニュアンスに留め、彼女の同情心を煽ったうえでその優しさを引き出そうとしたのだ。でも。それだけが『僕だけ』に向けられたすべてだった。嬉しかった。嬉しかったことが怖かった。指先が凍えるように冷たいのに顔だけが笑顔になってゆく。なにかあたたかいものを買おうと立ち上がって自販機のボタンを押すと、キンキンに冷えた謎の甘い茶が出てきた。

 部屋に戻ると、王はテレビで『ヌンチャク・パンダ春節スペシャル』を観ていた。ハリエットはベッドで寝ていた。布団越しにその裸体に膝蹴りを入れれば、疲弊しきった声で「うるせえ」と悪態を吐かれる。「寝てねえんだ、寝かせろ……」
「何時に着いたの?」
「あ……? 明け方くらいじゃねえか……」
「いや、寝てないならヤってないで寝なよ」
「もう疲れて色々限界だったんだ……」
「あっそ。新年好」
「新年好……」
 直後、すうと寝息。どうやら彼は本当に疲れているらしかった。そんなときほどヤりたい気持ちもわからなくはないし、繁忙期が延びて春節を跨いでしまった彼に対して同情心がないわけでもないので、しばらくは放っておくことに決める。床に散らばった彼の衣類を拾ってその身体の上に放り投げてから居室へと戻れば、王はヌンチャク・パンダのエンディングテーマに合わせて身体を揺らしていた。
「シャワー浴びた?」
「浴びました」
「残念。一緒に入りたかったのに」
「お湯を張ってくれたらいいですよ」
「え、ほんと? やった」
 言われた通りに空だったバスタブに湯を入れながら、汗を吸ったトレーニングウェアを洗濯ネットに分別する。あとでランドリーに行かないとな……と思いながら居室に顔を出し、王を手招きして呼び寄せれば、王はすんなりに傍にきてくれた。ちいさな肩を掴む。無言で見つめあう。僕、さみしかったんだけど。……と、言いたかったのに声が出ない。得体の知れない感覚が全身を包んでいて、なにもかもが言語化の域まで形を成していないのに、ただただ後ろ暗いという意識だけが明確にあって不気味だ。そんな僕を、王はただ透明な眼差しで見ている。無言のまま、僕の手が王の肩を、肌を、勝手になめらかに這って、王の纏っている薄手のキャミソールの肩紐を、一気にショーツごと引き下ろす。そして言葉のないまま、『僕の番』を終えた。
「春節スペシャルってなんだったの?」
「なんと、豪華二本立ての春節回です。いつもとは違う映像のノンクレジットEDでした」
「へえ、そういうのもやってるんだねえ」
 けろりと何事もなかったかのようにそんな話をしながら、なぜか僕たちはぎゅっとつよく抱き合ったままだ。ソファに腰を下ろし、春節特番をただ流すだけの沈黙の春。王の髪からシャンプーのいい香りがして、くらくらして、なんだか眠いような。王の細腕が僕の背を捉えて離さないのは、寒いからだろうか。背後の寝室から「その書類はデスクに……ちが……左左、見えてるだろうがおい……」と夢の中でも仕事をしているらしいハリエットの寝言が聞こえてきて、思わず吹き出せば、あらまあと王も笑う。なごやかな口のふたつ。空漠を掻き抱く腕の四本。王が合わさった胸を捩るのは圧されて痛いからだろう。すこし位置を調整して、今度はぴたりとくっつく。離れたくない。いや、僕は王と違うものになりたくないのだ。自分のちぎれそうな肉体を押しとどめるためにそのちいさなからだを使って、僕はあなたのために生きていたいと希う。そしてそのねがいの大仰さにほとほと困り果ててなおのこと腕に力を込める。それに連動するかのように王の腕が僕たちの隙間を絞る。只の動揺のひとつだけに対してどうして僕はこんなにも不安なのか。こんなの忘れてしまえばいいだけなのに。
「ラドレ」
「うん?」
「わたくしは、怒ったりしません」
「え?」
「おまえがわたくしにそうしてくれたように」
 だからね。と、王は続ける。僕はどきりとして硬直する。ちいさな側頭部が、僕の耳の後ろあたりにこすれて、髪がしゃらりと音を立てた。
「なにを食べてきたのかおしえなさい」
 そう言って僕の胸を押して身体を起こした王は、それは見事な膨れっ面をしていた。遺憾。そんな感情が前面に押し出された眉間と右頬。そのぷっくりとした膨らみを、指でつついて割って、思わず笑う。急速に背筋が熱を取り戻す感覚は、間違いなく裏切りの証だった。
「……葉っぱのスープと葉っぱの包子ですね」
 その点は正直に告解すると、王は「葉っぱ!」と嘆いて肩をぶるぶると隆起させた。「おめでたい時期なのにお肉を食べないなんて」と口元を押さえ、信じられないという目つきで僕を見ているその目の奥はじつのところにこやかで、一抹の凶兆すらない。どうやら僕の一挙手一投足に潜んでいるかもしれない罪悪感を看破され罰せられ盛大にポイ捨てされるのではないかと思い込んでいたのは錯覚だったようだ。熱い溜め息とともに安堵してしまう僕は間違いなく不義理な男だが、すべての杞憂も罪もバレなければなかったのと同じだ。
「しかもね、王。僕、女の子と一緒だったよ」
 笑顔で茶化す余裕をキメ込んで、僕はどんどん自分自身の信頼を失っていく。
「む……! どこの令嬢ですか! おまえをときめかせたおなごを紹介しなさい!」
 王が笑って僕の肩を揺する。それにより、偽ることへの冴えを、もっと言えば才能を、自覚する。今までもずっとそうだった。僕は王に嘘は吐かないという体でいながらもベテランの大噓吐きで、大仰にその役を羽織ったところで、嘘の裏で真実を語ることもない。ただ、生産性のない嘘を吐いているだけなのだ。「ちょっと商談に行ってくるね」「飲みすぎちゃってオフィスで寝てたよ」「『ご相談』に乗ってて」「好きな人は今いないかな」「いやあ、会長は綺麗すぎて抱けないですよ」「独り身って最高じゃないですか?」「さみしくなんてないです」「父上に褒められたいとか、思ったことないですよ」「陛下、お風邪ですか? お休みになればきっとすぐに治ります」……僕は嘘でなにも守っちゃいない。守れた試しが、ない。
「ジュンコちゃん」
 嘘を吐くと、いつも脳裏には、血を吐く王の姿がちらつく。
「ジュンコ……よい名です。ジャパニーズですか? いいでしょう。わたくし、『コニチハ』言えますので」
 半分嘘を吐いた僕に、王は腕を組んで踏ん反り返ってみせると、言葉の表面だけをなぞっていく。いつもそうだ。王は僕が言葉にしたことだけを汲んでくれる。余計な憶測など一切しない。表面こそ本質であるというのが王の主義だ。それが怖いくらいの一本気だから、僕はたまに飾り気がほしくなるのかもしれない。
「カミナリのオヤジ、やります。チャブダイ、ドンガラガッシャン、やります。ブワッカモン、言います。頑張ったら骨があることを認めてやります。さあかかってきなさい娘のカレシよ。ムスメはモノじゃないぞ。そこんとこ理解してるのか!」
「王、猫、猫だよ。あと王はどの立場なの」
「新春三番勝負です! 最初の種目はストラックアウト! ワシの屍をこえてゆけ!」
 もう話を聞いていない王は、僕の膝からするりと降りると、ストラックアウトと言ったくせ、バットの素振りのジェスチャーをしている。しかも一本足打法だ。
「ビッグドライブ、ぶ、ち、か、ま、せー!」
 男ふたりをほぼ連続で相手取ったばかりだというのに、元気が過ぎる。エアバットがなぜか生み出している気流に目を細めながら、そういえば昨日一昨日と店が閉まっていることを言い訳に、王を部屋に閉じ込めてしまっていたことを思い出した。そろそろ外に連れ出して遊ばせてやらないといけない。燻ったものの解消には運動が一番。基本中の基本だ。
「王、なに、バッティングケージに行きたいの?」
「でも、野球、ダメ。と、おまえが」
「まあ設備壊すからねえ……」
 前に一度、弊社のメンバーでバッティングケージに行ったことがあるのだが、王は初っ端、ファウルなのにホームランパネルをぶち壊した。自分でも突拍子もない言語化だとは思うが、とにかく、壊した。経理担当のツェリスカが悲鳴を上げ、「陛下! アイス食べましょう!」と王をバッターボックスから後退させたことは強烈に印象に残っている。施設側はバットを振っていたのが華奢な少女だったため「設備が古いからかなあ。気にしないでね」と不問にしてくれたのだが、その彼の後ろ姿は何度も首を傾げていた。弊社一同が肝を冷やしたことも知らず、王はそのあと「なんで、なんで」と駄々を捏ねながらも自販機のアイスを六つも食べていた。
「代打のお知らせだ」
 ふと、そんな声がして振り返る。そこには下着一枚で眠い目を擦っているハリエットの姿。隆とした筋肉に包まれたぶ厚い肉体は、まさに伝説的スラッガーの貫禄。臍のあたりで月を模ったタトゥーが光る。
「四番、お嬢ちゃんに代わりまして、代打、俺。背番号1」
「きゃあ! やってまえー!」
 眉間に思い切り皺を寄せている僕を他所に、彼までもがエアバットを握ってしまったので、咄嗟に「さっき試合してたでしょ。はいはい終わりでーす」と手を叩く。この場でふたりが素振りを始めてしまったら僕にはもう止められないという確信があった。エアバッターボックスでホームラン宣言をしているハリエットの背後に回り込み、「ほらシャワー浴びてきなさい」とその背を押してバスルームに捻じ込む。
「なあ、お嬢ちゃん、俺とシャワーしながらもう一戦……」
「残念。王はもうさっき僕としたからもう閉場ガラガラまた来シーズン」
「はあ? 俺の日に被せんなよ掻き出されるだろ」
「それは馬ぐらい出してから言えって」
 洗面所の扉をぴしゃりと閉めて王を振り返る。すると王は「なるほど、馬ですか」と真剣な顔でひとり頷いた。それに対し「ヒト型形態でそこは反映されないんじゃないかな」と指摘をしてから、僕はクローゼットのハンドルに手を掛けると、「さて」と気持ちを切り替えてそれを勢いよく引いた。ときは春節のハッピーな休暇期間。シンプル志向の我が王にも、この特別な衣装で素敵に着飾って貰おう。

「むう、いつにもまして動きにくいですねえ」
 おめでたい雑踏のなか、そう漏らして不満げな顔をする王は、この上なく艶やかな漢服姿だ。惜しみなく細やかな装飾や、いっそのことエグいくらいの刺繍に彩られた赤いドレスは、金魚のようにひらめく裾のカッティングとシアー感が春の訪れどころか我世の春まで采配している。ストレートアイロンをあてた直線的なヘアスタイルを彩る髪飾りや、手元の華奢さを増強する花型の扇などの小物も素晴らしい。国が傾くどころか世界が転覆する。冷静になればお祝いムードも吹っ飛びそうになるほど、なにもかもがエクスペンシブな逸品ではあるが、しかしガラシャが「これを着た陛下の写真をくださったら割引します(出来高制)」と見積もりに書き添えてくれたことにも助けられ、僕の頭は春一色。
「でも綺麗で可愛いよ。世界一だよ」
 いくらでも頭を湧かせていこうという気概が声音に表出するのを感じながら、王の肩を抱けば、
「一番の、イチ?」
 といじらしい期待に満ちた眼差しが僕に向けられる。あのときと同じ言葉だ。水着のときに失った信頼を取り戻すために、僕は目と声音に自信を込めて、
「そうだよ。愛は相対的なものだよ。キミがトップオブトップだよ」
 と訴えかける。すると王は「まあたまには動きにくくても、いいですよ」と満更でもなさそうに微笑みながら僕の脇腹に身を寄せてくれた。ああ、幸せがここにある。しかし今は春節のお祝いムードの充満するかがやかしい時期なのだから、幸福は気前よくシェアすべきだ。王の左側を歩きながら、さっきからずっと無言のくせニヤニヤしているハリエットに「言えよ」と口の動きだけで伝えると、彼は唇をぎゅっとしまい込むような仕草をみせたあと、王の肩をつついて「可愛いよ」と短く言った。すると振り返った王は「どのくらい?」と愛の難題を彼に吹っかける。さて、この男はどう答えるのか。息を止めて様子を窺うが、彼は半拍も置かずに、
「キミだけが、可愛い」
 と堂々言ってのけた。
 なるほど、絶対的な表現で僕に挑もうというのか。面白いじゃないか。
「動きにくくてもキミと一緒なら構わない」
 そう言って青い裾を翻す彼も、肩を竦める僕も、揃って漢服姿だ。普段着よりずっと詰まった裾と袖であるが、窮屈さを感じていないらしい彼の様子に、ガラシャの目測の正確さを察して舌を巻く。彼が着ると中華ファンタジーの主役のように見えるその衣装は黒と青を基調としていて、一切ぼやけたところのないバッキリとしたコントラストが、彼が黒の似合う男だということを誇示していた。髪も下ろしたスタイルにしてもらったので、妙な色っぽさがある。対する僕のテーマカラーは白と紫だ。羽織のあるデザインで、ハリエットのものよりはゆとりがある誂え。羽扇でも持てば軍師風になりそうだ。
 ハリエットの求愛に、王はただ「ふふ」と微笑んで口元を扇で隠す。その仕草を真正面から捉えたハリエットはその艶姿にやられてしまったらしく、目元を手で覆って「死ぬかも」とちいさく漏らすので、「死ぬなし」と吐き捨ててやる。「ブラック・ウルフみたいに生き残れよ」
 そんな僕の言葉に王は「そうです! なにかに似ていると思ったら、実写版黒狼ヘイランみたい! すてき!」と一変して彼の腕に抱きつくと、「剣舞して!」と強請って離れない。負けじと「王、僕は? 僕はすてき?」と縋りつけば、王は僕を振り返って上から下までじろりと観察したあと、ふと思い立ったように僕とハリエットに並ぶように命じた。そしてぱちんと両手を叩くと、「TLで見ました」と言って、王はゆっくりと頷く。「ヤーラがはまっているやつ、です」
 不可解そうに首を傾げているハリエットの横で、僕はなにか嫌な予感がしてスマホを取り出すと、王も登録しているSNSアプリを開き、弊社の事務員であるヤーラのページを確認した。そして本当に仕事してんのか、と勤務態度を指導したくなるほどの細かいポスト群に混じったその二次創作のリポストを発見し、瞬時になにもかもを察する。
「あのオタクギャル、腐女子か……!」
「彼女の引用ポストに『ごはんおいしい』と書いてありました。ごはんがおいしいのはよいことですので、写真を送ってあげましょう」
 そう言って王は僕とハリエットに向かってスマホを構えると、次の瞬間に弾幕のようなシャッター音を響かせた。どうやら手振れ対策として連写を習得したらしい。そしてそのまま「肩に手を。そのくらいがかえってよいのです」「あ、欲が出てきました。側頭部をあわせて……そう。よい。うん、よい」「見つめ合いなさい。まっすぐに」と、やけに『行き届いた』指導をする王に従い、ハリエットと目を合わせると、彼は「どっちがどっちだ」となにか察した様子だ。「王から見たまま」「なるほど」「なにがなるほどなんだよ」……直後、彼の手が僕の頬に触れた。それとほぼ同時に「おおう」と王のやけに低い呻き。なにかが刺さったのか王は胸を押さえながら「履修、せねば」と声を詰まらせている。
「このくらいがかえっていいんだ」
 そう言って彼はぱっと手を離すと、「一緒に履修するか?」と言いながら王に歩み寄っていった。はからずも一瞬、キスされるのかと思ってしまったことで、それがあのときの仕返しなのだと察する。しかし僕の口の中には隠し事はないから、このドキッとしてしまった悔しさを以てイーブンとするつもりなのだろう。鼻腔に苺の香りが残っているのを感じつつ、恥ずかしさを隠すために「僕もまぜて!」と二人を呼び止める。

 今日漢服を着て外に出たのは、春節期間中に漢服で出かけると各所で色々なサービスを受けられるからだ。例えば一部区間の地下鉄が無料だったり、飲食店でちょっとしたサービスが受けられたり、買い物が割引されたりといったものがある。だからか街には漢服を纏った若者が多く出歩いており、ただでさえ絢爛豪華に飾りつけられた街をより一層華やかにしていた。
 早速、無料の地下鉄に乗って西湖までやってきた。中国四大美女のひとり、西施の入水伝説のあるこの湖は、その美しさを彼女にたとえられ、詩に詠まれたこともある景勝地だ。「薄化粧と濃化粧の(晴れでも雨でも)どちらもふさわしい」と詠まれただけあり、天候によって様々な顔を覗かせるに違いない多種多様な周辺環境と、空の色をそっくり落とし込む美麗な水鏡を有している。事前にネットで調べたことには、一周約十五キロメートルで、およそ徒歩四時間。この盛装で歩き回るのは現実的ではないので、僕はあらかじめ遊覧船のチケットを用意していた。船着場でスマホで三人分の乗船券を提示して、その朱塗りと金の屋根が豪奢な船に乗り込むと、漢服特典としてドリンクのサービスがあった。僕とハリエットは龍井ロンジン茶、王は花の工芸茶を選んで窓に面した席に並んで座る。船は浅い湖水の上を滑るように進む。
「王、先に言っておくけど湖に飛び込んだり亀を捕まえたりしちゃダメだよ」
「えー。……あ、いえ、こほん。わかっていますとも。わたくしはいいこなので」
 僕の注意喚起に反抗しかけたものの、一瞬でハリエットの存在を思い出したらしい王は、途中繕ったような咳払いを挟んだあと、自信に満ちた頷きを見せてくれた。王への指導が随分楽になった点では彼の存在に感謝したいが、やはり目の前でふたりイチャつかれればムカムカしたりもするし、何度だって負けじと張り合いたくもなる。現に工芸茶のキンセンカが花ひらくさまに喜ぶ王の背中や腰では、僕たちの飽くなき陣取り合戦が繰り広げられていた。王の腰に回された彼の手をつねって引き剝がし、その隙間に滑り込ませた僕の手をグーで殴られ(グーはひどい)、揉み合いになって、それが恋人繋ぎみたいだと気付いてお互い同時に手を払い除ける。王から見えないように中指を立てれば、彼は親指を下に向けた。しかしそんな争いも、王が「写真、撮ってください」と言ったことで中断される。ハリエットの画角からは僕が、彼の画角からは僕が絶対に写る席配置。お互いに得意満面で写真にうつり、それをメッセージアプリのアルバム機能でシェアする。アルバムタイトルは『僕と王の杭州デート』だったはずなのにいつのまにか『僕と王と(狼の絵文字)の杭州デート』に変更されていた。苦虫を勢いよく噛み潰すのを見せつけるつもりで歯を鳴らすと、彼の牙もがちりと重たい音を立てる。しかし背中で犬と狼が唸り合っているのにもかかわらず、王は無邪気に景色を楽しんでいた。
「夏季には蓮の花が盛りを迎えます……」
 そんなガイドの声に、王は「蓮の花、ぜひ近くで見てみたいですね」と漏らしながら早春の飾り気ない水面を見つめている。その横顔はしずかな湖に一輪だけはなひらいた蓮の花のようだ。その麗しさを僕の手元だけで独占したくて、さっきまで抱いていたシェア・ハッピーの心意気をかなぐり捨てた僕は、
「僕と一緒に見ようね」と、すかさず王の腰を抱く。
「有休なら死ぬほど溜まってる」……ハリエットも戦う気でいるのか王の肩を抱いた。
 それにより王の身体はスラッシュのように傾く。まるでカップリング表記のようになってしまった王は「もう、先ほどからなんなのですか。ちゃんと景色をみていますか?」と痺れを切らし、むくれた様子でガラスのティーポットの蓋を開けると、残った花を口に流し込もうとした。慌てた僕が「花は食べない!」と制止すれば、王は「食べられないのですか?」と首を傾げて不可解そうにする。
「食べられないものが入っているわけじゃないんだけど、ふつう、食べない」
「アイスのコーンは食べるのに?」
「あー……もちろん世の中には食べられる花もあるんだけど、これを食べる人はあんまりいないかな……」
「むん。ヤララカイのに……」
 なるほど、王は硬さという基準で食べてはいけないものを判別していたらしい。どう説明したものかと悩んでいると、ハリエットが「こういうのは飲んだ後に観賞用にしたり、消臭剤にしたりするんだ。本来の役目を終えたあとにも利用価値がある。例えば骨や皮、殻なんかな堆肥や飼料として使ったりできる。残すことに意味があるものもあるんだ。今度からはそういう観点からも考えてみるといい」と、柔らかい口調で説明して王の肩を叩いた。すると王は「なるほど。ヒトの子、えらいえらい」と納得した様子である。やはりこの男は、王の扱いが上手い。その慣れた姿に、「やっぱり隠し子がいるんじゃないの?」と、僕が以前と同じ疑問を口にすると、彼は、
「だからいねえよ。いたら恋愛なんてしてない。子どもの年齢にもよるが」
 と、彼なりの哲学であろうことを返した。
「恋愛、ねえ。……前に家族はいないって言ってたけど、兄弟の有無もわからないの?」
「そうだよ。まあ、たぶんいない」
「ハティならスコルがいるでしょう」
「ただのコードネームだ」
「その……訊いていいかわからないけど、その家族がいないってのは知らないってこと? それとも亡くなって既に『いない』ことを認識してるって意味?」
 少しの間ののちに彼は「前者だな」と頷いた。「生まれてこの方、知らない」……嘘は言っていなさそうだ。ともすると、孤児か、はたまた神霊や精霊的な『発生』をしたタイプの、案外上位の存在なのかもしれない。
「ならわたくしに近いですね。わたくしには双子の兄がいますが、他の家族というものは存在しません」
 そこで王も話に入ってくる。その言葉通り、王も生い立ちが特殊だ。
「王はね、そういう存在だもんね」
「ええ。わたくしは試験管発生の培養ポッド育ちですからね。細かい分類での同シリーズは兄だけですが、わたくしが文字通り最後の個体なので他はもういないはずですし、親と呼べる遺伝子上の存在もいません。まあ、どう定義するかにもよりますが」
 王種とはブルーブラッドを流し込んだ『国の管理を担うべく製造された個体群の通称』だ。一個体の製造に莫大な資金がかかるうえに結果的に運営成功率はゼロ。協会では既に放棄されたプロジェクトだと伝え聞いている。……王の退位が引き金となって。
 流石は人間の聖女を八人、いや、九人焼き殺して『魔女シリーズ』を作った協会のやることである。やることのエグさと飽きの早さは一級品だ。『鏡の魔女』であるガラシャも「あれは痛かったですわよ。文字通り地獄を見ました」と吐き捨てていた。
「近い、はニタモノドウシ、のこと。だからわたくしたちは一緒です。大丈夫」
 そう明るく言って、王は無表情でいたハリエットの手を握る。そして「あなたもこの輪の中です。定義は都度、いいように変えてしまいましょう」と、僕の手もぎゅっと握ってくれた。
「わたくしは法を改正しまくりましたからね。そういうのは得意です」
 そのきわめて可愛らしい『ドヤ顔』につい笑みがこぼれる。王は極めて革新的な個体であり、革新的な王だった。今だってそうだ。新時代の旗手として、ぐんぐんと先へ進む。
「生贄、廃止したしね」
「ふふ。わたくしが生贄であるのに生贄を喰らうなんて、おかしいと思っていたのです。矛盾はどんどん突け……これは兄に教わったことです」
「代わりに献血事業を始めたしね」
「わたくしをはじめとした吸血種は無益な殺生をせずに済み、血液提供者も報酬を得られ、おまけに臣民の健康管理もできる。地下室にいた頃に時折放り込まれてきた補給剤から着想を得ました。我ながら天才です。よしよしと褒めなさい」
「そうだね、よしよしだね。ジーニアスだね」
 そうだ。今の国の存亡や管理体制については知らないが、現行法が酷く改正されたものでなければ、王の改革によって救われた命がごまんとあるはずなのだ。当時、とある慰問で『生贄』の家系──かつては決まった血筋から、生殖期間としての猶予を終えた個体を生贄として徴収するシステムがあった──の幼子らが、その親を亡くしているにもかかわらず、王に感謝を伝えにきたことは鮮明に覚えている。王は、間違いなく後世に残ることをしたのだ。……しかし父はそれをプロバガンダだと一蹴したのだが。
「キミは善き王だったんだな」
 それまで目を閉じて話を聞いていたハリエットは、そう言うと恭しく王の手を取った。
「ふふ、そう言ってもらえると報われます。痛いのとか、苦しいのは、我慢していればいずれ終わりますが、ただ終わるだけなので……終わったら絶対に幸福が待っているだとか、都合のいいことはありませんからね。だからあのときのことを褒められると、嬉しいです」
 その後頭部から、王が花のような笑顔でいることが読み取れる。しあわせそうだ。ただの簒奪者である僕は、なにも言わずに茶を啜る。

 下船した僕たちは、まずは昔の紙幣に印刷されていたという、湖上に浮かぶ三つの灯篭が見える場所で写真を撮ってから、柳の垂れる遊歩道を歩いた。王は久々に歩き回れることが嬉しいのか、ぐんぐん先を行ってはこっちへ戻ってくるのを繰り返しては楽しそうにしている。
 この三潭印月サンタンインユエと呼ばれる小島は、紙幣の図柄として採用されたこともある、西湖で最も人気の観光スポットだ。島は漢字の『田』に似た形をしており、外周には遊歩道、島の中の池には九曲橋が掛かっている。至る所に点在する東屋や、仏塔をはじめとした古い建築物、他にも迫力ある奇石などが見どころだ。案内板には英語は勿論のことハングルや日本語も書かれており、インバウンドフレンドリーである。僕たちも漢服の若者や外国人観光客に交じって写真やムービーを撮ったり、土産物屋を覗いたり、東屋で休憩したりして過ごす。背筋の緩む穏やかなひとときだ。途中、僕とハリエットの写真を撮ってもよいかと少女たちの集団が寄ってきたが、王の存在に気づくと「妹君もいるなんて」「生存IFだ」と感激した様子で王の写真も撮っていった。なるほど、例の作品には『BLに挟まる憎まれ役の女』がいない可能性が高そうだ。可愛い、顔ちっちゃい、ほっそい、などテンプレの賛辞を浴びせられるなか、王はひとり「噛ませ犬では、ない……?」と驚愕した様子で片手を顎にあてていた。どうやら僕と同じことを考えていたようである。
「ん。いるのか?」
 九曲橋の上を歩いていると、ふとハリエットがそんなことを言って立ち止まった。少し離れた位置で池の中の金魚を眺め、「ハオチーじゃなさそう!」と喜んでいる王をぼんやりと眺めていた僕は、少しだけ反応が遅れたことを自覚しながら、目測二センチ下方にある彼の目を見る。その雅やかな金の瞳孔は、陽光の元で殆ど白くきらめいていて、鋭いのになんとなく柔らかな印象があった。そんな観察に気をとられ無言でいる僕を、彼はふっと軽く笑って、王のほうを指す。
「あの子のお兄さんが」
 その言葉にどきりとする僕は、まさににあの人がいる幻想を視界に浮かばせていた。「そもそも食べられないんじゃないかな」と指摘して笑う、妹とお揃いの漢服姿の背中を。
「……なんで、わかるの」
 あの人が僕を振り返る。手を振る。そんな幻想に、目を剥いて狼狽える。
「お前はそういうときわかりやすいからな」
「どうわかりやすいの」口だけ動かして返答を求める。
「嬉しそうなのに落ち込んでる」
 王は誰かに向かって「見てください、色ほ違う子たちがいます」と指さした先を見るように促しているが、その声が取り込むことができる範囲には誰もいない。そのはずだった。「そうだね、かわいいね。双子かな」……幻覚・・はそっと王に寄り添って、一緒に水面を覗き込んでいる。
「ねえ、ハリエット。王は誰と喋ってるの?」
 思わず眼鏡を外して問う。薄青の視界よりもっとずっと白いあの人は、雨の日の月光のように揺曳して儚い。その傍らの王の笑顔だけがどうしようもないほど明瞭だ。生きている質感で、あの人の放つひかりを反射している。
「……誰とも。それか、お前だろ」
 声だけが聞こえるのは、彼が僕の視界に踏み入らないように意識しているからだろう。そんなさりげない心遣いに、僕はなんだか笑えてしまって、意を決して身体ごと彼のほうを向いた。僕の幻覚にまで気を遣わせるほど、僕と彼の関係に距離があるわけでもない。そして「キミの好きな子は、いるの」と問うてみれば、彼は「たまにな」となんの含みもない声音で言って王に駆け寄って行った。彼は本当に喪失と折り合いをつけているらしく、王のもとへ迷いなくまっすぐ、辿り着く。その姿を追った先の視界には、もうあの人はいなかった。そんな当然に僕はひどく傷つきながら、手を振り返せばよかったとちいさな後悔をする。きっとまた、あの人は僕の夢や現実に入り込んでくるのだ。でも、それでも、今日も明日も、ちゃんとさよならが言いたかった。

 来た方向とは別方向の、花港観魚方面行きの遊覧船に乗る。行きより短い船旅を、今度はしっかり楽しんでいるのは、きっと逃避願望からだ。
 僕には僕と話し合わなくてはならないことがたくさんあった。あの人のこと。あの女の子のこと。そして王のこと。ぜんぶに胸がぎゅっとなって日常生活が困難なほどだから、いつもその手前で逃げてしまう。ほどほどに思考し続け、考えをほどよく煮詰めるバランス感覚が僕にはない。そんな体幹の脆弱さにどれほど悩んだって、生活はしなきゃいけないし、バカンス中とは言ってもある程度仕事はしなきゃだし、楽しいことを楽しいと感じる必要もあって、つまり、生きていかなきゃいけない。困難でも。懊悩がつきなくても。
 生きていくのって、だるい。ただ駒を進めることなんて誰にでもできちゃうから、うざい。なにもしなくても明日がくるのが約束されているから、ひどい。
「ウォーウーラです!」
 僕の手を借りず船から船着き場へ飛び降りた王は、地上の空気を吸うより先にそう言って元気よく挙手をした。行きの道中、ホテルから地下鉄の駅までのあいだにコンビニの桃包タオバオ(いわゆるあのピンクの桃饅頭のことだ)をハリエットと半分こにしたきりなにも食べていないので、王の胃袋からすると不足することこの上ないのだろう。宣言ののち、途端にしょぼしょぼした悲壮感漂う顔になった王は、「機能停止するー」と半分くらい笑えないジョークを言って、下船したばかりのハリエットの腕に額を擦りつけた。すると彼は「それは大変だ。あなたはメシの確保、あなたは俺に抱っこされてください」と応急救護のマニュアルのように僕と王を順に指さして、それから王を片腕でかろやかに抱え上げる。途端にきゃっきゃと喜ぶ王を見上げながら僕は「店は予約してありますよ」とスマホを彼に見せた。それを確認した彼は、
「よし、こっちか。行くぞアンビュランス」
 と僕の肩を叩いて促す。
「誰も乗せてないのに僕がアンビュランスなの?」
 その杜撰なロールプレイに、思わず指摘を挟めば、「細かいことは気にすんな。人命が最優先だ」と腕を掴まれる。振りほどいてみようとするが、なにやら離してくれる気配がない。そのがっちりと大きな手に目を落としていると、「わたくしの一番好きなはたらくくるまはなんでしょう」と王の一声で唐突にクイズ大会が始まった。すかさず僕は「わかった、フォークリフトでしょ」と答える。このあいだ市場で見かけたとき、王は運転してみたいと漏らしていたのだ。しかしハリエットは僕の答えを鼻で笑うと、「なんで小型特殊なんだよ。ここは大型だろ。……バケットホイールエクスカベーターだな」と、世界最大の重機の名を挙げる。デカければいいってもんじゃないのに、まったくこの男はわかっちゃいない。「はは、センスないね。それがアリなら合体ロボもアリでしょ」「なんだよ、文句あるのか? お前は小回りが利くのがセンスだとでも思ってんのか?」……睨み合いながら正解発表を待っていると、「ぶぶー。正解は、ラクサスでしたー」と王は腕でバツ印を作った。なにがなんでもあんまりな答えに「えー? ブランド名だし、乗用車だし……」と不満を漏らせば、ハリエットは「はたらくくるまにハイヤーが入るなんて新視点だな。日本車なあたり見る目がある」と舌を巻いた様子だ。忘れていたが、この男も若干、王寄りの感性をしている。
「ふたりとも不正解なのでポイントを剥奪されます」
「待って、今まで何ポイントあったの?」
「教えません」
「それってどうなの?」
 不透明な加減点方式に異議を申し立てているうちに、花と観賞魚のコラボレーションが極めて優美な公園を抜け、目当ての店に到着した。そこでようやくハリエットが僕の腕を離してくれたので、エントランスに置かれた受付機にスマホを翳す。すると一階の大きな円卓の席か二階のテラス席が選べるという表示が出たので、軽く話し合って二階のテラスに決めた。王が給仕ロボットに「ニイハオ」と笑顔で話しかける背中を促して、絨毯敷きの階段を上がると、あとは人間のスタッフが案内してくれた。
 西湖を望むテラスの円卓席は、小春の陽光にあたためられてほんのりと温い。しかし春節といえども気温的にはまだまだ寒いからか、案内してくれた男性スタッフは気を利かせて「暖房をいれましょうか」と申し出てくれたが、断った。ガラシャの作ってくれたこの服は保温がしっかりしているし、そもそもこの程度の気温ならば寒くはない。その場で温かい紹興酒を注文して、メニューを開く。
 ここ浙江省の浙江料理は『鮮』の要素を重視し、素材本来の旨みを活かしたさっぱりとした味付けであることが多いとガイドブックには書いてあった。しかし紹興酒の本場である紹興市を有するだけあり、酒に合いそうな料理も数多く存在する。全員が飲む気でいることを確認していくつか選んだあと、最後に「もちろん食べるよね?」の意を込めて注文の有無ではなく個数を訊いたのは、やはり東坡肉トンポーロウだ。誰もが見たことがあるであろうこの魅力的なビジュアルの杭州名物は絶対に欠かせない。花巻ホワヂュアンと一緒に持ってきてくれるように注文する。
 メニューを選ぶ際に考慮していた通り、一番最初に席に運ばれてきたのは糟鶏ザオジーと呼ばれる鶏肉料理だった。茹でた雄の地鶏を、紹興酒の酒粕と焼酎に漬けた定番の肴らしい。王のために骨から身を外してやろうとしたが、ハリエットがひょいと骨付きの部位を手に取ったのを見て、王は即座にそれを真似てしまった。軽く溜め息を吐く僕に、ふたりの視線が「手で食え」と促してくるので、仕方なしに手羽を一本手に取って、片手で乾杯をする。そして紹興酒をきゅっとひと口飲んでから、皆で鶏肉に齧り付いた。
「ふむん。皮がぷるぷるしています。上海で食べた鶏肉のようですね」
「そうだね。でも香りがぜんぜん違ってこれはこれでいいね」
 酒粕の風味を存分に吸ったやわらかな肉は、当たり前だが紹興酒によく合う。骨に近い身肉に凝縮されたゼラチン質の真っ当な美味さが、今朝から運動続きだった身体に勢いよく滲みていくのを感じながら、早々に二杯目を注ごうとすると、ハリエットが僕の手を掴んだ。
「ベロベロエンエンするからダメだ」
「ベロベロエンエンしないよ」
「とにかく、お前の酒量は俺が管理する。もう二度とお前をおぶって帰りたくはない」
 そう言って彼は、僕の酒杯にほんのちょこっとだけ紹興酒を注いだ。それはもう、ほんのひと舐めくらいの量しかなく、僕は縋るように彼を見る。
「……春節期間なのに? ハッピーな季節なのに? キミとも会えて嬉しいのに?」
「チッ……水も飲め。ガブガブとな」
 情に訴えたのがいくらか効いたのか、ハリエットは酒杯の七分目くらいまで酒を注いでくれた。案外人情屋なのかもしれない。
「きょうばかりは許可しましょう。特別にわたくしがおぶって差し上げますよ」
 スライスされたムネ肉を危なっかしく箸で摘まんでいた王もそう言ってくれたので、得意になってハリエットの酒杯をひったくりそれを飲み干す。すると彼は「お前、俺のことが好きなのか?」と心底嫌そうに呟いて僕の唇が触れた箇所をナプキンで拭った。
「いまはわりとね。お酒と同じくらいには」
「ならエンエン泣かせてやるよ。ああ、臍から下は攻撃しないぞ。主に顔面を狙ってやる」
「キミ、僕の顔嫌いだよね。なんなの?」
「綺麗すぎて鑑賞に堪えない。ゴムでできてそうで。殴ってアザ作るなり鼻血出させるなりしないといつまで経っても不気味だ」
「なにそれ。ひどいなあ……あ、そういえばキミって僕の目を見ても大丈夫なの? パーティーのときは僕、抑えてはいたけど裸眼だったよね」
 すると彼は「ああ」と呟いて、さみしげに眉を寄せて笑うと、
「コレの副作用でな」
 と続けて口元を指さした。その不意打ちの情報開示に面喰らっていると、彼は「どうせ調べたんだろ」と鼻を鳴らす。
「だから俺を殺したいなら物理で来い」
「え、ほんと? 僕、この目にかなり困ってるんだけど……試してみてもいい? 僕に惚れちゃう可能性があるけど」
「やってみろ」
 つまり、マジックキャンセルだとかの、そういった無効化がついているのだろうか。周囲を確認してから眼鏡を外し、椅子を寄せて彼と向き合いその睛を見つめる。偏光のある綺麗な睛だ。王の子がこの男に似ていてほしくはないが、この色が遺伝するなら嬉しいかもしれない。「どう?」「なんとも」「待って、もうちょっと……」「はやくしろ」「ねえ、僕のこと、好き……?」
「シリアスに嫌いだ」
 彼が無情にもそう言い放った瞬間、弾幕のようなシャッター音がした。見ると王がこちらに向かってスマホを構え、含み笑いをしている。「わほほ」と口元を押さえるその声音がいつもより弾んでいることで、僕とハリエットが至近距離で顔を突き合わせていることを自覚し、慌てて離れると、彼は悠長に「なんだ、キスしないのか?」と僕を煽った。
「バカ。もう。王のオトコに手を出すわけないでしょ」
 手早く眼鏡を掛け直して姿勢を正しながらも、『オトコ』という単語に改めて胸がざわついたのは、僕が今朝言ってしまった哀願の言葉のせいだ。これは王のせいでもハリエットのせいでも、はたまたファユエンのせいでもない。僕は僕自身の言葉選びに怯えている。一方の彼は僕の言葉に「お、おう」と僅かな狼狽をみせると、その耳の先をほんのりと赤く染めた。それを「はいはい」と受け流して、椅子を元の位置に戻す。
 次に運ばれてきたのは龍井蝦仁ロンジンシアレンだった。見た目は上海名物の水晶蝦仁シュイジンシアレンと似ているエビの塩味炒めだが、これにはその名の通り龍井茶が使われている。茶葉の緑が、エビの桜色を更に映えさせていて美しい。葉を確認した王が「葉っぱ……」と肩を落とすのを、「これは食べなくてもいいやつ」と励まし、茶殻を除けて皿に分けてやる。
「あら、お茶の香りがします」
「僕とハリエットがさっき飲んでいたお茶が入ってるんだ。乾隆帝という昔の皇帝が好きだったんだって」
「むん。同業者のよしみ。食べてみましょう」
「じゃあすんごく葉っぱが大好きだった王様を探そうね」
 僕の揶揄いにむっと口を曲げた王だったが、エビを口にした数秒後には「よしみ、よい指針」と笑顔になる。ハリエットも「エビは骨がないからいいよな」と言いながら頷いているので、僕も安心してそれを口に運んだ。卵白で下拵えをされた川エビは、つるんぷるんとした嬉しい舌触りで、茶葉の爽やかな香りを纏っている。ここにも紹興酒が使われているらしく、じっくり噛み締めればその芳しいコクがエビに染みた塩味とともに舌に残って、しかし飲み込んだ数秒後には淡く消えゆく。塩味のエビって美味いよなあ……という当然に、茶葉が地域限定の特別感を添えて、「これがどこでも食べられたらいいのに」という悔しみへと変化する。新茶の季節ならばもっと美味いのだろうと容易に想像ができる料理だ。
「そういえば西湖醋魚は注文しなかったな。お前、ああいう魚が好きなんじゃないのか」
 あっという間に空になった皿を端に寄せていると、不意にハリエットがそんなことを言った。
「ん? いや、高級でも当たり外れがあるって聞いたから」
「誰にだ?」
 沈黙が、一秒。彼の目がぎやりと光る。
「あ、お前、今朝のおなごの話はどうしたのです。ジュンコちゃん」
 しかし王が口を挟んできたことで、救われてしまった。咄嗟に「だからジュンコはあのジュンコなんだって」と答えてスマホを指さすと、王は「ほんとうにほんとうのジュンコ?」と僕のスマホの画面を指の関節で叩き、それから「きょう、ラドレと朝餉を食べましたか?」と画面の中のジュンコに問うた。すると彼女は、
「はい。ラドレさんはナズナのスープと野菜の包子を召し上がっていました。私にも分けてくださいましたが、私には実体がありませんので、お気持ちだけいただきました」と素直に答える。
 一瞬ひやりとしたが、バーチャルアシスタントは不用意なことは言わない。王は「あら、残念」と肩を竦めると、「ジュンコは猫ですよ。おにくをあげなさい」と僕を叱った。それに対し「猫草ってあるじゃん?」と言葉を返しつつ、もしかしたらハリエットも『誰』を『ジュンコ』に結び付けてくれたのではないかと淡い期待を抱いてその顔を盗み見れば、目が合った。
「バーチャルアシスタントか。つか、ジュンコってなんだよ。元カノの名前か?」
……ほっと胸を撫で下ろす。
「僕がそんな迂闊なことする間抜けだと思う? あ、キミのバーチャルアシスタントってなに? デフォルト?」
 なに食わぬ顔で会話の方向性を微調整。すると彼は「別に……」となにが「別に」なのかよくわからない返事をすると、なにかを取り繕うかのように無為にメニュー表を開いた。怪しく思って王に視線を向けると、王も僕を見て無言で頷く。
「えー? キミこそ元カノの名前でも付けてるんじゃないですかあ? 外見設定は? 水着の女?」
「なんでそうなるんだよ」
「だってキミってば、部屋にグラビア女優のポスターとか貼ってそうだし。マッチョだから」
「偏見が過ぎるぞ」
「ぐ、ぐらびあじょゆう……ですか……」
 もちろんジョークのつもりだったのだが、僕の言葉に王が自身の乳房を手で持ち上げ、「足りるかな……」と深刻そうに俯いたのを見て、ハリエットは泡を食ったように「貼ってない!」と大声で主張した。それから王に向かって「充分すぎるぞ!」とサムズアップしたあと、締め括りに大真面目な顔で「キミを愛してる」と言い放った。それから彼は僕の舌打ちには反応を示さずにスマホを取り出すと、なぜか妙に躊躇う素振りを見せたあとそれを王に手渡した。僕も王のほうに身を寄せてその画面を覗き込めば、そこには……コロコロと柔らかそうなシナモンカラーのチンチラがいた。うるうるとつぶらな瞳に、なんともいえない味わい深さを湛えている。
「……差し支えなければお名前をお伺いしても?」
 軽薄な揶揄(似合わない。どう考えても捕食対象だろ。など)が口から飛び出しそうになったのを、ぐっと堪えて問うた。腹の奥が痙攣しているが、顔には出さない。どんなに酷い誹謗中傷でも胸の裡に抱くのは自由だと心の底から思ってはいるが、口に出すか出さないかはまた別の問題だ。そしてこの場で今さっき頭に浮かんだそれを声にすることは、明確にNG。そのくらい、僕にもわかる。
「……アップル・クランブルだ」
 まずい、と息を止める。英国で食べられている菓子の名前じゃないか。色味から取ったことは容易に想像できるが、被捕食動物にメシの名前を付けるなと指摘したくなる。洒落にならないだろうが。それにアップルまで入れる意味はあるのか。……ふっと息を吹き出しかけた下唇を強く噛む。
「ふーん……か、かわいいね。チンチラって、いいよね……手を使うところが、ほら、ジーニアスで……」
 上辺だけの言葉がぽろぽろとこぼれ落ちていく。いや、チンチラは可愛い。それは事実だ。ただ、この男のバーチャルアシスタントがチンチラだと思うと、笑いをこらえた唇がぐにゃぐにゃになる。隣の王は「まあかわゆい」と呑気にそのチンチラの腹のあたりを指で撫でていた。アップル・クランブル氏のハウス──彼らアシスタントにはカスタム可能な待機所が用意されている──が豪華なことから可愛がられていそうなのが、またしみじみと可笑しい。
「言えよ。似合わないって。言えよ」
 僕の反応にハリエットは更に羞恥心を煽られたのか、両手で目元を覆って動かない。
「そんな、こと、ないよ……チンチラはかわいいから連れ歩きたい気持ちはわかるよ。ふっ。昔、エキゾチックアニマルカフェで触ったことあるけど、なんともいえない手触りだよね。ふふっ。気に入らないごはんを投げ捨てるところとかすごく可愛いし。ぐっ、ふふ……」
 もう堪えきれない。この男がチンチラ? 動物モチーフのキャラクリなだけでも笑えるのに、チンチラだと? 
 ギャップが凄まじくて、もはやそういう作戦なのではないかと疑ってしまう。僕のことを悪者に仕立て上げるだとかの、そういう計画だとでも言ってくれないと、僕はこの顔の綺麗なゴリラのことを『今どきアニメでもやらないようなギャップ萌えキャラ』だと認識してしまうから、早くその魂胆を暴露してほしい。そうでないと僕は胃が爆発して死んでしまう。
「正直に言う。俺はお前からのディスりを期待していた。でないと俺がこの空気感を受け流せないからだ。だからそんな生温かい態度を取られると余計に傷つく。頼む、揶揄しろ」……しかし彼の声は信じられないほど細く、僕の期待は無惨にも裏切られた。
「いやいや、そんな揶揄なんて……キミには好きなものを選ぶ権利がある。だから水着女でもティラノサウルスでもチンチラでもいいっふふ……」
「いい人ぶるな。俺を刺せ」
「キミの羞恥心を打ち消すのに僕を使わないでもらっていいですか? ぜんぜん、なんとも、思ってないんで。いやほんとっす」
 そろそろハリエットの耳が赤いのを通り越して赤黒くなってきたので、もうこれはトドメを刺してやるべきかと、僕は笑いを通り越して一抹の慈悲を抱く。この男は己を客観視できないタイプじゃない。自分に似合わないと知りながらこのキャラクターデザインにしているのだ。その漢気に免じようではないか。そう決起し、僕が脳と口を直結させ暴言を吐こうとしたその瞬間、
「ナデナデしてくれてうれしいモチ―!」
 と、ものすごくマスコットキャラ然とした高い声が響いた。それは疑いようもなく彼のスマホに生息するコロコロしたネズミから発せられたもので。
「お姉さんのお名前を教えてほしいモチ!」
 しかも語尾が「モチ」だと?
 咄嗟にハリエットを見る。すると彼は目にもとまらぬ速さでテーブルに突っ伏して、微動だにしない。彼は自爆したのだ。いや、フレンドリーファイアか。
「あらあら。名前はひみつです。ハリエットさんに訊いてね。それか、好きに呼んでくださいな。あなたのことはなんと呼べばいいですか?」
「ハティさんはボクをクランと呼んでいるモチ! お姉さんのことは……おめめが虹色で素敵だからマカロンちゃんと呼ぶモチ!」
「まあ、素敵ですね。クランちゃんの好きな食べ物はなんですか?」
「カレーうどんだモチ!」
……王はその『特になにも気にしない気質』からそのバーチャルアシスタントと円滑にコミュニケーションをとっているが、如何せん突っ込みどころが多すぎる。もう似合う似合わないの話ではなくなってきているので、
「とりあえず起きよう、ハリエット。東坡肉がくるから」
 と彼に再起を促した。すると彼は「チンチラなのに箸で食うのが面白くて……」と恐らくごほうび機能のカレーうどんに対しての言い訳をしながらのろのろと起き上がると、王からスマホを受け取ってそれを懐にしまい込んだ。その満身創痍な様子に、流石に同情心を抱かずにはいられないが、元はと言えば僕の会話の微調整のせいなので、開き直って慰めないことにする。きっとそのほうが彼にとっても最善に違いない。
 僕の言葉通り、その直後にテラスにワゴンが入ってきた。店員の説明によると東坡肉は皮つきのバラ肉を一枚丸ごと紹興酒と醤油で煮たもので、それを大きな正方形に切り分けたあと、注文が入ってから一切れずつ蒸し上げて提供するという特徴があるらしい。対して下茹でした肉を煮込む前に焼くという工程を挟み、一口サイズにカットされていて八角の香りがするのは、紅焼肉ホンシャオロウというのだとか。なるほど、今まで食べたことのある『豚の角煮』に八角を感じるものとそうでないものがあったのは、そもそも種類が違ったからなのだ。そういう細かい違いが面白いと感じるようになったのは、僕がこの国の料理に興味を持ちはじめたからだろう。
 ひとりひとつずつ頼んだので、皆で同時に椀の蓋を開ける。すると淡い湯気がさっと引いたあとに、十センチ四方の……いや、ほぼ立方体をした大きな塊肉が姿を現した。しかし無骨な印象がなく、皮目の見事な照りがいっそのこと高貴ですらある。
「ふふ、おいしそう」
 期待に両手を合わせて、王はどこか艶やかな笑みを浮かべる。その笑顔に気力を持ち直したのか、ハリエットは「これで挟んで食べると美味いぞ」と王に花巻を取り分けてやり、それから王に椅子を寄せて挟み方をレクチャーし始めた。それを真面目な顔で聞いている王と、優しい顔をしている彼を見ていると、「春だなあ」と染み入る声が漏れたりもする。立ち上がってハリエットの食器を彼の前に移動してやり、僕も酒杯を東坡肉の椀を持って王のすぐ隣に移動する。円卓なのに三人ぎゅっと寄り添って、窮屈で、笑えるほど愉快だ。ハリエットが綺麗に整えた東坡肉入りの花巻は、王の大きな一口でぐちゃりと潰れる。途端に「んー!」と救援要請。呆れた僕がナプキンでその口元と手を拭ってやっている最中も、王は「ふぁおひ、ふぁおひ」と美味を評価することを忘れない。少し行儀が悪いが、それもいい。
「僕の花巻あげるよ。肉は肴にするからさ」
 そう言って蒸籠の中の花巻を王の皿に乗せてやる。するとあっという間にひとつめの花巻を腹に収めた王は「シュエシュエ」とキラキラ手を振った。ああ、心底可愛いな……と思いながら、僕も肉に箸を入れれば、嘘みたいにすんなりと通った。しかし崩れるというよりは、微力でも繊維がほろりとほどけていくという表現が妥当だろうか。箸で摘まめるギリギリの柔らかさだ。香りを確かめれば、醤油と紹興酒の魅惑的な組み合わせが「絶対に美味いやつ」という安易な予想を引き出して、己の語彙の乏しさを呪うままに肉を口にする。……予想通りだが、予想よりずっと美味い。すべての期待を軽々超えてくる、みっちりとした質量の旨味。ぷるぷるとした皮目はそれでも余分な脂を落としていてくどくなく、なのに動物性脂肪特有の濃厚さは損なわれていない。そこにこっくりと甘辛いタレが染みて、炭水化物が欲しいと訴えたくなるが、花巻はもう王にあげてしまったので、王の嬉しそうな顔を眺めながら食べることにする。
「おいしいねえ、王」
「はい。やっぱり祝いごとにはおにくなのです」
 そう言って王は僕があげた花巻を半分に割ると、それをナイフで開いて、肉と椀の底に敷かれていたチンゲン菜をぎゅうぎゅうに詰めはじめた。やがて完成した不格好なバーガーを、僕とハリエットにそれぞれ手渡して「食べてください」と得意顔。野菜をしこたま詰めやがったな……と指摘したくなるのを飲み込んで、礼を言ってからその花巻を齧る。ヘルシー仕様だが、蒸されたチンゲン菜の滑らかな繊維質にとろりとした東坡肉のタレが合っていて悪くない。むっちりした食感の花巻については、いつも「そのままでも食べたい」と思わされるが、やっぱり濃い味のタレがベストパートナーだ。一方、王と同じく野菜嫌いのハリエットだが、王が作ってくれたという一点のみでなにもかもが帳消しになるのだろう。肉を頬張っている王の頬をつついて「うまいよ」と笑顔だ。
「ふっふっふ。わたくし、料理、できました」
「料理……というより組み立てなんじゃないかな……?」
「バカ言え。それを言ったらサンドイッチは料理じゃないのか? お前は素を使ったら料理じゃない派か?」
「そうは言ってないけど……せめて火や刃物を使う作業を修めてからそう言って貰ったほうが将来のためになるというか……」
「よし、じゃあお嬢ちゃん。今度一緒に料理をしよう。できるよな?」
「ええ。炎熱系の魔法は得意ですよ。えいってするだけなので」
「消し炭はやめてね」
 なにを作りたいこれが作りたい……そんな話をしながら飲む酒が美味い。そういえば数年前、自宅にいるときに王が料理を作ってみたいと言い出したので、危ないからとやめさせたことを思い出す。あの頃は王の手が今よりずっと動かなかったからなのだが、なにかを混ぜるだとか塩を振って貰うだとかの、簡単な作業くらいはさせてあげるべきだったかなと遠い後悔をする。スクランブルエッグくらいだったらひとりでやらせてみてもよかったかもしれない。成功体験と、それと同じくらい大切な『失敗する機会』を心配の一言で奪ってしまったというのは罪深い所業だったが、今からだって挑戦はできるはずだ。
「あ、でもゾエと一緒にゆで卵を作ったことはありますよ。わたくし、タイマーを見ていました。時間管理が一番大事、と彼女は言っていましたからね。わたくしは大役を任されたのです」
 ああ、そうか。僕が見ていなくても、王は誰かとなにかに挑戦できるのか。ゾエはそれをやらせてくれる。きっとハリエットも。王の友人たちだって。そして、これからの僕も。
「すごいじゃん。黄身は固いの? 柔らかいの?」
「真ん中くらいのやつです。ええと、そのあとなんやかんやを混ぜたものを半分に割った白身に乗せていました」
「デビルド・エッグね」
「ゾエは他にも色々作っていましたよ。プルドポークと、チップス、マカロニチーズにあとはええと、ジャンバラヤ? だとか。彼女はとても手際がよいのです」
 そのラインナップに、ふと肉を割いていた箸が止まる。その組み合わせを僕は食べたことがある。前にオフィスで皆が僕の誕生日パーティーを開いてくれたときのものだ。てっきり料理はどこかで買ってきたものだとばかり思い込んでいたが、あれはゾエと王が作ってくれたものだったのか。
「……美味しかったよ、すごく」
 呟くように漏れた僕の言葉に、王は「そうでしょうとも」とにっこり笑顔を浮かべる。
「だからわたくし、料理、できるのです」
「そうだね。できるね。すごいよ」
 胸がいっぱいになって、今度は笑いからではなく唇がぐにゃぐにゃになるのを、酒杯で隠す。するとハリエットは「馬鹿、飲み過ぎだ」と僕の手からそれをひったくった。そして彼はそのまま残りの紹興酒を一気に飲み干すと、「春だな」とちいさく呟いて、降り注ぐ淡い陽光を仰いで目を細めた。その麗しいくらいに脱力した横顔に向かって、僕も「春だね」と同意する。はじまりの季節だ。これから確実になにかが始まっていく予感。予告と言ってもいいほど新鮮な春風が頬を切る。浸るように微睡む僕たちを見た王は、「おにくもういらない? たべていいですか?」と相変わらずの食欲ファーストだ。

「食った食った。でももっと食った食ったできます」
 そう言ってまだまだ元気に駆け回る王にあまり離れないようにと促しながら、西湖の畔を地下鉄の駅目指して歩く。豊かな自然。水の匂い。遠くの遊覧船に王が手を振る。先ほど船上から眺めた荘厳な佇まいの仏塔は、近景でも素晴らしい。すべてが幽玄な仙境の景色のように思えても、その周囲は大都会だ。近年は緑化運動が進み、数百年前よりは都市の中にも緑が増えたものの、矢張り生来の自然の齎す迫力には敵わない。春の萌芽を待つ土の香りを嗅ぎながら、盛りを終えた小春の陽光が夕刻を目指して淡くなっていくさまに感じ入れば、「夜なに食う?」ともう宵支度の心地でいる傍らの男に対する気持ちも柔らかくなる。「お腹いっぱいでまだ考えられない……」「お前、もっと食ったほうがいいぞ。筋肉を戻せ」「食ったからって筋肉つくってわけじゃないでしょ」「でもお前、ちゃんとトレーニングしてるんだろ。食えばつく」「自分がそういう体質だからって簡単に言ってくれますね」……そのまましばらく身体づくりについてのアドバイスを受けていると、とんではねて上機嫌だった王がこちらに戻ってきた。そしてハリエットの手を取って、王は「勝負です!」と遠くに見える湖畔のカフェを指さす。
「負けたほうが勝ったほうに奢り、です」
「よし。手加減はナシな」
「ちょっと待ってよ。走ってもいいけど人間ぐらいの速さにするか気配遮断してよ」
 乗り気なハリエットの肩を掴んでそう言うと、彼は「お前も走るに決まってんだろ」と僕の手を振りほどいた。王も「走れるのか、貴様が?」と妙な煽り口調で僕を促す。仕方なしに柳の落とした影が設定するスタートラインに並び、「二着を目指します」と宣言した。「王に勝てるわけないので」
 するとハリエットは、「馬鹿野郎、やる前から負けを認めるなって」と、呆れ顔。しかし世の中には絶対に信頼できるデータというものがある。例えば王の身体能力が、僕たち人外族からしても常軌を逸していることなどだ。
「なに言ってんの? そういう意味じゃないよ。……キミには負けないってこと」
「はっ。抜かせ」
「ルールは気配遮断、バフなし、妨害行為と服の汚破損厳禁でいいね? 特に汚破損はマジで降着だから」
「それでよし。ではあの鳥が枝から飛び立った瞬間にスタートです」
 ルールを確認し、それから王が指さした先の枝を見る。そこにいるのはサンジャクだろうか。スタートの姿勢を決めて、待つ。そして淡い桃色の空に、その豪華な尾羽が開いた。
 まず、一瞬にして王がハナを切った。見事なスタートダッシュである。ハリエットが小声で「マジかよ」と洩らした隙を見て、彼を捉えようと踏み込めば、漢服のたっぷりとした裾が身体のコントロールを鈍らせた。しかしそれは彼も同様で、「ああ動きにくい!」と叫んでいる。「汚すなよ絶対!」と返しながら彼を追い抜いた視線の先で、王はもう百メートルは前方を悠々と走っている。その脚の長さゆえの、空を飛ぶかのような大きなストライドが美しい。ひらひらした裾も相俟って、なにか水生生物のようにも見える。
「なんだあれ……チーターか?」
「はっはっは。しかもあれで超・持久力タイプだからね。逃げられると怖いぞお」
「くっ、少なくともお前には負けねえ!」
 あれだけやる気に溢れていたくせ、彼も早々に僕に負けないことを目標に再設定したようだ。力の入った背中が、僕を僅かに抜く。遠くでゴール地点に到着したらしい王がぴょんぴょんと跳ねている。僕が先にその手を取るのだと意気込んで、残った脚を使う。ハリエットは見るからに瞬発力勝負のスプリンター体型だ。僕だって中長距離剥向きではないが、彼よりは長く脚を使えるというのが見立てなので、諦めずに距離を保ち追走する。……今だ。捉える。捉え切る。慢心せずもう一歩前へ。
「二着、ラドレ!」
 先着していた王が、花の扇を振った。
「よっし!」
 僕がガッツポーズを取った瞬間、ハリエットが僕の背中に突っ込んでくる。「あっぶね!」と、驚きつつも背中でその身体を押し留めると、彼は「汚せ、服を」と言いながら僕の袖を掴んでくる。
「往生際が悪いな!」
「死地生還の能力だけはあるからな。そりゃ褒め言葉だ」
 お互いに軽く息を切らして揉み合っていると、王が「ステイ」と命じたのでそれに従う。すると王は僕の頬にキスをしてくれたので、ぱっと気持ちが華やいだ。
「よくやりました。我が騎士として当然。彼に負けたらお仕置きのつもりでしたが、見事でしたね。褒めて差し上げます。グッドボーイ」
「ああん、王、大好き……」
 頭を撫でられ、僕はこの上なくハッピーな心地で今は見えない尻尾をバタバタと振る。今朝の『なにかいいことありそう』という予感が、ここに成った。隣でむくれているハリエットは「はいはい負けました」と両手を挙げて降参の姿勢。そんな彼の裾を捕まえて、王は「はい、次はあなた」と今度はハリエットの前に立つと、唐突に彼の顎を掴んで引き寄せた。
「惜しかったですね。で、どんなお仕置きがいいですか?」
 ハンドラーモードの王には容赦がない。僕が「そっちがいい」と言うのと、ハリエットが「どんな罰でも」という声が重なる。王はにこりと笑顔のまま、彼に向かって「今夜、覚悟しておいてね」と言い放つと、「さて」と手を合わせた。「なにを奢ってもらおうかな」
「……おい、なんだ、なにがあるんだ」
 そのままカフェの外に掲示してあるメニュー看板に吸い寄せられていく王から僕に視線を移して、彼は不安げに問うてくる。
「代わろうか?」
「……その態度なら痛くはなさそうだな」
 気を持ち直したらしいその露骨な目の動きに、つい笑ってしまうのは、この男の弱点を補足したという充足感があるからだ。なるほど、この男は痛いのが苦手なのだろう。
「そう? 僕、痛いの結構好きだけど?」
「待て、なにがあるんだほんとうに」
「初めてなら定番のやつなんじゃないかなー?」
 惚けながら王の背に続き、看板兼データターミナルになっているタッチパネルディスプレイを操作する。遅れてとぼとぼと心許ない歩様で寄ってくる彼の肩を組んで「まあ楽しんでよ」と囁き、煽り立ててみるが、彼は青い顔をするだけで乗ってこない。
「はいはい最下位くん、なに注文する?」
 その広い背中を擦ってやりながらホスピタリティ溢れる細やかなページ切り替えでメニューを見せてやるが、彼からは「任せる……」と消沈した声のみが返ってくるだけで、甲斐がない。これまでのお返しとばかりに、引き続き「かわいそうだねえ」と弄り続けていると、
「おまえもタイムオーバーなので出走停止処分ですよ?」
 と、突如王は言い放った。ハニーミルクラテをカートに入れながら。
「えっ、待ってよ出走停止ってなに?」
 ハリエットから離れ、王の肩に媚びるように縋りつく。しかし王は答えず、スイーツのタブを眺めて、「まあかわいい」とのんびり感想を漏らしている。その指先が示すのは、玫瑰と呼ばれるバラ科の花を乾燥させたものが散らされた、華やかな見た目の湯圓タンユエンだ。一瞬ひやりと汗が背筋に滲んだ気がしたが、まったくの偶然でしかないと首を振り緊張を振りほどく。
「かわいいね……うん。他にも種類があるんだ。グレープティーと、パッションフルーツティー……王はローズティーがいいの?」
「はい。とてもきれいなので」
「綺麗っていう理由でものを選ぶの、いいよね。じゃあ僕とハリエットは他のふたつにしようかな」
 そう言って三種類まとめてカートに入れると、僕は「あざーす!」と笑顔でハリエットを振り返った。僕は人に食べ物を奢らせることが大好きだ。どんな高級な貢物よりもタダ飯が嬉しい。消えもの最高。なぜならお礼に寝てやらなくてもそう文句は言われないからだ。僕と王が「奢り、奢り」とダンスで喜びを表現するなか、彼は渋々といった態度ではあるものの、文句を言わずに決済をしてくれた。そんな彼にもう一度礼を言い、受付番号が印刷されたカードを持って商品受け取り口付近に移動する。
「あら、ハリエットさん。どうしたの、顔色が悪いですよ」
 完成を待つあいだ、王はハリエットが顔を青くしていることに気づいたらしく、彼の腕に胸を押しつけて甘い声を出す。これは確信犯だ。
「……なんでも、ない」
「ないことないでしょ。お仕置きが怖いんでしょ。ほら、チンチラの……クランちゃんでも見て落ち着きなよ、んっふふ……」
「馬鹿にしてんのか、あ?」
「してないって! 僕だってジュンコ見て可愛いなあって癒されてるモチー……きゃー! 乱暴しないでモチー!」
 再び揉み合う僕たちを見て、王は「なかよしなかよし」と頷いて満足げ。『なかよし』の基準がずれているような気がしないでもないが、僕がそれを指摘しようとした手前で王は「お仕置きは痛くないですよ。むしろ気持ちいいかも」とハリエットに囁いた。すると彼は瞬時に晴れやかな笑顔になり、「そうかそうか」と嬉しそうに僕の背を叩きはじめた。
「あのさ、ご褒美じゃないってこと忘れないでよ。僕みたいになるよ」
 叩かれて揺れる声でそう指摘する。
「お前みたいにって?」
「なにされても喜ぶダメ男」
 そうこうしているうちに番号を呼び出されたので商品を受け取って、屋外のイートインに移動する。少し離れた位置にあった湖畔のテラスにはテーブル席もあったが、王はベンチを選んだ。その両脇を僕とハリエットで埋めて、三人並んでころんと可愛らしい形のプラカップの蓋を開けた。じんわりと温かい容器が手指に嬉しいのは、辺り一帯が黄昏の風を孕んできたからだろう。数トーン暗く色味を落とした湖面に、魚が跳ねる。
「ふふ、かわいい……」
 薄く微笑んでそのピンク色をした湯圓を覗き込む王の、うつむき加減の面差しにはっとするのは、その横顔が生贄を喰らうときの横顔そのままだったからだ。すこしせつなく思っているような、慈しみの滲む睛と、微かに上がった口角の優美なくぼみ。薔薇、トケイソウ、葡萄、それから微かに香る程度にブレンドされたスパイスの香りと合わさって、香の焚かれたあの祭壇のことを思い出すが、僕はあのときの王が抱いていたその心情を、その微笑の真意を、未だ推し量れずにいる。それは期待感であるはずもなく、喜びでなければ怒りでもない。もっと空漠とした、感情としての輪郭に乏しい、たとえば、諦めのような感覚……。
「どうしたの? 嫌い?」
 そんな王の優しい声がして、王に向けていた目にふたたびその笑顔を映しだせば、自分に向かって突き出されていた匙の存在に気づく。「一個、あげる」……キミは人に与えてばかりじゃないか。
「王、僕は……」
「みんなで、あーんして、交換こしましょう」
 ひとりみっつずつのその湯圓は、ひとりがふたつ捧げれば均等に配分される。王が閉じたままの僕の唇に「ほら」とその団子を押しつけてくるのに負けて口を開くと、つるりとした感触が口内に侵入してきた。もちりと柔らかな生地を歯で潰すと、中からとろりとした胡麻餡が溢れ出る。ラードの入っているその餡は濃厚な風味で、絶対に万人受けしているに違いないものなのに、「あ、うまい」と発見の声が出そうだ。このピンク色をした生地にも薔薇が練り混ぜられているのか、浸っていたローズティーの香りとも合わさってなんとも芳しい。
「はい、次は俺のな」
 僕がまだ口を動かしているというのに、ベンチの背凭れ側からハリエットが自分の湯圓を差し出してくる。まって、と身振り手振りで訴えるが、奇妙なほど高い声で「はやくたべるモチー」と言われてしまって、即座に噎せた。「ひい、やめてそれ……」「やめないモチー、はやくしないと冷めるモチー」「食べるから黙れって!」……捻じ込むという表現が妥当な手付きで、僕の口にその紫色をした団子が入れられる。するとまずは葡萄の香りのする紅茶の、少し渋い歯触りと、シナモンなどのスパイスが醸し出すホットな感じが口いっぱいに広がった。これは冬の香りだ。生地から溢れるのはピーナッツ餡。ピーナッツバターだけでなく細かく砕かれた種子も入っていて、まるでホットワインでナッツを摘まんでいるような感覚がある。あるいは、おつまみのナッツとレーズンそのものの雰囲気。ウイスキーと合わせても美味しいかもしれない。
「あーんして?」
 僕が葡萄味を飲み込んですぐに、王はそう言って可愛い口から可愛くない牙を覗かせた。その僅かに後ろで、ハリエットも「俺も」と王の頭に頬を擦りつけながら口を開くので、「しょうがないなあ……」と嫌気を含ませて返事をする。そして開いたままの王の唇に対するキュートアグレッションを堪えきれず、ちゅっとキスをしてから僕の湯圓を食べさせてやれば、「むーん。はおち」と求めていたものそのままの反応。次いで、ハリエットの口にも「ほらよ」と押し付ければ、「俺にはないのかよ、キスは」と大して残念でもなさそうな声で返ってきた。
「ほんとにされたいのかよ。腰立たなくしてやろうか?」
「いや? されたら舌をズタズタにしてやるつもりではいたが」
「なんで僕の舌が入ってくる前提なんだよ」
「忘れられない体験にしてやるよ」
「ズタズタにされた経験がないとでも?」
 返事を待たずにその薄い唇の奥に湯圓を押し込む。敢えて、その中は覗き込まない。それから容器を空けてしまおうと、最後に残った自分のパッションフルーツ味のそれも口にした。第一印象のかろやかな酸味が、一瞬『ズタズタ』のオノマトペとリンクして、舌に奔った想像上の痛みに肩が跳ねる。だがその先にある甘味のお陰ですぐにそれを忘却して、安心してその団子を噛み締めた。どうやら餡が二層になっているらしい。パッションフルーツペーストと……これはカスタードだろうか。顎の裏がきゅんとする甘酸っぱさと、もったりとしたクリームが味の認識に遅延をもたらすが、一体感がないわけではないから愉快だ。三種のなかで最も濃厚で、口の中が甘々になる。しかしカップに残った紅茶をひとくち飲めば、甘さが和らいでちょうどいい。
「おまえはハリエットさんと話していると、昔のような口調になりますね」
 ふと王がそんなことを言うので「え、いつの感じ?」と疑問を返す。すると王は僕の頬にやさしく触れて目を細めた。
「同期の子たちと話しているときみたい」
 その手首から香る甘い匂いに、すん、と鼻を鳴らす。ずっと変わらない、僕だけの王の匂いだ。
「同期……ああ、エスクワイア連中ね」
「彼らとは謦咳府でも同期だったのでしょう?」
 謦咳府とは、僕たちの祖国では神学校のことを指す。一口に神学校と言っても多種多様の学部があり、僕は士官学部の出身だ。最もスパルタなことで有名で、僕は口が裂けても「学生時代に戻りたい」などというテンプレの懐古は口にできない。
「まあ、子どものころから何年も一緒にいたらね。口調も砕けるよ。彼ら、僕が王の騎士に叙階されてからもバリバリのタメ口だったし。あ、裏ではね……って、聞いてたの?」
「ふふ、訓練をしているときはいつも見ていましたからね」
 それは初耳だ。しかし、恥ずかしいというよりは、嬉しい。今更だが、心底。王は、僕に興味がなかったわけではないのかもしれない。
「それって叡覧訓練以外でもってこと? 言ってよ……そしたら張り切ったのに」
「まあ。不正解ですよ。いつも張り切らなくてはならないため」
「そんな運転免許試験みたいな……え、じゃあ聞いてたの、このあと誰の部屋で飲もうとか、誰が好きだとか、そういうしょーもない話を……」
 そんな話題のとき僕は、いつも周りから「お前は今でも好きだもんな、あの御方のこと」と異様に理解を示されていた。前の主とは死別だったからだろう。僕はそれに甘えていた節もあって、真面目クンの枠にすっぽり収まってすっかり楽をしていた。でも、今の主人のことだって愛している……と、どうして言えなかったのだろう。
 勇気を出して言っていたら。そのことが風の噂程度でも周囲に伝わっていたのなら。王はあんなに刺されなかったかもしれない。あの日僕が抱き上げた王は、辛うじて四肢が繋がっているといった具合にまで、滅多刺しにされていた。
 結局僕は、すべては父の仕業だと、僕はそれに流されていただけなのだと、言い訳をして被害者ぶりたかっただけなのだ。
「ふふ。わたくしの聴力を侮らないことです。ではつまり、そのくらいなかよしなのですね、おまえたちふたりは」
 王の嬉しそうな言葉に促されるようにしてハリエットの顔を盗み見ると、またばちりと目が合った。その透き通った睛には、いつも震えそうになる。
「そういえばキミってどこの出身なの」
 またしても会話の軌道を微調整。僕は狡い。
「……さあな」
「それもわかんないの?」
「第二の人生満喫中なんでな」
 つまり、そういうことなのだろう。なら、今は訊かない。
「謎ばっかり。じゃあ、誕生日教えて」
「六月三十日」
 思いがけず、彼はすぐに答えてくれた。
「ふうん。じゃあ、祝ってやろっと」
「肉」
「もっと欲出せって。社長ですよ僕は」
「お嬢ちゃん」
「バランス感覚どうなってんだよ。その体幹は飾りかって」
「残念ながらな。全部手に入れたと思ったのに、全部なくしたしな」
「はは、ミートゥー。でも王のことだけは失くしてないよ。パンドラの箱ってよくできてる」
「そうだな。大事にしろよ。最後に残ったものがある奴は幸福だ」
 そう言った彼の声は、そのセクシーな声質とは裏腹に、まるで目の前に広がる水鏡のようにしんと静かだった。……もうすぐ陽が落ちる。僕はなんとなく、「だめだ」と思った。彼をそのままでいさせてはならないと、天啓を得るかの如く。
「そういうの、やだって言ってんじゃん」
 我が儘を、愛を、今度こそ真面目に声にする。
「死亡フラグ立ててくの、やめて」
「……今でなくても死ぬだろ、いつか」
 なんてことのないふうに、彼は笑った。
「いやなんだよ」
 強い声で反論する。王が僕の顔を見る。
「どうしてだ? 俺はお前の亡くした恋人じゃないぞ。同一視するな」
 舌打ちをする。彼も大概、性格が悪い。意を決して、もう一度彼の目を見る。……震える。
「キミのことが好きだって言ってんの。わかってよ。バカ。バーカ」
 まだ震えている。でも彼のためになんか泣かない。まだ死んでないからだ。まだ生きているからだ。
「キミは僕のこと嫌いかもしれないけど、僕は好きなの。好きになっちゃったの。死ぬかもしれないイキモノだからって、僕はキミとあの人を同一視なんてしてない。ぜんぜん可愛くないくせに調子乗るな。バカ。ゴリラ。バカゴリラ」
「後半、ストレートに暴言じゃねえか?」
 呆れ顔でそう指摘したあと、彼は「キミの使い魔にいじめられたんだが」と事態を静聴していた王の頬をつつく。しかし王は無言で彼の指を握りこむと、今度は自ら人差し指を立てて、その行く先を彼に見せつけるようにして僕の胸を指した。
「ここに光あり。……目を逸らさないで」
 そう宣告して、王は僕たちのあいだから立ち上がる。そして笑顔でひらりと振り返り、僕たちの手をそれぞれ握った。
「好きと嫌いは並立します。ハリエットさん、この子の好きなところも言ってみて。それから、ストレートに暴言も。フレンドシップというのは、そういうものでしょう。やられたら、やりかえせ」
 王にそう促されて、ハリエットはその唇をぎゅっと持ち上げた。そのぐにゃぐにゃなかたちが面白くて笑えば、彼は「静粛に」と言いつつ、眉間の皺をより一層深めた。おお、悩んでる悩んでる……そう観察すればするほど、友だちとはこういうものだったなと、なんとなく思い出してゆく。
「……お喋りなところは、嫌いじゃない。すごく、うるさいが」
 ぽつりと漏らされたそんな言葉に彼の横顔を窺い見れば、まだ目は合わない。……まだまだ悩んでいるらしいその真面目な表情。きっと、暴言については言いたいことが溜まりに溜まっているに違いない。
「諦めの悪さは、見習いたい。俺は諦めがよすぎるから、そのせいでとりこぼしてきたものが、たくさんある」
「ふふ、しつこいですよね」
「王までなんなの」
「優しいところは、好きだ。ありきたりだが」
「みんな優しいでしょ、生きてたら、そりゃ」
「……訂正する。俺に優しくしてくれるところと、俺の大切なお嬢ちゃんを大切にしてくれるところが、好きだ」
 これは図々しく出たものだが、満更じゃない。顎を持ち上げてウインクをしてみせれば、彼は不愉快そうに歯を軋らせた。
「では、暴言のターン」裁定者のように、王は彼を促し続ける。「素直であれ」
「……逃げるな。星だけじゃなく、自分の価値を、証明しろ」
 暴言じゃないじゃん、と言いたかった喉が、意図せず沈黙した。
 王はしずかに「よいでしょう」と告解を切り上げると、握っていた僕たちの手をその胸に押し付けた。普段ならば柔らかいとかエロいとかそういう浅い言葉を吐いてヘラヘラと笑っていたことだろう。しかし、今はそんな気分ではなかった。王のやわらかな胸に手指を預けながら、僕は斜陽に王のヘイローを見る。彩雲に、彼の翼を見る。そして僕の手に、血を見た。
「おまえたちの友情を祝福します。三人で手を繋いで帰りましょう」
 なんだ、この脳裏に過る意図不明なシークエンスは。彼の言葉は。
 立ち上がる足に力が入っていないような感覚がする。それに迫られるようにして腹に力を込めるが、王に一歩一歩促されるようにして進む足のコントロールは所在をなくしていて、感覚だけで僕はそこにいた。帰るべきところへ向かって歩いていた。夕映えが照りつきかがやく帰路に長い影が三つ。この光景は初めてだが、僕は、それがふたつだった頃を、なんとなくそうだったという残影を、真昼の白い幻影と同じだけの明度で視認していた。
 僕は彼のことを知っている。
……未知の、既知との遭遇が目の前に横たわっている。でも、どうして覚えていないんだ。彼の横顔を見る。こっち向いてよ、と念じる。いまだなにとも重ならない彼の実体。影だけに感じる既視感を手繰り寄せようと、僕は王とハリエットの前に飛び出して、彼の手を取った。意図せず輪になり、そのかたちに沈黙したのは、ファユエンが食べさせたがったその菓子に込められた願いの意味を思い出したからだ。月のように円く、円満であることを願う……それは、団円トゥアンユエン
「ねえ、僕のこと……」
 口を開いたものの、しかし、なんて、問えばいいのだろう。円満で、団欒で、いたい。臆病な喉から「……好き?」と、自分でもバカみたいな問いがこぼれでて、そんなつもりはないのに全身がまるっと切実になる。
 すると彼は「好きだよ」と言ってぱっと僕の手を振り払った。
 そして「嫌いでもあるが」と付け加えながら宙ぶらりんの僕の手を拾う。その手付きの乱暴さにどこかほっとするのは、ちぐはぐでもその言葉が反映されているからだ。この男は僕を拒絶したくないのだ。僕とは性質の違う、真摯な嘘吐き。ストレートに言うなら、バカ。だからこそ願う。本当のことは隠してもいいし嘘を吐いてもいいから、逃げないでほしいと。嫌いでもいいからここにいて。僕のこと好きなんでしょ。……好きなら声にしたらいいのに、出ない。震える息だけが輪の中に滞留する。でも、それで伝わったはずだ。目を見ればわかる。そう確信していると彼は、「バカが」と、今度はストレートに暴言を吐いた。
「度胸なし。センチメンタル馬鹿野郎。そのくせすぐ調子乗りやがる。絵に描いたようなダメ男だな。見てるとこっちの気まで滅入る」
 暴言というか、マジの悪口である。
「は? そこまで言われる謂われはないんですけど?」
 これには我慢ならずその胸倉を掴みにかかる。もう服の値段なんて気にしたものか。するとハリエットもすかさず「事実陳列が得意なんでな」と応戦してきた。「このゴリラゴリラ! ダンベル何キロの使ってんだよ」「お前に持てないくらいのやつだ」「はあ? キミに持てるなら僕にも持てますう」「その肩でか? 鉄球ぶつけたら折れそうだ」「基準がゴリラなんだよゴリラ! 僕だってそれなりにゴリラだバカ!」
 性懲りもなく揉み合う僕らを見て、王は笑っている。口元を扇で隠して、しかし嬉しそうにしているのがよくわかる声で「春ですねえ」と。
「春じゃない!」
 そう主張するふたりぶんの声が、二月の鮮やかな夕闇に喧騒を投じたその瞬間、夜になった気がした。まだまだ続く、賑やかな祝日の夜。しかしこれではダンスパーティーではなく喧嘩パーティーだ。このまま一晩中だって喧嘩してやると息巻いて、駅までの道程を互いの悪口で喧嘩して、地下鉄の中を夜食の献立で喧嘩して、ホテルまで歩きながら互いの連絡頻度の合わなさで喧嘩して、部屋で楽な服装に着替えながらまだ喧嘩していることについて喧嘩した。しかしまだ向こうが負けを認めていない。こうなったらメシを食いながら喧嘩してやる……と意気込んで着替えを終えてみれば、僕もハリエットも同じヌンチャク・パンダのTシャツを着ていた。それを見た王が心底可笑しそうにケラケラと笑う。きょう一日続けていた「ふふ」という上品な笑い方ではなく、お腹を抱えて、珍しく息切れを起こしながら。
「あはは、ひい、なんなのもう。わたくしにもそれ、買ってください。あと今日はもう喧嘩しないで。もうおわり。おわりよ……」
 なおも咳き込んで笑う王の姿に、争う意気はしゅんと収まって、代わりに可笑しみが腹の奥からせり上がってくる。怒号でも揶揄でもなく笑い声が三つ響く春。そんなに笑うなよ、と笑い転げる王の捕獲を試みる彼を、笑い過ぎて涙の滲む視界に映しながら、僕は先ほどの彼の発言を反芻する。
……逃げるな。星だけじゃなく、自分の価値を、証明しろ。
 ならば証明してやろうじゃないか。遠い昔に聞いたことのあるその言葉は、きっと誰かの死に物狂いによって過去から今の僕に届けられたのだ。報いてやる。絶対。そうして僕はキミを知り、また会えたねと抱き合ってやる。嫌がられても、嫌いと言われても、僕はそれを成すのだ。
 僕の決意も知らずに追いかけっこでイチャつくふたりに、夜市でTシャツを買って、適当に美味しそうな店に入ろうと提案する。仲良く「肉!」とハモるふたりに「博打要素のある魚じゃダメですか?」と返して、いまだ寒い春の夜に備えて上着を羽織った。


 End.


五百年の修業を得て
はじめて同じ船に乗ることができ、
千年の試練があってから
はじめて僕はキミと同じTシャツを着る。


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