【SERTS】scene.13 一番カッコいい大人の麻婆豆腐
※このシリーズはフィクションです。作中における地理や歴史観は、実在の国や地域、団体と一切関係はありません。
※一部グロテスクな表現や性的な表現があります。(R/RG15程度)
泣きながら俺を捜しまわる声がして、ああ夢かと無情な現実をすんなり受け入れる。この夢をみるようになったその最初の夜から、俺はずっとこれが夢であると自覚しつづけていて、だからこそ、一度くらいは夢だってことを悟らないまま、あの子となんの憂慮も哀しみもなく過ごしてみたいと願っていた。
「……おにいちゃん!」
俺を見つけるちいさなキミ。裾を引くちいさな手。涙でぐちゃぐちゃのその顔に、見つけてやれなくてごめんなと一言謝りたかった。でもキミは、いつも俺がキミを見つけるより先に、俺のことを見つけて、「いた!」と大声で叫んで、それから「いなかった!」と泣いて俺を責める。
「よく見つけたな」
俺は謝らずにキミを抱き上げる。するとキミは、その涙にまみれた手で俺の顔をべたべたと触って、今度は安堵にぎゃんぎゃんと泣く。一緒にいてやれなくてごめんなと謝りたいのにもう謝れない。そのあふれつづける涙の、嘘みたいな粒の大きさがいつも可笑しくて笑ってしまうのは、もうそれらが熱かったことをこの肌が覚えていないからだ。ただ、熱かったという記憶が、言葉が、この胸のなかに微かな火をともすだけで、今まさにこうしてそのぼろぼろとこぼれゆく翠雨に打たれていても、俺にはその温度がわからない。
「だこ、して」
いくらでも泣き止まないキミは、そう要求して俺の首に抱きつくと、えーんえーんとあまりにもテンプレすぎる声で泣く。その背を擦りながら、俺は「もうしてる」と囁いて、やさしくキミを揺らす。このあとは眠ってしまうか、目が冴えて俺に遊べと強請るかだ。まったく、まだまだ赤ん坊。俺の中では、ずっと。
「おひざ、のせて」
しゃくりあげる合間に、キミはなおも要求を続ける。ひっぐひっぐと大袈裟に肩を揺らして、この世すべての辛苦がここにあるとでも言いたげに、恨みがましい泣き声で。
「たかいたかいも、して」
「わかったよ」
「いちご!」
「はいはい」
そうだ、もっともっと我が儘を言って俺を困らせてほしい。俺は、それだけでよかった。それだけでよかったのに、俺は『それだけのこと』を守れなかった。……単に、俺自身が弱かったから。
「てて、つなぐ」
「そうだな。手、繋ぐか」
そのほんとうにほんとうにちいさくて、おもちゃみたいな、これが手だなんて信じられないと思うだけで悲しくなる手を、壊さないようにと意識を張りつめながら握ってやれば、予想通りに、それはすこし成長したキミのそれに変わる。もう何度も何度もこうなるのだ。キミは俺の腕の中で相変わらず泣いていて、うつくしく成長したというのに懲りずに頬を涙に濡らしていた。
「……お兄ちゃん」
俺の指がその涙の軌跡をゆっくりと逆行する。泣くな。もう泣くんじゃない。……声にしたくても口から溢れるのは血と咳だけで、死にゆく俺はキミの涙をとめるすべを持っていないことに気づいて途方に暮れる。ここにはキミの好きな花も歌もぬいぐるみもイチゴも、なんにもない。キミを笑わせる魔法を、俺はどこか遠くに置いてきてしまったようだ。ああこんなはずじゃなかった。喀血のたびに後悔が募る。それを雪ごうとでもしているのか、キミは更に涙をあふれさせた。
「生きて……」
どうして、あんなに長く一緒にいたのにキミは知らないんだ。キミがいないなら、俺は生きていたって仕方がないってことを。せめてそのことが伝わってほしくて、その手を強く握る。でもキミは頑固だから、俺の要求なんてなんにも聞いちゃくれない。
「絶対に、生きて」
そうしてキミは、俺を呪った。呪い続けるということは、相手を生かし続けるということだ。やめろと叫んだ俺の言うことを聞かず、叱る機会すら与えてくれないまま、いつのまにそんな呪文を覚えたのか、キミはいつもの我が儘を言うみたいに俺に鍵をかけて、放り出したのだ。
この生きていてもしょうがない世界に。
もうぎゃんぎゃんとも、えーんえーんとも泣かないキミの姿が遠ざかる。俺がとりこぼした、俺の一番大切な……。
「いい夢みてた? 兄さん」
薄く視界が開いて、それに連動して他の感覚も続々と開いていくのを感じる。遮光カーテンの内側でひらめく陽光を知覚し、のそのそと朝を迎える俺は夜の生き物らしい緩慢さで枕の下に入れていたスマホを取り出すと、もう冴えている目で時刻を確認した。いつも通りアラームの五分前。使いもしないスヌーズを切って、悪夢に溺れていたわけでもないのに動悸がしているのを、瞑想も兼ねた深呼吸でゆっくり宥めていると、ふとあの子は俺を『兄さん』とは呼ばないという、当たり前のことに気がついた。ザッと血の気を引かせながら飛び起き、隣のスペースを叩いて確認すれば人ひとりぶん膨れていて、「あん」だなんてふざけた声と共に蠢く。毛布からはみ出す華奢な四肢。赤く塗られたネイル。長い髪……。
「おい、ふざけんな……!」
俺が掠れた声で叫んだそのとき、寝覚めに聴きたくないほど艶やかなヴェルヴェット・ヴォイスの持ち主が、ふふと愉快そうに息を吐いた。それを不愉快に思いながら、こわごわとコンフォーターの中を確認すれば、俺の絶望感とは裏腹に、きちんと下着は身につけている。安堵に噴き出す息を吐き切って、チャームポイントである真っ赤なドレスを着たまま俺の隣に潜り込んでいたらしい奴の眉間に、
「俺のベッドに入ってくるな!」
と人差し指を突きつければ、生意気にも「だって」と反抗の姿勢。「だってじゃない」と切り捨てて、
「次やったら容赦しないぞ、翠雨」
と彼を睨む。
このどこからどう見ても女にしか見えない男は、広義では俺の弟だった。
「ご挨拶だな。久々に会えたんだからもっとなんかあるんじゃない。やあマイブラザー、相変わらず美人だな、とかさ」
「うるせえ、とっととベッドから出ろ」
その小さな尻を蹴り飛ばしながら俺もベッドから下りて、クローゼットから着替えを取り出して素早く身につける。そしてこの節操なしと同じ空間にいるための防具を整えてから振り返ると、彼はソファで脚を組んで、俺に買わせたピンヒールの先端を片手で弄り回していた。目が合うと、彼はにっと唇の端を持ち上げ、「ねえ、なんでここにいるんだって訊いて?」と小首を傾げる。弟でさえなければ彼の夜色をした長い髪や、人を狂わせることに特化したグリーン・アイズ、それからその怖いくらいに冴えた美貌について素直に評価してやらないこともないが、そんな素振りをみせればこの性悪は即座に調子に乗って俺に金を使わせようとしてくるから、気が抜けない。
「どーしてここにいるんだー」
棒読みでそう言ってやれば、弟……翠雨は満足そうにその口元の黒子をにゅっと持ち上げる。あの紫頭のハウンドも含め、こういう誘い受けな態度が俺は嫌いなのだが、付き合ってやらなければより一層付き纏われることは目に見えているので、乗ってやるしかない。「待機組だろ、お前」
「ふふ。雪國様からお小遣い貰っちゃってさあ。月食狼のアニキと分けろって言われたから来ちゃった」
「来ちゃった、じゃねえ。つうか、俺は吸血鬼族と関係ないから貰う謂れがない」
翠雨の種族は闘魚だ。しかし吸血鬼の血が混じっており、雪國という長老の管轄下にある。ここにはドクター・カイドウも含まれているのだが、どうしてこうもあの長老の元には雌雄の判別のつきづらい個体ばかりが集まっているのだろう。そういう趣味なのだろうか。
「兄さんのこと気に入ってるからでしょ。あの人も見た目はお姉さんだけど中身はおじいちゃんだからね。若い子みんなカワイイ病なんだよ。アンダーソンみたいな感じで。だからほら、孝行だと思ってさ」
そう言って翠雨はテーブルの上に札束をぽんと投げ出す。投げるな、と注意しながら拾ってみれば、中々の厚みだ。一般的な小遣いという感覚からはかけ離れているが、それはあの長老の感覚からすれば仕方がない。
「……で、名目は? 雪國さんは俺になにをさせたいんだ」
「ん? そういうのはないよ。ただ『デートに使え』だってさ。兄さん、彼女できたんでしょ?」
その言葉に「は?」と不服の声が漏れ、唖然とする。「……それ、誰が言ってた?」
「え、リモート飲みしたときアンダーソンが言ってたよ。かわいこちゃんと頻繁にデートしてるって。いやあ、私も嬉しくってさ。雪國様と飲んだときに報告したら、こう、泣きながら札束をぽんと。あの人泣き上戸だから。ジジイの泣き上戸って大変だよね。相槌のリズムゲームさせられるし」
頭に血が上るのを感じるが、ゆっくり息を吐いてなんとか己を律する。どうして俺の周りにはこうも酒癖の悪い奴ばかりなんだ。怒りを押し込めようと必死な俺をよそに、翠雨は呑気に棚からウイスキーを漁って瓶のまま飲み始める。それは俺のヒビキだ。未開封品だったのに、彼は気にした様子もなく口をつけて景気よく息を吐くと「次はヤマザキにしてね」だなんてナメた口をきく。
「お前……俺を苛立たせに来たのか……?」
「そうだけど?」
頭部の血管が千切れそうだ。だが今ここで怒りたくはない。今日はこれから予定があるからだ。
「今日もデートなんでしょ? 聞いたよ、アンダーソンに」
その言葉に、俺はもうダメだと明確に悟った。一回ブチ切れてこの件を片付けてからじゃないと、俺は今日一日を楽しめそうにない。
「おいアンダーソン! アンタよくその口の軽さで司令官やってるな!」
管制室に怒鳴り込むと、アンダーソンは背中をびくりと震わせてこちらを振り返った。挨拶もなしに怒り心頭でいる俺の様子に、なにか不味いことが起こったと察したのだろう。「どっ、どれ、どのことだ……?」と余罪特盛の怯えた眼差しが俺を映し、動揺に泳ぐ。
「どれとはなんだ。全部吐け!」
「うっ……弁護士を呼ぶぞ! パパ、弁護士呼んじゃうぞ! チャリンチャリン! かちゃかちゃかちゃ! プルルルル!」
「なんで公衆電話なんだよ。古すぎるだろ。それ孫に通じないぞ」
「カチャ。はーい。弁護士でーす」
そんな悪ノリ全開の声に振り返ると、案の定、翠雨がウイスキーをラッパ飲みしながら管制室に入ってきたところだった。その姿を認めたアンダーソンは、安堵したように「ハーフムーン! よく来たなあ!」と、弟のコードネームを呼んで笑顔になる。そんな、俺の問題提起を敢えてスルーしているような態度が気に食わず、彼が一年中好んで着ているアロハの襟を掴めば、威力業務妨害、と細く訴える声がした。
「威力業務妨害はアンタだろうが。なあ、どうしてそんなに口が軽い? 酒のせいか? コレクション全部叩き割ってやろうか?」
「待て、ハティ。これには深い事情が……ないんだな、コレが! ハッハ! すまんすまん、でもめでたいことだからなあ。ごめんよお、ゆるちて」
「そのクソウザ親類ムーブはやめてくれ。アンタは娘の成長を赤飯やケーキで喜んだクチか? あ? 俺は誰からも冷やかされたくないんだ」
「えー、私は別に冷やかしてないよ」
「お前は黙ってろハーフムーン。カクテルグラスで飼うぞ」
「やめて! あれ普通に苦しいんだからね!」
ごめんぴょ、と額を拳でこつんとやってお茶目ぶっているアンダーソンを、もうこれ以上なにを言っても仕方ないという諦念から解放してやる。よろけて笑う彼に擦り寄って「ねえアンダーソン、私、北京ダックが食べたい」と甘える翠雨に、「お前も邪魔したら容赦しない」と指を突きつけると「なにを? 恋路を? いけず石で?」と茶化されたが、もう怒るのもばからしくて、俺は肩をがっくりと落としてその手からボトルをひったくった。もう半量ほどになってしまった高級ウイスキーを煽って盛大に溜め息を吐いていると、昼は北京ダックを食べに行こうと翠雨を甘やかしていたアンダーソンが「ほら、そろそろ空港に行け」と俺の肩を叩いた。
「今日から有休だろう、楽しんでこい」
「お土産待ってまーす」
もう一度彼らになにか言ってやりたくて人差し指を突きつけるが、ふっと面倒になり不完全燃焼の心地のまま背を向ける。デスクで「ハーフムーンちゃんって可愛いですよね、お義兄さん」とデレデレ義弟ぶる同僚に「マジでやめとけ。これは百の善意だ」と釘を刺し、俺は支度をしに自室へと戻った。
今回の行き先は四川だ。上海からは空路で三時間ほど。昼頃に到着する見込みで予定を共有していたからか、搭乗直前にあのハウンドから「おはよう。ちゃんと飛行機には乗れましたかー?」とメッセージが届いた。母ちゃんかよ……と思いつつ、機内に乗り込んでから「乗った。墜落しなければ十二時半」と返せば、すぐに「フラグバキバキに折っといたから大丈夫」とレスポンス。つい笑ってしまいながら、背凭れを若干倒していると、隣の席に女がやってきた。可哀そうに、俺みたいなのがいたら窮屈だろうと、できるだけ窓際に身を寄せていると「お気遣いなく」と短い言葉をかけられた。見れば銀髪のショートカットをしたすらりとした美人が口元だけで俺に微笑みかけている。
「あ、ああ……なにかあれば気軽に言ってくれ」
そう返しながらも、なんとなく既視感がある気がして、ちらりとその横顔を窺う。長い睫毛に、砒素のようなグリーン・アイズ。今日はやたらとグリーン・アイズを見るな、と翠雨とアンダーソンの姿を思い浮かべながら一旦視線を逸らし、情報を整理する。『王子様』っぽさの滲む中性的な佇まい。挙措からして性格は冷静沈着。そしてこの手練れであるに違いない気配は、一度でも間近で感じれば絶対に忘れない類のものであるはずで、そうなると同族でしか有り得ない。しかし一体どこで……と眉間を揉みながら視線だけを彼女に向けると、目が合った。慌てて目を逸らすが、しかしそれをしたのは彼女も同じで、俺は不可解に思いながら状況を分析する。向こうもこちらを意識していたのだろうが、それは好意から来るものではなく、単純に見覚えがあるだとか一方的に知っているだとか、そういう類いの、熱のない目だった。意を決して「あの、どこかで」と切り出すと、彼女は唐突にこちらに向かってスマホの画面を突き出してきた。
そのホームの壁紙は、よく見慣れた真っ白な美少女……お嬢ちゃんの写真だった。タコヤキを食べてほくほくの笑顔でいる、なんとも幸せで可愛らしい姿を収めたものである。
途端に彼女の行動の意味を察して、俺もスマホの待ち受けを見せる。ワンタンメンを食べているお嬢ちゃんの画像だ。すると彼女は「やっぱり」と頷いて、それから手を差し出し握手を求めてきた。
「DVSのエージェント、ゾエ・カシュウです。ハリエットさん、お噂はかねがね」
その睛がぎらりと鋭く光るのを、俺は真正面から受け止める、しかない。握り返した華奢な手は想像よりもずっと骨が強くて、俺が強く握っても壊れないだろうなという予感があった。
離陸後に彼女は機内販売でビールを買うと、「カップはふたつで」と注文し、ひとつを俺の前に置くようCAに促した。逃げるつもりはないが逃げられないことを察して、素直にその振る舞い酒を受け取れば、「では、チアーズ」となにに対する乾杯なのかよくわからないままプラカップを合わせることとなった。
「……差し支えなければ、なにに対する乾杯か教えてくれないか」
「乾杯の理由って必要ですか?」
「いや、ないならないでいいんだが」
「適当でいいですか? では……私の人生初の有給取得に」
俺の反応など微塵も気にした様子もなく、彼女はそう切り上げると、あっさりとビールを飲み干し、それから「祝ってください。差し支えなければ」と俺にも飲むよう促した。どうやら本当に他意はないようなので、俺も言われるがままに飲み干したあと、折り返してきたCAにもう一杯要求して、今度は俺が奢る。
「はは、有休に飲むお酒って美味しいですね」
この出会ってからの短い時間で俺は「ああ、笑うんだ」と彼女の笑顔を意外に思ってしまっている。ファーストインプレッションからして彼女は明らかに愛想がよくはないタイプで、無駄を嫌う性分なのが窺えたのだが、普通に笑いはするらしい。そういえばお嬢ちゃんが、「ゾエは笑うとかわゆいのです。あ、笑わなくてもかわゆいのですけどね」と言っていたことを思い出し、次いでラドレが「僕には笑ってくれないんですけどね!」と不服そうにしていたことも思い出して、うっかり笑みをこぼしてしまうと、彼女は「あ、ちゃんと笑うタイプなんですね」と俺の感想と丸っきり同じことを口にした。
「まあな。……俺も有休でね。その気持ちはわかるよ。給料貰って飲む酒は美味いよな」
「なんで大人ってこういうこと教えてくれないんですかね。だったら有休を取るのを躊躇わなかったのに」
そう言って彼女はごくごくとハイペースでビールを飲む。その『大人』という単語が引っ掛かり、「キミ、いくつなんだ? 大体でいいが……」とつい疑問を口にしてしまうのは、下手をすればまだ成体ではない可能性もあると、その気配の瑞々しさを不安に思ったからだ。
「二十六です」
にじゅうろく。二十六って、二十六か。一年が二十六回。……このあいだ生まれたばかりじゃないか。
「そうか……キミは確かデルタのお嬢さんだったな」
吸血鬼族は成体になるまでのスピードが人間と同等だ。つまり彼女も歴とした成体なのだろうが、それでも二桁台の年齢には驚いてしまう。俺にとっては子どもも同然だ。
「あ、子どもだと思ったんでしょう。先輩も陛下も社長もみんなそう。特に社長からはかなり強めのナメられを感じます」
「まあ……正直ちょっと驚くな。俺の感覚からすると二十六年前なんて、数日前とは言わないが数ヶ月前みたいなものだから」
「そういう人たちって、子育ても短く感じるんですか? まあ、種族にもよるんでしょうけど」
「いや、俺には子供がいたことはないから、なんとも」
しかし、幼子と一緒だった記憶はある。
「ああ……でも、一瞬だったかもな。それは、俺の場合思い出になってしまうまでが早すぎたからなんだが……もっとじっくり一緒にいられたら、もっと長く、それこそほんとうの永遠みたいに感じたかもしれない……と思うことはあるよ」
あの子の姿が脳裏を掠める。ミルクの匂いがするちいさきひと。その重みが今も胸に乗っているような気がして、俺は無意識のうちに胸元を擦っていた。
今でも鮮明に思い出せる。全然泣き止まなかったことや、おんなじ遊びを何度も何度もねだってきたこと。そのくせ数日で飽きて、また新しい遊びを懲りずに繰り返すその無限ループに疲弊したこと……そんな、一瞬で過ぎ去るのに、渦中では永遠みたいに感じるひとときを大切に束ねれば、まるっと確かなものになって俺を未来永劫幸せにしてくれるに違いない……と、俺は信じたかった。
「親になることのなにもかもを俺は理解しちゃいないが、関係性は変わらないことを知っているよ。子どもはいつまで経っても子どもだ。だから、キミの親御さん……については知らないが、彼らがキミを愛しているのなら、今もきっと夢みたいな時間の中にいるんだろうな。キミが、ちゃんと生きているんだから。それはこの世界に永遠があるのと同じことだ。……月並みだが、こまめに連絡してやると喜ぶと思うぞ」
だらだらと説教臭いもの言いになったことを自覚しつつ、ちびりとビールを啜る。すると彼女は、「へえ、いいお父さんになりそうですね」と脅威のない男全員に使えるような当たり障りのない褒め言葉を口にして、それから「まあ父上たちにメッセージを送ってあげないこともないです」と、いくらか生意気な口調で言うと、滑らかにスマホのインカメラをこちらに向けた。「写真いいですか」……こちらの反応より先にシャッター音が響くものだから、苦笑いが漏れる。お嬢ちゃんと同じ、フレッシュな無遠慮さだ。
「おい、ちゃんと注釈をつけるんだぞ。ただの知り合いだって。親御さんだっていきなり男とのツーショット送ってこられたらひっくり返るぞ」
俺がその立場でもひっくり返るに違いない。多分、相手を家に呼びつけるくらいはするだろう。
「大丈夫です。私がビアンなの知ってるんで。ボスの恋人……括弧、現状。と送ります」
「おう……そうしてくれ」
「あはは、いやはや、ムカつきますね。恋敵と肩を並べてフライトなんて。これが社長だったら私語、ゼロです」
メッセージの送信を終えたのか、ゾエは「任務完了」と呟いてスマホをしまうと、背凭れに深く身体を沈めた。そしてそのまま俺に「今のうちにゴマ擦っておきたくないですか? 私、陛下の身辺警護担当兼、お世話係兼、恋敵なんですけど」と言って、不敵に、子どもっぽく笑う。ああ、ごく普通の若い子なのだなと彼女に抱いていた第一印象を改めながら、俺は「次はジュースだ。飲みすぎはよくない」と、その手元からビールの入っていた空きカップを取り上げた。
「いいですよ。じゃあコーラとポテトチップスで」
そう言って恋敵氏は俺にジュースとスナックを奢らせると、今度はポテトチップスで乾杯を求めてきた。音頭を取れと顎で指され、俺は仕方なくその薄焼きカリっと製法の一枚を掲げる。
「これから始まる俺たちの戦いに、乾杯」
どうやら懐いてくれたらしいゾエと一緒にカルーセルで荷物を回収していると、背後から「ゾエ!」とお嬢ちゃんの声がした。振り返ると、突進してきたお嬢ちゃんが彼女を強く抱擁するところで、俺はそれを羨ましく思う反面、よかったなとふたりの肩を叩きたいような、なんともむず痒い心地になっていた。いかんこれはジジイの発想かもしれない……とひとり頭を抱えていると、こちらに寄ってきたラドレが、「え、なんで一緒?」と挨拶もなしに疑問をぶつけてきたので、経緯を説明する。
「へえ、そんな偶然が……って、王、ゾエが窒息死するよ」
彼がそう指摘する先を見れば、お嬢ちゃんの豊かな胸元に隙間なく顔面を押しつけられた状態のゾエが、身動ぎもせずぐったりとしていた。それを確認したお嬢ちゃんが「まあ、しっかりして!」と慌てているところに、ラドレが拗ねたような表情で割り入ってふたりを引き剥がす。ようやく息が通ったらしいゾエは、軽く噎せてはいたものの、「光栄です陛下」と言って、元気よく鼻血を垂らしていた。
「きゃあ! どうしたのゾエ! 怪我をするのは許しませんと言ったはずですよ!」
「王、王のせいだよ。ゾエはおっぱい大好きなんだから」
「そんなに好きなの? ああ、あとで好きなだけ触らせてあげますから、とりあえず止血しないと……」
お嬢ちゃんに優しくベンチまで誘導されたゾエは、はやく平気であることをアピールしたいのか、俺が手渡したポケットティッシュを鼻にぐいぐいと詰めはじめた。彼女から発せられる「大丈夫です。すぐに回復します。それはそれとしてどのくらい触らせていただけますか」という、がめつい鼻声を聞きながら、俺はラドレと顔を見合わせ、彼と同時に肩を竦める。
「俺はてっきりお前たちの話からしてもっとクールな子かと思ってたんだが」
「それ、全員が騙されるやつ。でも真面目なのは真面目。下心にも真面目」
「失礼ですね、社長。私はただ女体が大好きなだけです。下心なんてありません」
「じゃあその鼻血なに?」
「これは……瀉血です。患部からわざと出しているだけです」
「そこって下心だね?」
ラドレの突っ込みを「もう止まったんで!」と切り捨てて、ゾエは鼻からティッシュを引き抜くと、血塗れのそれをふらふらとした足取りでダストボックスに捨てに行った。それに付き添うお嬢ちゃんの背中を眺めながら、ラドレに「ちょっと両替してくる」と声をかけてその場を離れようとすると、彼は「僕も行くよ」と俺に纏わりついてくる。拒絶の意味を込めて溜め息を漏らしてみるが、なぜかそれはポジティブに同意だとみなされたらしい。微塵も怯まず、「ねえねえ」と甘えた声が背中をついてくる。
「なんなんだよ、お前」
「へへ、会えたのが嬉しくって」
「犬か。いや、犬か……」
「構ってほしいワン……いや、構ってほしいモチー」
「殺すぞ」
そうこうしているうちに辿り着いた両替機に、今朝貰った『小遣い』をすべて投入する。特にレートを確認しないまま人民元に設定し、機械から吐き出された札束を、滅多に使わないマネークリップに挟もうと試みるが、その厚みのせいでなかなか挟めない。試行錯誤の結果、諦めて札束のざっくり半分をラドレに渡す。
「おい、今回の出費はこれから払え」
「え、なにこれ。マネーロンダリングに加担させられてる?」
「違う。ただの臨時収入だ」
「三連単で帯当てた?」
「違う。小遣いだ」
そこで口を滑らせたことに気づき立ち止まると、案の定、ラドレがにやにやしながら俺の顔を覗き込んできた。「誰から?」と興味津々な様子だ。「アンダーソンさんとか? それとも、なんかすんごくエッチで妖しい熟女とか?」
この男は実のところ女好きじゃないくせ、すぐこういうことを言う。しかしそれもあながち間違いではないので、数秒の逡巡ののち、俺は意を決して事実を口にした。
「……すごく、すごーく、すごーく、とおーい、ざっくり親族とも言えなくもないくらいの人から、貰った」
「え、親族いるの?」
「……よし。今後、誤解を生みたくないから正直に言うぞ。俺には血が繋がっているとは言えない弟がいる。前にお嬢ちゃんが言っていた、家族をどう定義するか問題とやらを平べったーく展開すると、まあ弟と呼べなくもない程度の、そういう関係だ。俺は奴を弟だなんて思っちゃいないが、向こうがお前みたいに纏わりついてくるタイプだから仕方なくその自称を許してる。で、そいつの親族っぽい人から貰った。以上」
ほぼワンブレスでそう言い切ると、ラドレは「えっ、それって……」と戸惑った様子で目を泳がせる。確かに複雑な関係ではあるので、一気に飲み込めなくても当然だと彼が落ち着くのを待っていると、
「僕のこと、弟みたいに可愛く思ってるってこと……?」
と、頓珍漢な疑問をぶつけられた。
「なんでそうなる……?」
「だって弟さんのことを僕みたいって」
「いい。もう、いい。喋るな。頭が痛い」
なおも「そっかあ、うんうん」とやけに嬉しそうにしているラドレを押し退けて、ベンチに戻る。するとお嬢ちゃんとゾエが並んで談笑していたので、手を挙げて出発を促した。そろそろ予約していたウーバーもそろそろ到着する頃合いだろう。予約コードを持っているラドレを振り返ると、彼は胸に札束を抱いて「弟……うふふ」と妙に穏やかな尼僧のような顔でいるので、翠雨にするようにその尻に蹴りを喰らわせた。
四人で自動運転のワゴン車に乗り込み、宿へと向かう最中、女性型ボディのふたりは楽しくおしゃべりしているようだったので、隣の席から「お兄ちゃん」と俺の手を握ろうとしてくるラドレの口元に人差し指を当てて黙らせる。コイツは春節に会ったときから妙に馴れ馴れしくて、不愉快だ。視線で「積もる話を邪魔するな」と威圧すると、彼は「オッケー、哥哥(兄さん)」と小声で言って親指を立てる。なにもかもオッケーじゃない……と嘆きたくなるのを堪えて、俺は車窓の景色を眺めることに徹した。
四川の省都である成都は大都市だ。凄まじい勢いで乱立しているビル群が示す通りに、地域経済の中心地でありながらも、ただのコンクリート・ジャングルというわけではなく、観光に適した文化的施設や景勝地なんかも豊富で、パンダもいる。しかもそのほとんどが徒歩やバス圏内ときたものだ。近場になんでもあるがゆえに移動時間に悩まされず、ゆっくりと時間をかけて滞在できるのがこの土地の魅力のひとつだろう。そしてなにより欠かせないのが美食だ。国外でも名前やレシピが一般にも普及しているような、ザ・中華料理を豊富に擁する四川料理は、「一菜一格、百菜百味」(ひとつの料理にひとつの格があり、百の料理には百の味わいがある)という言葉で讃えられ、その理念に恥じず国内外に影響力がある。「知っている料理の本場の味」を味わうのもまたすばらしい旅の楽しみ方だ。今回、ラドレはそのことを念頭においてゾエをここ四川に誘ったのだろう。旅の初心者に体験させるには、実に最適なチョイスと言える。
「そういえばあなたは辛いものは大丈夫ですよね?」
「はい。社長ほどではないですが、好きです」
「実はあなたに手料理を振る舞おうと思っているのです。だから今夜は楽しみにしていてね。ええと、辛くて、こわくて、赤い、怖いやつを、作ります。ええと、なんだっけ……」
「陛下が、私に、ですか……? 身に余る光栄です……! 怖い……のはよくわかりませんが、このゾエ、なんでも綺麗に平らげてみせましょう」
「うふふ。ああ、料理のことを考えたらウォーウーラになってきちゃいました。ウォーウーラ、わかりますか? おなかのなかがカラカラの、意味です」
「なるほど、この国ではそう言うのですね。覚えておきます。私も、ウォーウーラです!」
男ふたりが黙って雰囲気を演出していることも知らず、お嬢ちゃんとゾエは手を握り合ったり肩を寄せ合ったりと楽しげだ。こういう弾んだ挙動は俺の文化圏外だが、ふたりが嬉しいのなら俺も嬉しい。ラドレがギリギリと歯軋りをして唸っているのを見ないふりをして、スマホで成都のランチ情報を調べていると、宿の近くに寛窄巷子と呼ばれる歩行街(歩行者天国のことだ)があることを知り、車載のタッチパネルで行く先を再設定した。
「チェックインする前に昼食にしよう。ゾエさんの荷物は俺が持つから」
そう提案するが、ゾエは「結構です。自分で持ちます。貴重品が入っていますから」と断る。それがどういった類の貴重品であるかは俺にはわからないので、「まあなにかあれば言ってくれ。肩が疲れたら貸してくれてもいい」と折衷案を出して彼女と合意すれば、お嬢ちゃんも「わたくしも、なんでも持てますからね。いつでも頼ってください」と微塵も盛り上がらない力こぶを作って割り入ってくる。確かになんでも持てそうではあるが、お嬢ちゃんは一見して小枝ほど細く今にも折れそうで、拒食症すら疑われそうなほどの体型だ。外野の目も考慮すると『持たせていい』のはちいさなキャリーケースひとつが限度だろう。それはゾエも意識しているのか、「これは案外軽いんですよ。平気です」と、自らの大きなキャリーケースを指すと、お嬢ちゃんを真似て力こぶを作った。見た限り筋力はそれなりにはありそうだが、明らかに俺やラドレには劣る。しかしそれは口に出さずに、俺は「鍛えてるんだな」とだけ言って、そのキャリーケースを観察する。シンプルな見た目だが、カルーセルで回収したときはかなり重そうな音を立てていた。一般的に女性体は荷物が多いらしいが、それどころではない音だった気がするので、荷物に偽装した武器が入っているというのが、俺の見立てだ。
「性差ってのはどうしてもあるからね。女性体は筋力に劣る代わりにそのぶん魔力が高いんだし、適材適所ってことで肉体労働は僕とそこのゴリラお兄さんに任せなよー」
不意に、頬杖で頬をぐちゃりと潰した不機嫌そうなラドレが会話に入ってくる。すると笑顔だったゾエは途端に無表情になって黙り込んだ。これは明確にコンプレックスをぶち抜いたな……と察しつつも、事実なので否定はできない。それに、ラドレは不用心にその地雷を踏み抜いたわけではなく、敢えて普段からそういった態度で彼女に口酸っぱく処世術を言い聞かせているのだろう。優しく意訳するなら、「無理をするな」「自重しろ」「突っ走るな」といったところだろうか。しかしゾエの立場からすると、頭ごなしに自分を否定されたと捉えられても仕方がない物言いだ。なるほど、ふたりが不仲なのには、こういう擦れ違いの積み重ねがあるからなのかもしれない。もうちょっと言い方があるんじゃないかと仲裁に入りたかったが、俺が言うにしても似たような表現になったに違いなく、このピリついた空気を甘んじて受け容れるほかない。どうして性差としての筋力差というのはあって、それは並大抵では埋められないのだ。
「……はい。でも、これは私が持っていたいんです」
不服そうに、しかししおらしく、ゾエは頷いた。ラドレに目配せすると、彼は肩を竦めて溜め息を吐き、それから先程よりは幾分か優しい声で言った。
「なにかあれば言って。僕たちは仲間なんだから。僕はキミが女の子だから侮ってるんじゃない。僕より遥かに年下のガキだから、適切な頼り方を教えたくて言ってんの。事実を受け容れて不足を他者に頼るのが大人のやり方だからちゃんと覚えて。キミは真面目過ぎるんだよまったく」
ああ、コイツはわざと嫌われ役をやっている。そしてそれを、彼女だって理解しているはずなのだ。ただ、まだ腹の虫の融通がきかない年頃というだけで。
「また子ども扱いですか」
「そりゃあね。なんてったってキミは二十……あれ、幾つになった?」
「二十六です」
すると、今度はお嬢ちゃんが「まあ!」と高い声を上げた。そして、「ちいちゃい! こんな、こーんなにちいちゃい!」と親指と人差し指で一センチほどの大きさであることを示して笑った。そして「かわゆいが、すぎます」とゾエの前にその一センチを突き出して、その手で優しく彼女の頬に触れる。
「そんなにちいさくは……」
「わたくしたちからしてみればそうですよ。あなたはまだまだこれから。前に、わたくしが一人前にしてさしあげると約束しましたね。これはあなたの未来の後輩や部下に対する気配りを教える授業でもあるのです。ごらんなさい、あのいじらしい猟犬を。ツンデレというやつですよ」
お嬢ちゃんがそう言った途端、ラドレは飲んでいたボトルコーヒーを吹き出しかけた。それを「よお、ミスター・ツンデレ」と茶化せば、彼は「ツンデレじゃないやい……」と狼狽した様子で視線を泳がせる。
「あれはあなたの話をするとき、いつも心配なくせツンとなってしまうの。あなたもそうよ、かわゆいそっくりちゃん。ツンとするのがあなたたちなりの気遣いだって、見ていたらわかるの。まったくわざとらしいんだから……でもあなたたちなりのやりかたをわたくしは否定しません。役なんて好きに羽織ったらよろしい。でも、大切なのは自分の演じ方ではなく、同じ舞台に上がった相手のやり方をよく観察すること。よく見て。反発するということは、根が同じということです。あれはあなたと同じ気持ちでいるの。わかっているんでしょう」
お嬢ちゃんと俺の見地が同じであることで、それが間違いじゃないことを確信する。ゾエが下唇を噛むその後ろの席で、同じく下唇を噛んでいたラドレは、そのシンクロに気づいた途端に、恥ずかしくなったのか掠れた口笛を吹いた。それに対して俺が「おい、死にかけのパーティーホーンか?」と揶揄した瞬間、斜め前の席からもひゅろひゅろと似たような口笛が聞こえてきて、堪えきれず笑ってしまう。まったく、ややこしいガキどもが。そう思った瞬間、お嬢ちゃんが「あなたは?」とシート越しに俺を振り返った。
「あなたはなにに擬態しているの、ハリエットさん」
寛窄巷子で降車すると、目の前には清潔に整備されたクラシカルな景観の横丁が広がっていた。ネットには屋台街とあったが、そのイメージをある意味で裏切っていると感じるのは、仮設の売台が並んでいる昔ながらのスタイルではなく、通りに面したオープンキッチンの店舗が並んでいるという、清潔感あふれる形態をしているからだろう。それら店舗の大半はガラスで往来と厨房が仕切られており、ウィンドウショッピングの楽しさだけでなく、衛生面の安心感も補ってくれている。客は店内のイートインか公共の屋外席を選ぶことできるらしく、眺めのよい屋外席は人気なのかその大半が埋まっていた。人の多さのぶんだけ食器やゴミを回収するロボットたちも忙しなく動き回っていて、大いに活気がある。
火柱の上がる中華鍋や、豪快な揚げ物を見てゾエとお嬢ちゃんが喜ぶのを、数歩後ろから眺めていると、傍らのラドレが「気をつけなよ。王はゾエがかなりお気に入りだから」と不穏なことを言う。それに「お前は気をつけているんだな?」と返せば、彼は「まあ……」と歯切れ悪くうつむいた。
「あの子は王に選ばれてる。僕と違って」
その声音に、本物の嫉妬を垣間見た気がして、その不機嫌な横顔を盗み見る。拗ねているようにも、切なくなっているようにも感じ取れるその眼差しの孕む深刻さについ笑ってしまったのは、そんなことは些事だというのが俺の主義だからだ。
「大事なのはお前がどう選択したかだろ。俺は、俺が選んでお嬢ちゃんを愛している。別に、選ばれなくてもいい」
「……キミって、めっちゃ素直にラブを押し出すよね」
「そりゃあ、自信があるからな。俺は俺の愛に」
後悔も別離も辛抱も幸福も、俺はもう全部やった。なにが大切でなにが些事かなんてある程度は把握している。それはこの男も同じであるはずなのに、どうして彼はこんなにも愛情の表出を恐れているのだろうか。口では「大好き」だの「愛してる」だのいくらでも吐き出して憚らないくせ、この男はどこか本音から逃げている。このままだときっと、大切なものをとりこぼしてしまうに違いないのに、彼はまるでそんなルートに微塵も踏み入っていないと自分自身に言いきかせているのか……常に、焦れている。このままだと負荷のかかった身体が先にダメになるんじゃないかと見ていて不安だが、肉体にはお嬢ちゃんの加護があるはずだ。であれば、近いうちに精神が駄目になりそうだ。しかし俺は無情にも、彼は一度駄目になったほうがいいんじゃないかと思ったりもする。休みたい奴を休ませるのは容易だが、そうでない場合に外野はどうしようもできないのだから。ひとりでがむしゃらに頑張り続けることは、けして善ではない。
「僕も愛には、自信、あるよ」
不意にラドレはそう言って、細く息を吐いた。可哀そうに、胃が痛そうだ。
「そうかい。俺もそう思うよ」
虚弱な面があるが、しかし嘘で愛しているだなんて言わない男だ。本質は、愛情深い。そんなことは、表面だけ見ていてもわかる。
「なんでそう思ってくれるの……僕なんて、見るからに軽薄で、頭ピンクで、バカなのに」
その鬱屈とした性格が、俺は大嫌いだ。でも、見捨てたいとは思っていない。立ち止まってその目を見れば、その菱形の瞳孔は左右に細かく振れていて、なんとも哀れで仕方なかった。
「……なんだよ、そんな目をするな。甘やかしてやろうか」
「どうやって?」
「ハグしてやろうか」
「……してほしい」
「いまここで?」
「いまここで」
バカが、と呟いて、彼の首を片腕で抱き込む。そしてもう片方の手でその頭を乱暴に掻き回せば、整髪料の香りなのか甘いタービュランスが巻き起こる。こんなに熱くなるまで頭を虐めて、こいつは本当にバカだ。
「おらおらおらおら」
「待って、ナデナデの掛け声がオラオラなことある?」
「あー、えーと、よちよちよちよち」
「それはそれでなんかヤだな!」
上がった笑い声に安心して、ぱっと腕を離せば、彼は手櫛で髪を整えながら「サンキュです」と照れたように目を伏せた。もっとはしゃいで喜びを表現したって今はなにも言わないのに、彼はぎゅっと手指を握ったり解いたりを繰り返して、うずうずとしたまま口を引き結んでいる。いつもなら自分のアピールポイントを主張して「僕って可愛い?」だとか「僕のこと好き?」などと、調子に乗った確認を挟んでくるはずなのに、よっぽど気が小さくなっているらしい。
「ゾエさんは、入社して何年だ?」
彼女たちを見失わないよう、再び歩き出しながらそう問うと、彼は「たぶん三年くらい」と答えながら、こちらを振り返ったお嬢ちゃんに向かって手を振った。ずっと監視任務に就いていた俺はそのことを既に把握していたが、ラドレと会話を続けるために敢えて訊く。
「言ってしまえばまだペーペーじゃないか。お前はお嬢ちゃんとずっと一緒にいるのになにがそんなに怖いんだ」
「それは……キミだってそうじゃん。ゾエよりも出会って日が浅いのに爆速で王と距離詰めちゃってさあ」
いじけてかわいこぶって頬を膨らます、その全然可愛くない男は、俺の肩に腕を回して「がう」と歯を鳴らした。やっといつも通りのウザさになってくれたかと、彼の歯並びの良さそうな顎を手で押し退け、
「俺はお前とも爆速で距離を縮めたが?」
と言ってやる。するとラドレはきょとんと目を丸くして、「あれ、ホントだ」と初めて気がついたかのようなことを言った。それからぱっと顔色を明るくして、
「でもまだセックスしてないね?」と妙に楽しそうに俺の顎に触れるので、今度は力を込めてその手を叩き落した。
「まだってなんだよ。しないぞ」
「なんで? したくない?」
「したくないに決まってんだろボケが」
「あ、どちらともいえない?」
「なんでしたくなくないみたいな方向に持って行こうとするんだよ」
コイツには、すぐに身体を差し出そうとする癖がある。どうやらそれ自体を低コストかつ迅速に提供できるコンビニエントな売り物だとでも思い込んでいるみたいだが、それは大間違いだ。お嬢ちゃんも合理主義ゆえにその傾向があるが、自分の感情も含めて不合理と判断した場合には断ったり拒絶したりするタイプである。しかしコイツの場合は、自分自身を経費計上していない。帳簿の上に数字が乗らなければそれはなかったのと同じだという意識なのだろう。しかし、身体というものは減るのだ。
「寝なくてもそれで嫌いにならないし、助けないわけでもない。まあ、寝たところで好きになるわけでもないが……変わらないから。俺のことは怖いか?」
言い聞かせるように、俺はその纏わりついてくる手を払い落とし続ける。そのめげないところが嫌いだ。そのめげないところが好きなのに。この男は自分の価値を見誤ってばかりで、なかなかそれが治らないから、俺は見ていて不愉快に思う。ずっと、ずっと。
「……ちょっと怖い」
「そうか」
「でも、前よりは怖くない」
「そうか。でも俺は、お前と寝てないし、寝ようとも思ってないよな」
「ホントーお?」
「ホントに決まってんだろ。そろそろ殴るぞ」
「殴ってもいいよ」
「お前なあ……セックスは便利ツールじゃないし、そのぶらさげてるモンは魔法のステッキでもなんでもないし、それが全生命にとってそうだということを知れ。寝ても寝なくてもお前は助かるし、助からないこともある。なんでもないものなんだよ。だからこそ、嫌なら嫌って言わないと、お前が嫌だったことがなかったことになる。それは俺も、嫌だよ」
意思表示を成せなければ、個人の想いなんてなかったことと同じだ。彼が誤魔化す肉体のコストと同じように。俺は痛いくらいにそれを実感し続けていて、だからこそ常に彼に対して苛立つのだ。努力しなかったわけじゃない。血を吐かなかったわけじゃない。俺は常に全身全霊だった。それでも俺の叫びは存在の証明に足りなかった。そして俺はそのせいで、あの子を失った。この男は至りたいと願った場所に届いたというのに、俺には無理だったのだ。この苛立ちは劣等感だ。この殺意は憧れだ。俺はお前が嫌いだ。お前は恵まれていると、彼に指を突きつけて責め立てたい。俺にないものをいくらでも持っているこの男を、とにかくなんでもいいから非難したい。そう黒々とした感情が湧き立つそのたび……「いなかった!」とあの子が泣いて俺を責める。俺の胸の中で、ずっと、ずうっと、泣いている。俺はいなかった。
「ごっ、ごめん。そんな顔をさせたいわけじゃなかったんだ。ごめん、ごめんね?」
唐突にラドレが俺の腕を掴んで顔を覗き込んできたので、近くのショーウィンドウに視線を向ける。そこにはなにもかもを喪ったとでも言いたげな、ただただ情けない男の顔があった。
「でもそんな顔するってことは、僕のことがそれだけ好きってことだよね……うんうん、真剣に考えないと。僕、挙式はタヒチがいいかも」
作った真面目顔でそう頷くラドレの肩を、拳で殴る。まったく、顔色を窺う癖がいつまでたっても抜けない男だ。その気遣いに乗って、「馬鹿野郎、モルディブだ」と吐き捨てれば、彼は「やっぱリゾ婚だよね、ダーリン」と俺の腕に腕を絡めて纏わりついてくる。
「リゾ婚、承知。費用はわたくしが負担しますので、ハオチな料理のプランをお願いします。よくよく練るように」
ふとこちらに向けられているであろう声がして前方を見ると、お嬢ちゃんが屋外のテーブル席に席取り札を置いてこちらを振り返ったところだった。その地獄耳による提案に、事態を把握しきれていないらしいゾエがぎょっとした表情で俺とラドレを見ている。これはまずい。上海の二の舞になる。
「え、ちょっと待ってください陛下。そういう、ことなんですか?」
「ふっふっふ。なんとこのラドレちゃん、本妻から彼を略奪したいい根性の間女なのです。このあいだは冷蔵庫を買わせていました」
百パーセント、虚偽。しかしどう言い訳すべきか頭が回らず、俺は青い顔で固まるほかない。かろうじてラドレの腕を振りほどきはしたものの、彼が「見捨てないで」と小声で訴えてくるので、再び絡んできたその太く可愛くない腕を拒絶できない。
「ちょっと待ってください、冷蔵庫……? 白物家電を買わせるのはパパ活女子の常套手段ですよ。敢えてブランドものではなく生活必需品を買わせることで懐柔しようという策です。どっちも高いのに。……そのうち引っ越し費用まで払わせてきますよ! 引っ越したら関係をチョッキン! 危険です!」
なんというか、ゾエもそういうタイプらしい。安心していいのか悪いのかの判別がつかないのは、彼女もまた迫真の演技をしているからだ。これはまごうことなき潜入捜査向きの人材。うちにも欲しいくらいだ。
「なっ、それはほんとうですか! あぶない、もうすこしでこのカミナリのオヤジ、だまされるところでした。ありがとうゾエ」
お嬢ちゃんはゾエの手を取って、真剣な顔でこちらを振り返る。キッと警戒心に満ちた眼差しが刺さったのか、隣から死にかけのパーティーホーンのようにひゅろひゅろとした口笛が聞こえてくるので、俺もそれを真似てみれば、意図せずぴゅうと張った音が出た。ラドレが俺の肩を引っぱたく。
「む。余裕の態度。自信があるのですね。わかりました。つまり、過去は消せないがこれからの俺たちを見てくれということ……よし、かかってきなさい。お食事会でその真偽、見抜いてみせましょう。さあ、料理を選ぼうぞ! 我が妻はあのお店が気になるみたい!」
お嬢ちゃんは芝居がかった口調でそう言うと、席からさほど離れていない店を指さした。名前は『兄弟干鍋』……字面そのまま干鍋の店なのだろう。これは比較的歴史の浅い四川グルメで、意味は汁気の少ない炒め鍋だ。
「お、いいな。メインの食材が選べるはずだから、見てくるといい」
すると、お嬢ちゃんは「妻……」と呟き照れていたゾエの手を取って、「きゃー!」と喜んだ様子で店に突撃していった。その背中をゆっくりと追いながら、「妻……」とゾエと同じ単語で落ち込んでいるラドレの肩を叩く。「そんなに落ち込むなマイワイフ。ごっこ遊びだ」「遊びとはいえ私たち、道ならぬ恋なんでしょ、ダーリン……切ないわ」「大丈夫だ、きっと説得できる。それに、あんなに楽しそうにしているお嬢ちゃんは滅多に見れないんだから、今日くらい脇役に甘んじろ。お前、あのふたりが一緒にいるところ、そんなに見てきてないだろ。敵を知ると思って、な?」……あのふたりが一緒にいたのは、主にコイツが留守にしているときだったはずだ。これには励ましというより煽りに近いニュアンスもあったが、それでラドレは納得してくれたらしい。
「部下が休日をエンジョイしようとしてるんだしね。ちょっとは大人っぽいとこ見せないと」と頷いて、ふたりのあとを追う。
なんだ、ちゃんとそういう真っ当な理由も用意できるじゃないか……そう声にしたかったが、ただの挑発と捉えられても仕方がないので、話題を変える。
「そうだ。よし、お前はメイン食材、なににする?」
彼の背を押し、店のメニュー看板の前に誘導すれば、予想通りにベースとなる味付けの鍋に好みのメイン食材を選んで投入するというシステムだということが確認できた。店舗のオープンキッチンには自動調理の中華鍋が何台も並び、なんとも鮮やかに注文を捌いている。ガラスの仕切りに張り付いたお嬢ちゃんとゾエは、その無人の劇団のパフォーマンスに魅入っているようだった。
「へえ、どれも美味しそうだね。迷っちゃうな」
「四川ならでは、ならウサギだな」
「うーん、気になるけどカエルも食べたい」
「じゃあ分けるか? 俺がウサギにする」
「優しいじゃーん。カエル、あーんしてあげるね」
俺とラドレの注文は決まったので、鍋から上がった火柱にきゃあきゃあと喜んでいるふたりに近寄っていくと、こちらに気づいたお嬢ちゃんが傍にやってきて、俺の耳元で「唐辛子のマーク、いっぱいついてます」と囁き、困ったようにメニュー表を指さした。干鍋は激辛料理としても人気がある。表示だけでなく見るからに辛いと警戒色を発しているそれらを恐れる反面、可愛い部下にその危惧を悟られたくないのだろう。いじらしくて可愛いが、それを態度に出すわけにはいかないので、俺はただ「わかった。任せてくれ」と頷いて、ふたりの注文を聞くと、受付へと向かった。
俺とラドレ、それからゾエが麻辣干鍋。お嬢ちゃんのぶんは香辣干鍋にした。麻辣は広く知れ渡っている通り、花椒のシビ辛さが特徴だが、香辣は香りを重視したじんわりとした辛さをしていて、びっくりするようなものではない。以前ラドレから聞いた、お嬢ちゃんが辛いものを避けるようになったというエピソードと、お嬢ちゃんが辛さを「怖い」と言っていたことからして、恐らく問題は辛さそのものにあるのではなく、その鋭さや舌に伝わるまでのラグにあるのだろう。びっくりすることが苦手なのはヤギらしいというか、なんというか。
「うん。美味しい。美味しいですね、陛下」
撮影タイムを挟んだあと、ゾエは真っ赤に染まった牛ホルモンを口に運んでぱっと目を輝かせた。すかさず傍らのお嬢ちゃんの顔を覗き込んで、笑顔を向けるその仕草から、いつもこうやってお嬢ちゃんに向き合った接し方をしていることが窺えて、見ているこちらも嬉しくなる。
「え、ああ、それはなによりです。慧眼ですね、ゾエ」
しかしお嬢ちゃんは麻辣よりは辛そうな見た目をしていない自分の鍋を前に、それでも躊躇う素振りをみせていた。しばらくは定食セットの小鉢……酸辣土豆絲(じゃがいもの細切り炒めだ)ばかりを食べていたが、意を決した様子で干鍋に手をつけた途端、
「む。ハオチーですね……」
と、どこか怪訝そうに目をぱちくりとさせる。よし、とテーブルの下でガッツポーズをする俺の向かいの席で、たちまち笑顔になった彼女がスペアリブを齧ってこちらにウインクするのに撃ち抜かれていると、ラドレが「はい、あーん」と俺の肩を叩いて水を差してきた。一瞬イラっときたものの、その箸の先にあるのが骨を取り除いたカエルの身肉であったので、その気遣いに大人しく口を開く。
「なんかずっとイチャついてませんか、このふたり」
ゾエが冷ややかな視線を向けてくるなかそれを噛みしめると、想像通りに鶏肉っぽく、お前も『骨さえなければ族』なんだよなあ……と思わなくもない。下揚げされてはいるがその身肉の瑞々しさは損なわれておらず、コラーゲンのつるんとした食感がしっかり残っている。蛋白でどの味も邪魔しないから、複雑な味付けの麻辣ダレが絡んで美味い。
「美味しい? ダーリン」
「美味いよ、ハニー」
棒読みで答えながら、俺のウサギ肉も『あーん』と食わせてやる。するとラドレは「お、ウサギ臭くない」と嬉しそうだ。それを確認しようと、俺も卓上鍋の中から野菜と一緒にひと切れ拾って口に運ぶ。こちらも鶏肉のような触感で、部位で言えばささ身に近い。普通は独特のウサギ臭さが残るものなのだが、処理が適切であることと下揚げの衣が厚めであることも手伝って、ほぼフライドチキンだ。ざくりとした食感の衣に麻辣と大豆味噌ベースの干鍋醤が染みて、そこにふわりと軽くクミンが香り、味わいの底のほうには五香粉の薬膳っぽさと熱も感じられる。これは酒よりも飯だ。強めの味のおかげで、野菜も美味い。エリンギにタマネギ、それからシシトウ、レンコン……他には湯葉も入っていて、食感に飽きがこない。
「ゾエは中国料理に抵抗がないみたいだね」
ラドレの言葉には、『本場の』そして『箱中華的な味じゃない』という表現が隠れているようだ。それを明敏に察したらしいゾエは「ああ、実家がヨコハマなんです」と言って、それから「知ってますか?」と手のひらを彼に向けた。それにラドレが「名前だけ、かな……」と尻すぼみに答えたのを横目で見ていると、今度は俺のほうに指先が向いた。
「俺は任務で行ったことがある。あそこには東アジア最大のチャイナタウンがあるよな。よく遊びに行ったのか?」
「ええ。高校生の頃、友人とよく遊びに行きました。日本人向けの味付けの店ももちろん多いですが、本場の味もちゃんとあるんですよ。日本語が通じなかったりして、頑張って英語でコミュニケーションを取ったりもしました。だからそんなに抵抗というか、恐れるものはないという感じですね。どういう要素を美味しいとするのかは国によって違いますし、みんな、ご飯は美味しく作りたいと思っているわけで、そこに悪意はないから」
懐かしむような眼差しでそう語る彼女の言葉に感心していると、ラドレが「高校生だって」と俺の肩をつつく。「ついこのあいだまで女子高生だって」……やけに小声だ。「そらそうだろ二十六だぞ」……俺もつられて小声になる。「女子高生っていいよね」「なにがだよ。変態か?」「いや、性的にどうこうではなく響きがフレッシュすぎてワッてする」「なんだよワッて」……こそこそと耳語をする俺たちに、彼女はまたじっとりとした視線を向けてくる。若者に軽蔑されてはジジイとして終わりだ。校門前で小型犬と一緒にスタンバイしている変態と同じ括りには放り込まれたくなくて、「ヨコハマという名のカクテルが美味かった記憶がある」と取り繕えば、「わあ、大人だ……!」とゾエは意外にも興味津々な素振りで身を乗り出してくる。変態ジジイの括りに取り残されたままのラドレが焦った様子で「ほおん、ヨコハマ、ヨコハマね……」と、おそらくスマートグラスで検索を始めているのを一笑に付して、「やっぱりシーガーディアンですか?」と目を輝かせているゾエに「そうだな」と低めの声で頷いて返した。よし、これでカッコいい大人のお兄さん枠はお嬢ちゃん部門とゾエさん部門で総舐めだ……と思っていたのも束の間、ゾエが、
「あんな素敵な場所にひとりってわけじゃないですよね。恋人さんとですか? あ、元、かもですが」
と思わぬ質問をぶっこんで来たので俺は米を吹きそうになった。可笑しく思うことを指すわけではない、マジの噴飯に噎せ込んでいると、ラドレが「誰なのおー?」と俺に裏切りの銃口を向けてくる。
「いや……そういう色恋要素は一切ないんだ」
「え、じゃあ盗聴とか、なにかの受け渡しとか、そういうカッコいいやつですか?」
「ゾエさんは俺のことをなんだと……いや、ただの弟。任務終わりに飲んだだけで、期待を裏切って申し訳ないが全くロマンチックじゃあ……」
「満身創痍で乾杯とかいうカッコいいブラザーシップですか?」
「む……? ハリエットさん、弟がいるのですか?」
「その弟って隠語とかじゃないの? 愛人の連絡先を職場の人の名前で登録するやつの亜種みたいな」
一斉にぶつけられるクエスチョンに、急性の頭痛と眩暈を感じる。しかしそのすべてに対し、「そうだ」とも「そうじゃない」とも答えられず、ほとほと困り果てて俺は両手を挙げた。待ってくれ、という意味だが、降参と取られても仕方ない。すると、質問の渋滞を察したお嬢ちゃんとゾエが同時に引き下がる素振りをみせてくれたにもかかわらず、ラドレだけが「写真見せなさいよ!」と徹底して追及の構えをみせる。空気読めよ、と声を上げようとしたその瞬間、テーブルに置いていたスマホが震えた。見るとポップアップには『翠雨さんが画像を送信しました』と書いてある。次いで、『ランチ行ってきたよ(ハートマーク)』と表示が切り替わり、俺は思わず舌打ちをした。コイツもコイツでタイミングが悪すぎる。あと、俺にハートマークを送るな。誤解されるだろうが……俺が僅かに動揺したのを目敏く見抜いて、ラドレは「誰よ、オンナ?」と脚を組みスマホを指さした。
「女じゃねえ」
事実を口にしたが、お嬢ちゃんが心なしかしょんぼりとしているので「あ、いや、ほんとに違うんだ」と言い訳めいたトーンの声を発してしまう。それにゾエが「ふむ。怪しいですね」と再度軽蔑の眼差しになり、ラドレは懲りずに「スマホ見てもいいって言ったわよね」と詰めてくる。リアル四面楚歌だ。幾度となく四方を敵に囲まれても生き残ってきた俺だが、今回ばかりは輔星がよく見えた。
「……言い訳は、しない。でもふたつばかり事実を述べさせてくれ。そうしたら見ていいから」
俺の歎願に、俺ではなくお嬢ちゃんに視線が集まる。俺も彼女を見つめた。信じてくれ、と。
「お話したいことがあるならそうすればいいと思います」
う、と短い呻きが漏れたのは、その言葉に滲んでいたのが信頼ではなく諦念だったからだ。女がいても仕方がないなんて思ってほしくない。俺は極めて一途だし、そもそも他所に発揮する性欲そのものがない。……しかし今ここで求められているのは、俺のセクシャリティの話ではなく事実のみだ。歯を食いしばって屈辱に耐え、言葉を選ぶ。
「……ラドレにはさっき説明したが、俺には弟がいて、でもそれは血縁ではない。同輩が近いニュアンスだが、前回お嬢ちゃんが言ったように、どう『定義』するかによると思う。だから家族の有無を訊かれたときに、カウントに入れていなかった。訊かれているのは血縁の有無だと思ったからだ」
「それが事実のひとつめということですね」お嬢ちゃんはそう言って、鍋の中の野菜を端に寄せ始めた。「では次をどうぞ」
「……さっきのはその弟からのメッセージだ。自撮りか他撮りかは知らんが、写真が添付されてるはずだ。見てもいい。でも信じてくれ、男なんだ。男で、弟なんだ。マジだ。ついてるんだ!」
その瞬間、ラドレが俺のスマホを手に取った。彼は俺の指で無理矢理に指紋認証をして、メッセージを開封する。俺は事実しか言っていないが、もうこれから先は気弱に祈るしかない。どうして俺の弟は見た目が女なんだ。それは服装やメイクのことではなく、純粋に骨格の話で、ハニートラップなんかを専門にできるほどのクオリティだからこそ俺は今窮地に立たされている。案の定「え、どういうこと?」とラドレが困惑した様子でこちらに視線を向けてきた。
「逆になんかそういう性癖? なんか、倒錯した感じの」
「そのツッコミ、奇をてらってないぞ。何度も何度もされているからな……俺からはもう『弟だ』としか言えない。でも愚痴が許されるのなら、俺はコイツのせいでだいぶ迷惑を被ってきた。別に美人だろうと生意気だろうと構いやしないが、生意気な美人ってだけでアホほどトラブルを引き寄せるんだ」
お嬢ちゃんにスマホを渡しながら、ラドレは「……マジなの?」と神妙な面持ちで問うてくる。写真を見たゾエも「どういうこと?」と呟いた。いつもこうだ。「嘘だ」とか「女だろ」ではなく「どういうこと?」という混乱を齎すのがあの男だ。しかしその混沌の沈黙のなか、お嬢ちゃんだけが「ああ、なるほど」と呟いて、笑顔になった。
「かわゆいですね、弟さん」
ああ、やっぱりお嬢ちゃんは理解してくれるのだ。流石は千里眼めいた観察眼の持ち主である。ラドレとゾエも、彼女の反応のおかげで「そういうものなのか……?」となんとなく納得した様子でいるのも心強い。降って湧いたような解放感と、それに伴う喜びでぐったりと脱力していると、お嬢ちゃんは続けた。
「ところで、彼はフリーですか? 求婚しても?」
絶句する俺の手元に戻ってきたスマホの中で、翠雨が切り分けられる前のダックを目の前に妖しい笑みを浮かべている。
「元気出してこ、哥哥」
食器を返却口に持って行く最中、ラドレはそう言って俺の背中を叩いた。しかしその励ましのあとに「でも、僕のこと見捨てようとするからこうなったんだよ」とヤンデレっぽいことを言うので、その脇腹に肘鉄砲を入れる。お前のせいだと言ってもよかったし、それを求められていることを察してもいたが、誰のせいでもないことは重々承知しているから何も言えない。行き場のない感情に、もう何度目かもわからぬ溜め息を吐けば、虚しさだけが俺になつっこく纏わりついて、もう存分に構ってやったはずなのに、なかなか離れない。
そんな俺の背後で、荷物を見るために席に残ったゾエのぶんの食器も手にしているお嬢ちゃんが、
「あら、大丈夫ですよハリエットさん。もう弟さんを狙ったりしません。ヒキギワ、だいじ……元気出してこ!」
と、なにもかも的外れなことを言って笑う。確かに俺は「弟には心に決めた相手が」と言い訳をしたが、汲み取ってほしかったのはそこではない。俺はお嬢ちゃんへの愛を証明したかったのだ。なのに盛大に空振り三振。ベンチではなくそのまま家に帰りたいくらいの、消えてなくなりたいタイプの悔しさだけが残っている。
「今なら僕の気持ち、わかる?」
食器を返却棚に押し込みながら、ラドレは言った。
「この、手ごたえがない感じ」
お嬢ちゃんからも食器を受け取って「お片付けして偉いね」と褒めながらも、ちらりとこちらを向いた彼の眼差しは俺に同情している。僕たちが相手にしているのはこういう存在だぞと、その黄昏の色をした睛に畏怖すら滲ませて、彼は自嘲気味に微笑んだ。正直に「わかるよ」と答えながら、鼻歌をうたうお嬢ちゃんに視線を向けるが、本当になにも返ってこない。視線も吐息も微笑みも。少し前まで俺のことを好きみたいに見つめてはにかんでくれたのに、ここ最近はそれがない。
「あのさあ、僕はキミのことが好きだから共有しとくね」
席に戻る途中、ラドレは妙に不安げな声音でそう切り出してきた。なにか自分の中で必死に繕っているような雰囲気を察して、黙って待っていると、彼は売店の高いところから吊られたカラフルな菓子を立ち止まって眺めているお嬢ちゃんの背中に、「買ってあげるから好きなの選んで!」と呼びかけてから、意を決したように短く息を吸って、続ける。
「……キミに、ウォーエーノンって言われたあと、王はなんだかすごく、傷ついてるみたいだった」
ラドレは、なぜか苦しそうだった。お嬢ちゃんのことなのに。俺のことなのに。
「王は、つめたいよ。優しいけど、ぜんぜんつめたいところがある。そんなの知ってたし、あのときの王も、真に受けてないみたいなことを言って……僕は正直、またかって思った。でも、なんか……痛そうだったんだ。よくわかんないけど……」
「……そうか」
「ごめん、キミのこと傷つけたいわけじゃないんだけど。なんか、それがすごく、抱えきれなくて……ごめん、共有とか言って、自分が楽になりたかっただけだね、ごめんね……」
「わかってる。大丈夫だ。傷つきはしたが」
でもそれでわかったことがある。だからこの新しい傷は無駄じゃない。そう言い聞かせているのに、胸のあたりが、背中まで突き抜けるほど痛い。
お嬢ちゃんが「やっぱりいらないです」と笑顔で売店から戻ってくる。そのまま、ぱたぱたとゾエの元へ駆けていってしまう背中を眺めながら、俺はどこかで嬉しいと思ってしまっていた。彼女が俺のことで傷つくなら、それは俺にとって幸せなことなのだ。だから、もっともっと傷つけてやろうと思う。暴力的な好意を嫌っていたくせ、それをしてしまうのが俺なのだ。もしかすると、こうしてでしか、俺は自身の存在を証明できないのかもしれない。
「あの、ハグする?」
その優しさゆえにおろおろとしていたラドレが、黙り込んでいる俺に対してそう提案してきた瞬間、「やめて!」とゾエの悲鳴が響いた。咄嗟に声のしたほうを見れば、ゾエの手からキャリーケースを引ったくった男が逃げるところで、誰よりも先にお嬢ちゃんが「ゾエ!」とその名を叫んでいた。ラドレを振り返る。頷きがひとつ。瞬時に二手に分かれて男を追う。ゾエはお嬢ちゃんに任せておけばいい。これは肉体の性差ではなく、キャリーケースを血塗れにしないという観点での適材適所である。
ラドレがメインストリートを追うのに対し、俺は建物の屋根に登って男と併走することにした。本物の古代建築の上を走るのは正直気が引けるが、瓦や装飾を割ってしまわないように細心の注意を払い、男からも意識を逸らさないようにして、ひた走る。このまま自分の脚で逃げるつもりなら入り組んだ道へと逸れるか、人混みに紛れられるような場所を目指すはずだ。男は上から観察してみた限り、恐らく人間。ゾエが大事そうに常にキャリーを引いていたので、かなりの貴重品と踏んだとか、そういう魂胆だろう。であれば計画的なものではなく、突発的な犯行である可能性が高い。しかし考えなしでもないはずで、ともするとこの先に逃げ込むのに有利な場所があるのか。……分析する俺を他所に、いや、わかっていてラドレは大げさに「引ったくり! 最低! 変態! 女子高生に手を出すな!」と叫びながら男を追い込んでいく。ゾエが女子高生だったのは数年前だろうが、と思わなくもないが、ひったくり犯のキモさが増すので放っておくことにして、俺は引き続き周囲の状況を把握しようと意識を研ぎ済ませる。視認できる範囲には、この先も細かい町筋が続いているようだ。そろそろどこかで曲がるなりしそうではあるのだが……。
「はあはあ、疲れたよーう」
微塵もそう思っていないであろう軽快な歩幅で、ラドレは叫ぶ。重たいキャリーを手にした男は、天を仰いで疲弊した息を吸うが、絶望した表情ではなく勝ち誇った様子だ。その瞬間、ふと生臭さが鼻を掠めたので、その感覚を手繰り寄せる。魚介類、肉、香辛料、野菜に菓子……? なるほど、市場が近い。
ラドレに左だ、とサインを出すと、俺は加速して一足早くその生鮮市場に飛び込んだ。わかってはいたが営業中のその市場を進み、なんとなくこっちだろうなと商品の搬入口で待機する。ここなら今の時間に人はやってこないはずだ。
少ししてばたばたと足音がする。その更に後ろで「あっ、お疲れ様ですう」と甘い声がするのは、ラドレが市場関係者に魅了能力を使ったからだろう。きっとこれで人払いは済んだ。待ち受ける。脚を踏ん張り、腰を据えて、腕を水平に持ち上げる。そして、搬入口に飛び込んできた男に、渾身の……八割減ほどの力で、ラリアットを喰らわせた。びたん、と大きな音を立てて男は仰向けに倒れ込む。その際に後頭部を激しく打った音がしたが、自業自得だ。
「ナイスー!」
サムズアップをして駆け込んできたラドレと拳を突き合わせて、その気絶しているであろう男の手からゾエのキャリーケースを取り上げて状態を確認する。ざっと見てみた限り傷はないが、中身が割れ物だったらわからない。
「あはは、痛そう」
ラドレが笑いながらつま先で男を転がして、雑に生死を確認している。男は鼻と後頭部から出血しているが、命に別状はないだろう。
「どうする? 警察?」
「いや、多分だがこの中には武器が入っている。今のうちに抜いてもいいが、レディの荷物を改めたくはない」
「いいね、ジェントルマンだね。じゃあ拷問もナシか。つまんないの」
「そうだ。俺たちはカッコいい大人のお兄さんだからな。拷問なんてしない」
なにそれ、と鼻で笑うと、ラドレは男を壁を背にするようにして座らせた。鼻血で窒息しないようにしたのだろう。それからスマホを取り出すと、男の血塗れの顔を写真に収めて、お嬢ちゃんに送ったようだった。するとすぐに着信があり、「取り返したよ。え、殺してないって……大丈夫だよ。すぐ戻るね」と短く応答したラドレが、「へへ、僕たちグッドボーイだってさ」と笑顔になる。その言葉ではなく、彼の嬉しそうな顔に俺の胸まで華やいだような気がして、それを不可解に思う。こんなの、俺らしくない。そんな気持ちを払拭するために、いつも通りにフンを鼻を鳴らして、俺はキャリーケースを彼に突き出した。
「お前の手柄にしろよ、社長。部下と仲良くしろ」
俺の言葉に、ラドレは途端に不機嫌そうな眼差しになって「バーカ」と吐き捨てると、それから笑顔に戻って言った。
「ふたりの手柄でしょ。うちではそういう個人主義、許してないんで」
戻ると、ゾエは泣いていた。しかし彼女が「泣いてません」と訴えて詰まったように唸っているので、泣いていないのだろう。
「泣いてないならはやく中身確認して。貴重品が入ってるんでしょ」
相変わらずの口調でいるラドレの頬をつねりながら、俺も「大切なものならそうすべきだ」と彼女に確認を促す。「今なら拷問しに戻れるから」
「おい、カッコいい大人のお兄さんはそういうことしないんだろー」
「緩急が大事なんだ。自分からはやらないが、求められればやる。なぜならそのほうがカッコいいからだ」
「うざ。先回りして全部終わらせたほうがカッコよくない?」
手柄の譲り合いも奪い合いもしないが、その代わりにどちらが格好良かったかについてふたりで争っていると、荷物の無事を確認していたゾエが「大丈夫でした」と言って、ひぐ、としゃくりあげた。その声があんまりにも切実なので、
「そんなに大切なものだったのか。だから自分で守ろうとしたんだな」
と声をかけると、とうとう彼女は「今から泣きます」と、既に涙でぐちゃぐちゃになっている顔で宣言して、その通りひんひんと声を上げ始めたが、今から泣くと言っていたのでたった今泣き始めたところなのだろう。その頭を撫でてやりたかったが、俺はカッコいい大人のお兄さんなのでそんなことはしない。そういう慰めはお嬢ちゃんに任せることにして、ラドレと無言のまま脚を踏み合うという原始的かつ幼稚な喧嘩をしていると、俺が渡したティッシュで洟をかんだゾエが「陛下」とお嬢ちゃんを呼んだ。
「はい、なんでしょう。泣いてませんちゃん」
その言葉に、俺たちを待つあいだゾエがずっと「泣いてません」と主張していたことが窺えて、笑いを噛み殺す。まだまだ子どもだ。
「こっ、これっ、お誕生日、プレゼントです……」
ゾエはそう言うと、細かく何度もしゃくりあげながら無事を確認したばかりのそれをお嬢ちゃんに手渡した。
「お誕生日おめでとうございま、ございました……」
なるほど。大切なものとはこれのことだったのか。今月のはじめに誕生日を迎えたお嬢ちゃんがその青い小箱を開けると、中には腕時計が入っていた。華奢なデザインのそれは文字盤が目も覚めるような青色をしていて、お嬢ちゃんの白さによく似合いそうだ。
「まあ……ありがとう、ゾエ。うれしい……」
お嬢ちゃんはそう言って、それからふっと黙り込んだ。その沈黙が冷淡さの表出ではなく、幸せを噛み締めることで発生するうつくしいものであることを、ゾエはきっと理解している。そして「時計……」と小さな声で漏らしたラドレも、それを贈る意味について知らないはずがない。ここは負けだぞ、と彼の肩を叩き、無言で撫で回してみるが、彼の背筋はぴくぴくと震えていて、しかしそれ以上の感情は表に出さないよう努めているのか強張った真顔でいる。あとで飲みに誘ってやるか、と思っていると、もう一度洟をかんだゾエが口を開いた。
「あの、こっちは、社長への誕生日プレゼントです……遅くなっ、遅く、なりま……」
語尾が危うい彼女から差し出された箱を、ラドレは「え、え?」と酷く狼狽した様子で受け取る。中を見ればお嬢ちゃんとお揃いのデザインの腕時計が入っていて、ラドレはもうこれ以上なにも隠せなくなったのか「えああああ?」と素っ頓狂な声を上げた。「えああなこたないだろ」「だって……」「礼を言えよ、まずは」
「えっと、ありがとう、ゾエ……嬉しいよ」
すると彼女は「どういたしまして」といくらか持ち直したらしい声で頷くと、それから「作るのに時間がかかりまして」と恥ずかしそうに言い訳をした。
「そんな……気にしないって。はは、僕さあ、王とお揃いのもの買うの、なんかずっと、できなくて……周りの反応とか、気持ちとか、色々あって、オマケに度胸もないしで。でもこのあいだハリエットと王がそれぞれ三人お揃いのものを用意してくれて、すごく、嬉しかったんだけど……もしかしたら僕は『ふたり』のお揃いのものをずっと買えない、手に入れられないままなんじゃないかって、なんか怖かったんだ。だから、ありがとう、ゾエ。僕の中のジンクスを破ってくれて。勇気、出たよ」
そうしてラドレは、仲間としてゾエをハグしにいった。その抱擁を受けたゾエが「硬い」と再び泣きながら訴えるものだから、そりゃ女性体よりだいぶ硬かろうとひとり笑っていると、お嬢ちゃんが俺に「つけてください」と時計を差し出してきた。一瞬、俺がつけるべきじゃないと怯んだが、やっぱり俺がつけてもいいはずだと思い直して、その細い手首に時計を巻き付ける。その最中、ついつい漏れた「ふたりのお揃い、か」という言葉を、お嬢ちゃんは聞き逃さなかったらしい。「あら、期待していますよ」と笑って、屈んだ俺の頬にキスをしてくれた。これでさっきからずっと感じていた胸の痛みが……消えるはずもないが、じわりと湧く愛おしさに、やっぱりこれでいいのだと確信する。その手を取って指先にキスを返すと、彼女は一瞬、俺のことが好きみたいな目をした。
泣き腫らした目で人前に出るのが許せないと言って、ゾエは宿に着いた途端に部屋に引き籠ってしまった。ぴしゃりと閉じられてしまったドアの前で、真面目というか頑固だな、とラドレと顔を見合わせていると、お嬢ちゃんが「ゾエ、わたくしにそばにいさせて。触りたいのでしょう色々と」とノックを繰り返す。すると、あっさりとロックが解除され、お嬢ちゃんは「ではでは」と笑って部屋の中に消えた。
残された男ふたりでエレベーターホールを挟んだ向こう側の三人部屋に入り、それぞれ無言で荷解きをしていると、耐え切れなくなったのかラドレが「セックスしてると思う?」とデカめの声を上げた。その疑問には答えず、
「混ざりたいと思ったのなら、残念ながらお前を処分せざるを得ない」
とだけ口にする。
「いや、挟まりたくはないんだけど……僕さあ、王とゾエがどういう関係なのか知らないんだよね。キミと王がセックスしたって知ったとき、僕は心底殺したいと思ったけど、ゾエに対してはずっと宙ぶらりんの気持ちだったというか。だからその……知ってます? ストーカーさん」
要は「見たことがあるか?」と訊きたいのだろう。彼らのプライバシーを侵害している自覚のある俺は、正直に、
「知らん。家の中や密室の中までは見られないからな」と答える。「お前みたいにカーテンを開けたままするような相手なら話は別だが、残念ながらそういうことは一度もなかった」
俺の仕事は、彼らの生活の仔細を明らかにすることではなく、彼らが無事でいるかどうかを見守る程度のものだ。だから滅多なことでもない限りは鮮明な映像である必要もないし、基本的には音声も不要だ。普段はSGJのバーチャルアシスタントが監視してくれているから大きな不安もなく、俺は他の仕事に打ち込んでいられる。しかしアシスタントがわざわざ『おっぱじめてますよ』とは報告してくれないので、俺は何度かモニター越しに彼らの情事に鉢合わせたことがあった。
「え、じゃあ初めて僕と王がイチャついてるのを目の当たりにしたとき、どう思ったの」
「正直、死ね、と思いました」
あのときの憤りは今も新鮮に覚えてはいるが、言葉が乱暴にならないよう、丁寧に答える。俺はジェントルマンだ。
「ムラムラした?」
「しませんね。百の殺意です」
「敬語で言うなし……そのときの体位は?」
「立ちバックだったと記憶しています」
「覚えてるなよ。むっつりスケベが」
非難されても、俺はあのときの俺の殺意を尊重する。ショックで俺はそのあと数日間に渡って寝込んだのだ。傷病以外で寝込むなんて初めての経験だった。あと、どっぷりと深酒もした。
「契約してるならヤッてて当然とか言ってたの、見栄だったの?」
「そういう心構えでいるのと、実際に目撃するのは別問題だろ。その姿勢のまま殺意を抱くこともできるし、殺意を抱きながらもエロいなと思うこともできる。それが人だ」
「人間賛歌みたいに締めるなって」
そんな会話をしながら部屋で待機を続けるが、一向にお嬢ちゃんは戻ってこない。これはマジのアレなのだろうか……とふたりしかいない室内で、なぜかアイコンタクトだけで意思疎通。ラドレの顔がどんどん青くなるその過程を内心愉快に思っていると、彼はとうとう「あのう、気分転換に行かない?」と音を上げた。
「なんだ、辛抱強くないな」
「根性と辛抱強さって違うからね……僕のは根性……火事場の馬鹿力……」
「まあ、今は火事は起きてないからな。よし、俺たちだけで買い出しに行くぞ」
ベッドの上でうつ伏せになって落ち込んでいる彼の背中を、強めに叩いて支度を促す。すると彼はぱっと笑顔になって即座にベッドから下りると、上着を羽織って俺の背中にぴったりとくっついてきた。それはまるで散歩という単語を耳にして喜ぶ犬のようで、一応「獣化するか?」と訊いてみるが、彼は「しない! 友だちだから!」と断って、より一層犬っぽい笑顔で俺に纏わりついてくる。
「はいはいトモダチトモダチ。キーは持ったか?」
「持った!」
お嬢ちゃんに「買い出しに行ってくる」とメッセージを送ってから、ラドレと一緒に部屋を出る。余程気になるのか、ゾエの部屋の方角をじっと見つめて動かない彼の腕を「いいから」と引いて、外へ。寛窄巷子に戻って買い物をしてもよかったが、気分転換にその反対方向にある春熙路と呼ばれるエリアへと向かう。ここは巨大デパートやブランドショップといった高級店がひしめく繁華街でありながらも、地元民の生活の要である露店やスーパーマーケットも入り乱れるとにかく賑やかな一帯だ。
メインとなる食材の買い物はスーパーマーケットですることにして、俺とラドレはまず飲食店の多いエリアへと足を踏み入れた。春熙路は常に最新鋭の外観にリノベーションされ続けている高級感溢れる地域ではあるが、昔ながらの店というのももちろん存在はしていて、中でも俺は辛い料理を扱っていそうな店を探していた。開放的なイートインを擁する地域の店々から漂う美味そうな匂いに、ラドレも「あ、お腹空いてきたかも」と鼻をすんすんと鳴らしているので、「発酵唐辛子の香りを探せ。一番いい感じのやつ」と声促せば、すぐに彼は「こっちかも」と俺の肩を叩いた。
その店には、いつの時代も漠然としたイメージとしてある『地元のおっちゃん』が沢山いた。ハウスボトルで何時間も居座っているであろう彼らがちびちびと摘まんでいる酒肴はどれも安心感のある見た目をしていて、俺は「当たりだな」と直感する。こういうお世辞にも綺麗とは言えないが、安心感のある美味い店のことを、四川では『蒼蠅館子』と呼び親しんでいるのだ。ほぼ屋外とも言える店内をぐるりと見渡すと、屋根のある辺りにはかつて活躍していたであろう黄ばんだレジスターなんかがあったりして、知りもしない郷愁感にぐっと引き込まれたりもする。そしてその横に、小さなボトル入りの唐辛子が何本かあるのを見つけて、「これが欲しかったんだよ」とラドレを呼び寄せた。
「なにこれ、唐辛子の……酢漬け?」
「いや、泡辣椒だ。乳酸発酵した唐辛子のことだな。四川の麻婆豆腐には欠かせない」
自家製泡辣椒売ってます! と古すぎるポップの貼られたバットの中から、ひと瓶取って店員に声をかける。「美女、キャッシュでいいか?」……つい年下の女性に使う呼びかけをしてしまったが、貫禄ある彼女は少し照れた様子で「勿論だよ。大歓迎だ」と頷いてくれた。するとラドレが「ねえお腹空いた」と俺の裾を引くので、「釣りでなんか軽いの作って。あとビールね」と注文し、彼女に紙幣を渡す。
「知ってる、女性体同士って超長いらしいよ」
「知ってどうするんだよ。個人差あるだろ」
「僕が聞いたのだと、六時間とか」
「六時間……?」
「めっちゃ盛り上がってるときでも六時間はキツくない? いや僕が衰えてるとかではなく、一般論で」
席に着いてすぐに始まった下世話すぎる会話もまだ序盤ではあったが、料理はすぐに運ばれてきた。栓抜きと一緒に提供された瓶ビールを指したラドレが「なんかかっちょいい開け方して」と強請ってくるので、手刀で開けてやれば、彼は喜んで俺のぶんを多く注いでくれる。それから軽く乾杯をしてその冷えたビールを啜っていると、料理を小皿に取り分けながらラドレは、
「これ、なんだろ……エビは嬉しいけど」
と、首を傾げた。女将が「はいよ」としか言わなかったその料理は、エビとホタテ、それから小竹筍とよばれる細長いタケノコをスライスしたものが入った炒め物のようだ。香りは山椒と泡辣椒、あとはほのかに豆鼓の感じがある。
「特に名前がない系じゃねえか?」
「いいね。生活だ」
ふたり同時に食べてみると、ラドレは「ん、あんま辛くない」と、二三度頷いてビールを煽った。見た目通りにあっさりとした味付けで、泡辣椒もアクセント程度だが、海鮮と発酵食品の旨味が効いている。エビとホタテを齧れば山椒を強めに感じて箸が進み、タケノコを食べれば唐辛子味が箸休めに嬉しい、そんな一品だ。
「あのさ、どうしてキミって僕の下ネタに付き合ってくれるの」
とりこぼしかけたタケノコを口の端から覗かせながら、ラドレは言った。
「どういう意味だ?」
「キミ、性欲ないでしょ。いや、ないというか、全然ガツガツしてない的な」
見抜かれた。思わず彼の顔を見ると、「やっぱり」と肩を竦めた返事。
「王に対しても全然性欲っぽい眼差しを向けないもんね。なんか、ほんとうに、スキ……みたいな感じ。だからないというより、好きな子としかしたくないというか……できないんじゃない?」
「まあ……その通りだ」
グラスを空けると、ラドレは残りのビールをすべて注いでくれた。「ホタテうめー」と元気な感想を挟んで、彼は続ける。
「そういう人もいるってことくらい知ってるし、理解というか、まあそうなんだねーくらいなんだけど、キツくないの。そういう話題のときって。僕だって全然、下ネタ以外も話せるんだから、嫌なら嫌って言ってほしいな」
いきなり出されたその優しさは、いきなり出される性欲と同じくらいに俺を驚かせた。さっきまで怯えて俺やお嬢ちゃんの顔色を窺っている様子だったのに、今の彼は普通の友達という雰囲気で、俺の奥底に軽く触れる。
「……お前となら、話していて楽しいんだ」
ちらりと告解。ラドレは「へえ」と表情を変えずに頷いて、「タケノコうっま……」と味覚のみに驚いた様子で眉根を寄せている。こういうところが、俺は……そうだ、好きなのだ。それに乗っかって、俺は告解を続ける。
「飲みの場で同僚にこういう話を振られると、なんというか、気持ち悪くて、俺はすぐに帰ってた」
「感じわるー」
「そうだ。感じ悪くてなんかすぐいなくなるキャラでやってる」
「そのキャラ確立するまで大変だった?」
「まあな。飲みのあと……そういう店に行くノリあるだろ。逃げ続けてたらゲイなんじゃないかって噂が立って……でも別に男も女も好きじゃないし、下手に言い訳するのもなんかなと思っていたら、今度はEDを疑われるし。まああながち間違いでもなかったが」
「あはは、うざ。性欲なんてあってもだるいだけなのにね」
「でもお前はうざくなかった」
「なんで? グラビア女優のポスター貼ってそうとか言うのに?」
「あれわざとだろ」
「まあね。偏見が過ぎるって言われて、やっぱり偏見を受ける側なんだなって……ぶっこんだこと訊くけど、王とはちゃんとできてるの。使ってないと立ち悪くならない?」
「……快適です」
「快適って。あはは。なによりなんだけどなんなの。でもまあ王もすごいって言ってたしな……てか、すごいってなに? あのときのアレなんだったの?」
「……聞きたいか?」
「えっ、聞きたい……」
俺に対して前のめりでいてくれるこの聴罪人は、ときに顔を青褪めさせ、ときに大口を開けて笑いながら、俺と『普通の』話をしてくれる。自分の話をするように見せかけて、俺に心情を吐露する機会をくれるそのさりげない気遣いに、もっとちゃんと出会い直せばよかったとひそかに後悔をするが、もう遅い。俺は、あのときこの男に自分のほんとうの名前を伝えられなかった。覚えていないとわかっていても俺は俺の名前を彼に伝えるべきだったのに、それができなかった。コードネーム云々というのはただの言い訳で、実際のところ俺は、舌が痛かったのだ。どうしようもないほどに。
カートに酒ばっかり入れてくるラドレを叱りながら買い物を済ませ、スーパーを出た頃には日が暮れ始めていた。ふたりで缶ビールを飲みながら宿へと帰るその道中の歩様や、宿のエレベーターの中で「全然お腹空いてるわ」と言って笑う彼の頬に酔いを察するが、今日のところは不問とする。まあそこまで酔っているわけでもなさそうだしな……と思っていたのも束の間、扉が開いた途端にラドレは「確かめようぜ!」と言って俺の手を取った。
「なにをだ……?」
「六時間」
彼の手に引かれて連れて来られたのは案の定、ゾエの部屋の前で、ラドレは「さあ、どうなんだい!」とはしゃいだ様子でドアに耳を当てて張りつく。それは流石に越権行為だと言いたかったが、俺も無意識にドアに張りついていた。ダメだ、今日は俺も酔っているのかもしれない……そう思いながらも、息の合った沈黙が快くなる。しかしドアの向こうは静寂。耳のいい俺がそう感じるのだからそういうことなのではないかと、「なあラドレ」と切り出したその瞬間、
「ふうん、これがカッコいい大人のお兄さんたちの姿なの?」
と、背後からお嬢ちゃんの声がして、ふたり同時に「ひい!」と高く野太い、矛盾した悲鳴を上げた。振り返ればそこには仁王立ちをしてこちらを威圧するお嬢ちゃんの姿。どうやらひとりであるらしく、その手にはコンビニのレジ袋が提げられていることから、俺たちの後にこのフロアに戻ってきたのだということが窺えた。
「レディの部屋を盗聴しようだなんて最低ですよ、おまえたち」
甘い声でそう吐き捨てて、彼女は俺たちの顎を左右の手でそれぞれ鷲掴みにする。そのもの凄い握力に、顎が外れるどころか砕けそうだ。しかしそれよりもその目が笑っていないことのほうが怖い。軽蔑。ただそれだけしかそこにはない。
「ごめんなさ……」ラドレが尻尾を腹に丸め込んだ犬のように切ない声を上げる。「僕が、主導しました……」
「そうなの。で、あなたは? 自分から乗ったの?」
「乗りました。忠言もなしに……」俺も正直に答える。「反省しています……」
「そう。もうしないでね」
唐突にお嬢ちゃんは俺たちを解放すると、スカートのポケットから取り出したカードキーをこちらに見せつけながら「はい、部屋に戻りますよ」と言って、三人部屋へと向かう。私語をせずその後ろに続いて部屋に入ると、中にはゾエもいた。どうやら彼女はテレビ画面に接続したゲーム機でFPSゲームをしているらしく、「おかえりなさーい」とその背中に迎えられる。
「ただいま……ってゲームしてたの?」
そう応えたラドレが「めっちゃキルしてんじゃん」とその画面に釘付けになる。そのゲームは俺もやったことがあるのだが、確かにひとつの町くらいは滅ぼしていそうなそのキル数は、なかなか叩き出せるものじゃない。若者の動体視力でないと成せない技だ。
「こっちのほうがモニターが大きいと思いまして。お前たちが出かけると言っていたので移動して、さっきまでチームプレイをしていたのです。私はPCで」
そう言いながらお嬢ちゃんはゾエの座るソファ前のローテーブルに、レジ袋から取り出した菓子やジュースを並べていく。その中に、昼間売店でお嬢ちゃんが眺めていたのに買わずじまいだった菓子があるのを見つけて、そこで初めてあのとき彼女は自分でそれを買いたかったのだと気づく。友人と食べるために菓子を選んでいたところを、『外部』の年長者に「買ってあげる」と子ども扱いされて不服に思う気持ちは、わからないでもない。誰にも邪魔されず、自分のサークルの中だけで完結したい行為というのはあるのだ。
「よっし、アイムチャンピオーン!」
バトロワに勝利したゾエが小さな拳を掲げて喜んでいるところに、お嬢ちゃんが「いえーい!」とハイタッチを求める。そしてふたりで菓子を開けて摘まんで、楽しげに笑っている。
なんだ、ちゃんと友だちがいるのか。と、ふたりに対してどこか憂色の晴れる心地になりながらも、その安堵の及ぶ範囲に自分自身がいることに気がついて、俺はひとりある意味で茫然と、まばたきをする。ラドレを見ると、目が合った。どちらともなくすぐに逸らすが、またそのうち合わさるのだろう。その不確かで曖昧で若干ムカつくお喋りな存在が、もう『感じ悪くてなんかすぐいなくなる俺』でいなくていいのだと、肩を叩いてくれた気がした。
「お嬢ちゃん、そろそろ」
じっくり染み入る暇もなく、俺はお嬢ちゃんを促す。すると彼女は元気よく、「そうでした!」と言って手を合わせた。
「ではラドレ、ゾエと仲良くチームプレイを。そしてゾエ、寛いで待っててね」
その指示に、ラドレは「最も勝利に貢献したほうがアイス奢るってのはどう?」と腕捲りしながらソファに腰を下ろし、ゾエは「普通逆では?」と彼に敏く指摘する。そんなふたりに背を向けて、俺たちはキッチンスペースに移動すると、まずは並んで手を洗った。それからお嬢ちゃんのネイルが傷つかないように、ゴム手袋を嵌めてやる。
「じゃあ、まずは豆腐の下拵えだ。鍋に水を張ってくれ」
ゾエに手料理を作りたいと言い出したのはお嬢ちゃんだ。前に料理を教えると約束していた俺は二つ返事で了承し、広く充実したキッチンが使えるという理由でホテルではなくこのサービスアパートメントを予約した。幸いにも滞在する予定の場所に、月単位ではなく一週間単位で契約できる場所があったのは、有り難いというか、大都会なのだからあってもらわないと困ると言うべきか。
客室写真で見た通り広くて清潔なキッチンには、この国らしくクッキングヒーターに対応した中華鍋なんかも置いてあって、「手ぶらで正解だな」と独り言をいいたくなるほどには設備が充実していた。お嬢ちゃんが豆腐と塩水の入った鍋を覗き込んで「よく見る……よく見る……」と呟いている間に、俺は生姜と葉ニンニク、それから泡辣椒をみじん切りにする。
「わ、すっぱからい香りがします」
「さっきはラドレとこれを捜し回ってたんだ。本場っぽいほうがいいだろ?」
「むん。ありがたし、うれし、よくやったし。好きよハリエットさん」
「俺も好き……え?」
思わぬ言葉にそちらを見るが、お嬢ちゃんは顎に手を寄せて、先ほどと変わらぬ真面目な顔のまま、豆腐を凝視していた。無意識か、それとも軽い気持ちで言ったのか。いずれにせよ、俺の耳が嘘みたいな速度で熱を帯びていく。顔を覆って悶絶したかったが、唐辛子を触った手袋でそれをしたくはない。なんとか気を取りなおそうと無駄に冷蔵庫を覗き込んでいると、「ぶくぶくのちょっと前!」とお嬢ちゃんが声を上げた。
「よ、よし、火……というかヒーターを、を消すんだ」
「消す……つけるの逆でいいの?」
「そうだ。そこのボタンを押してくれ」
「おお、消えました! すげ!」
ただヒーターのスイッチを消しただけなのに、お嬢ちゃんはぴょんと跳ねて嬉しそうだ。そんな彼女にミトンを嵌めさせて、「それをやさしくこのザルにあけてくれ」とシンクに用意していた笊の前まで誘導する。
「どのくらい? どのくらいやさしい?」
「あー、ええとだな……ウサギを、撫でるくらい……?」
我ながら酷い喩えだが、お嬢ちゃんにとってはこのくらいオーバーに伝えるのが良いだろう。するとお嬢ちゃんはいい具合に鍋を傾け、豆腐を崩さずに水を切ってくれた。
「すごいぞ、お嬢ちゃん。上手だ」
「ふへんへ……」
照れた彼女が鍋を振り回すのを、どうにかこうにか止めさせてから次の作業へ。買ってきた牛肉のブロックをミンチにする作業を任せたいのだが、包丁を使う作業がどこまでできるかわからない。ここは気を引き締めて貰おうと、「ユアマジェスティ?」と呼んでみれば、意識が君主モードに傾いたのか「はい」と凛と通る返事があった。
「この肉をミンチにしていただきたいのですが、できそうですか?」
「ふむ……このナイフで木っ端微塵にすればよいのですね?」
「そうです。ですが周囲に被害を及ばさないように、最大限に繊細に……」
「ウサギにするくらい?」
「あ、うーんと、だな……」
ウサギになにを『する』のかは、訊けなかった。俺はウサギを愛でも食べも締めもするが、なんとなく。
「こっちにおいで」
少し迷った末に、手取り足取り感覚を教えることにする。彼女の狭い背を後ろから抱え込んで、包丁の持ち方や手の動かし方、それから力加減を、その手を握ってレクチャーすると、案外すんなりと理解してくれたようだ。よいしょよいしょと一生懸命に彼女は手を動かし始める。切られた肉はいくらか不格好で大きさもまばらだが、彼女にとってはパーフェクトと言ってもいいほどの出来だ。
「ふう、神経をつかいますね……」
作業を終えると、お嬢ちゃんは腕を振ったり揉んだりするのではなく、眉間に皺を寄せながら俺を振り返った。彼女にとってこれは力仕事ではなく、加減の難しい細かな作業なのだろう。その小さな頭を揉みほぐしてやりながら「上手いじゃないか」と褒めてやれば、「ふへんへ」の声とともにまたしても道具を……包丁を振り回そうとし始めたので、咄嗟にその手首を掴んで止めた。間一髪、本当にギリギリで俺は腕を斬られずに済んだといったところだったのだが、彼女は大惨事になる可能性すら念頭にないらしく、「あらごめんなさい」と鷹揚な態度で包丁を置く。
「お嬢ちゃん、道具は、振り回さない。これは、マジで、覚えてくれ」
ガンガンの過冷却で凍ってしまいそうだった肝をなんとか常温まで戻して、俺は真面目に指導する。するとお嬢ちゃんは小首をくるんと傾げて、「はあい」ときらきらと輝くような笑顔を俺に向けた。それがちょっと深刻なくらい可愛くて、身体の真ん中に風穴が空きそうだったが、最大限に破顔を堪えて彼女に問う。
「ここからが問題だ。……どのくらい本場っぽく……要は、辛くする? キミが決めてくれ」
彼女にとってこれは難題であろう。悩むことは織り込み済みなので、この間に他の料理に取りかかろうとした瞬間、彼女は言った。
「一番かっくいい、大人のやつにします!」
その意気を汲んでこそ、一番カッコいい大人のお兄さんだ。
「よし。そうしよう」
疑問を浮かべず程度も訊かず、俺は買ってきた乾燥唐辛子と青花椒を取り出すと、唐辛子のほうを刻んでくれるようお嬢ちゃんに指示を出した。先ほどの肉よりはやりやすいらしく、ゆっくりではあるが楽な調子で彼女は包丁を動かす。
今のうちに俺は棒棒鶏の準備だ。合間に用意していた香料入りの水の中に骨付きの鶏肉を入れ、少し茹でたあとに火を止める。それからスーパーで売っていた市販の棒棒鶏のタレの匂いを嗅いで、少しばかり黒酢と花椒、それから辣油を足した。市販品をアレンジして簡単に済ませるのも立派な料理である。
混ぜたタレを冷蔵庫に入れ、お嬢ちゃんの進捗を確認すると、乾燥唐辛子がいい具合に刻まれていたので、
「よし、上手く切れてるじゃないか。その手袋は替えておいてくれ」
と位置を交換し、カウンターの端にある使い捨てのゴム手袋の箱を指さした。これは俺が普段使いしている『業務用』のものだが、彼女が嵌めるとあまりグロテスクに思えなくて良い。ネイルをしているけれど料理もちゃんとやる子という感じで、いっそ可憐ですらある。
「よし、じゃあそっちの小さい鍋を持って……そう、それだ。今から俺がこっちの大きな鍋を使うから、動きをよく見て真似してみてくれ」
お嬢ちゃんに持たせた鍋の中に畳んだ布巾を入れてやり、それから玉杓子の代わりにフライ返しを持たせてやる。すると彼女は、楽しそうに下瞼をにゅっと持ち上げた。初めてやらせてもらえることばかりで嬉しく、得意になっているのだろう。その頭を撫でてやりたかったが、俺も手袋をしていたので軽く頭にキスをするに留める。
次は刀口辣椒作りだ。お嬢ちゃんが辛さ控えめにするつもりだったのなら挟まなかった行程である。熱した油の中に、先ほどの乾燥唐辛子と青花椒を入れ、香りが出るまで炒める。ガス火でないことを考慮しても十数秒の短い作業だ。それでもお嬢ちゃんは「むん、むん」と真剣な鳴き声を上げながら、俺の斜め後ろでちゃんと鍋振りの練習をしてくれている気配がある。元々、勉強熱心な性質なのだ。ふわふわおっとりとして『見える』からといって教えることを諦めるだなんて勿体ない。
鍋を火から下ろし、ボウルに炒めたものを移して軽く冷ます。鍋を拭いてお嬢ちゃんを振り返ると、早くも布巾を裏返せるようになっていた。
「すごいじゃないか。経験があるのか?」
「いえ……これは手首のスナップが大事ですね。あとは、腰と膝かしら」
「よく観察してるな。そのうちアイツより料理が上手くなるんじゃないか?」
特に褒めようと思って出た感想ではないのだが、彼女は「ふへんへ」と喜んで俺の胸に抱きついてくる。幸甚の至りとはこのことだ。一瞬、「ヤりてえ」と思ったが、今は真面目にやるのがカッコいい大人のお兄さんだ。咳に似た堪えた声が喉から低く響きはしたものの、平静を装うことに成功した俺は、次にお嬢ちゃんには皮蛋を剥いてくれるようにお願いする。卵の殻を剥くのは流石に難しいかもしれないが、それも見越したうえで『擂椒皮蛋』を作ろうという企てだ。これは焼いた青唐辛子と皮蛋をすり潰して混ぜるだけの冷菜で、ふつうかなり辛いのだが、メニューのバランスも考えて青唐辛子をピーマンで代用する。この国では青唐辛子とピーマンの区別が曖昧なこともあり、購入する際に青果担当の店員に「できるだけ辛くないものを」と見繕って貰ったが、不安なのでパプリカも購入した。鍋で皮が焦げるまで焼いたそれらを一口サイズにカットし、すり鉢の上にあけると、その上におろしニンニクと醤油、黒酢、それから辣油を垂らしておく。ここにお嬢ちゃんが剥いた皮蛋を入れて擂り混ぜれば完成だ。
先ほど炒った唐辛子と青花椒を包丁で叩いて粉になるまで刻んでいると、しばらくして皮蛋を剥き終えたらしいお嬢ちゃんがふうと息を吐く。そもそもが扱いづらい食材なので、当然剥かれたそれらは不格好だったが、なんら問題はない。殻が残っていないことを確認してからその皮蛋を先程のすり鉢に入れ、混ぜてくれるように頼むと、お嬢ちゃんは「やっちゃっていいすか」と眉間に皺を寄せた笑顔で俺を見上げた。
「おう。ほどほどにしてやれよ、兄弟」
すると彼女は「死に方だけは選ばせてやらあ……」と物騒なことを言いながら作業に取りかかりはじめる。彼女が好きなのはどの任侠映画なのか……と考えながら、俺もさっき用意した茹で鶏を引き揚げ、骨を外して綿棒で叩いた。するとお嬢ちゃんが「アニキもやりますねえ」と妖しい笑みを浮かべる。
「お前ほどじゃないさ、兄弟。こっちはまだ原型を留めてる」
「へっへっへ……でもアニキはそれを飾りつけて食っちまうんでしょう」
「……もしかして俺はレクター的な役なのか?」
そんな物騒な会話をしているうちに、棒棒鶏と擂椒皮蛋が完成した。棒棒鶏は胡麻とナッツのふくよかな香りを黒酢と花椒がきゅっと締めていて、余熱調理された柔らかい肉とよく合いそうだ。擂椒皮蛋は見た目こそ美しいとは言えないが、焦がしたピーマンのスモーキーな香りと皮蛋の香りが合わさって、酒とちびちびやるのにうってつけの一品となったことだろう。このふたつは冷菜なので、あらかじめ食卓に運んでおき、俺たちは最後の作業に取りかかる。ここからはスピード勝負だ。お嬢ちゃんに工程を説明し、鍋に油を入れる。
「よし、バターを入れるんだ。そっとな」
ラードを使ってもよかったが、俺はバターを使う。四川風の麻婆豆腐は気を抜くとすぐにしょっぱくなりすぎてしまうため、口当たりをできるだけマイルドにするためだ。油の中でバターが消えて見えなくなった頃に、ミンチにした肉を入れてもらい、からりとした色になるまで炒める。そこに泡辣椒、生姜、豆鼓を加えると、スパイシーで美味そうな匂いが辺りに漂い始めた。そして赤く鮮やかな色味へ変化した鍋の中に、更に刀口辣椒を加えれば、ぶわりと一気に刺激的な香りへと変化する。しかし泡辣椒のおかげで、ほんのりと甘酸っぱさも感じられるようになるはずだ。
「大丈夫か、お嬢ちゃん」
「だいじょぶ、です」
目を細くしてカプサイシンの刺激に耐えているらしいお嬢ちゃんは、そう応えて軽く噎せた。しかしこの地獄が長く続くわけじゃない。じゅわじゅわと音を立てているそこに棒棒鶏を作った際の茹で汁を入れれば、いくらか刺激も和らいでくる。そのまま塩と砂糖、それから醤油で控えめに味付けをし、豆腐を入れて貰うと、今度は彼女に鍋を任せる。
「豆腐に味がしみ込むまで揺すってくれ。優しくな」
豆腐は木綿と絹の両方を用意した。味が染みやすく食べ応えのある木綿と、味は染みにくくとも舌触りの良い絹の両方を使ったのは、激辛好きで量を食べたがるであろうラドレとゾエを飽きさせないためであるのと同時に、お嬢ちゃんも絹なら食べられることだろうと見込んでのことだ。
「ちゃ、ちゃんと見ててね……」
鍋の中にあるのが布巾ではなく、食材であることで彼女はいくらか及び腰になっているらしい。そんな彼女に「見てるよ。キミならやれる」と肩を叩き、水溶き片栗粉を用意しながらその雄姿を眺める。「もうちょっと杓子はやさしく」「鍋の外に食材が垂れないように」「いい感じだ。流石だな」……励まし続けて五分弱。葉ニンニクを入れたあと、水溶き片栗粉を少し注いで、「回転させるように振ってくれ」と指示を出せば、食材が描きはじめた綺麗な流線になぜか俺が得意になった。火から下ろして、二度目の水溶き片栗粉を入れる。火に戻して混ぜ、それからまた火の外で最後の水溶き片栗粉。仕上げにネギ油を少し。……いい感じだ。きちんと細かく振ってくれていたおかげで片栗粉はダマになっていないし、均等に火の通った大粒のミンチ肉は柔らかそうで、いっそのことぷるんとすらしている。
「よし、この皿に盛りつけるんだ。揺すりながらこっちに……そうだ、そうだ」
いそいそと皿に盛られたそれを、ふたりで刀口辣椒と残りの葉ニンニクで飾りつける。するとたちまち姿を現したのは、『麻婆豆腐』……料理としての輪郭を得たそれは堂々とそこに鎮座し、「一番カッコいい大人の麻婆豆腐である」と今にも名乗りだしそうだ。それから「たくさん褒めて」と言いたげな眼差しで俺を見上げてふるえているお嬢ちゃんに、
「よくやった。お疲れさま」
と声をかければ、頭を撫でたかったのに「ぎゅっとして」と胸に飛び込まれてしまった。触れあう箇所が、そのなにもかも物足りない一帯が、焼け焦げそうなほど昂るが、俺は一番カッコいい大人のお兄さんなので、彼女を優しく抱き締め返す。
「からそうだけど、わたくしも食べてみるね」
「そうしてくれ。きっと美味い」
これは俺の予想だが、彼女はこれで辛いものを再び食べられるようになるに違いない。自分で料理をする醍醐味は、その工程を体験することで新たな知見を得ることなのだ。普段なにげなく食べていたあれやそれにも、実は興味深いなにかが埋もれているかもしれない……それは食べるだけでは見つけられなかったりもして、だからこそ、料理というものは買い出しから片付けまでの過程すべてが学びとなる。たった一度の食卓に費やされたものの膨大さや偉大さに触れて初めて、その一品が、過去のどこかの厨房で発生したという奇跡と、そのレシピを誰かが誰かに伝えつづけて今ここにあるという継承の切実さを、キミは知るだろう。料理というのはそのすべてが、奥深いのだ。
「ふふ、わたくしたち、ふたりともすっかりからい匂いね」
おそろいね、と続ける彼女に、堪らなくなって俺は『一番カッコいい大人のお兄さん』から降りると、その唇にキスをした。すると彼女の腕が俺の首に絡んできて、ちょっとやそっとじゃ離れられなくなる。しかし背伸びをする体幹の揺れを鷲掴みに支え、下唇を甘噛みしてくる牙の感触にぐずぐずと惹かれていくうちに、きっと数分は経過したはずで、せっかく作った料理が冷めると踏んだ俺は、意を決して息継ぎを挟む。
「……お嬢ちゃん……そろそろ、」
「まだ……」
「料理が冷め」
「まだ冷めない……あんなに熱かったんだもの」
それもそうかと開き直ろうとした瞬間、
「新婚さんプレイですか?」
と闖入者の声がして、俺は心からの憎しみを込めた舌打ちをした。見れば下唇を突き出したラドレがカウンターの向こうから身を乗り出してこちらを見ている。
「いいなあ、僕も裸エプロンの王にネクタイ引っぱら、れ……ってなにこれ美味そう!」
自身のとんでもない願望を口にしかけた彼だったが、完成したばかりのそれが視界に入った途端、口を噤んでぱっと目を輝かせた。
「なにこれとはなんだ。お嬢ちゃんが作った麻婆豆腐だぞ」
そう主張して、それをテーブルに運ぶように命じると、彼は「マジで? マジで?」と嬉しそうにして、皿を心底大事そうに抱えながら食卓へと去っていく。そんな彼の態度が嬉しかったのか、お嬢ちゃんは頬を染めて「ひっひひ」と口元を柔く握った手で覆いながら笑った。
「おーい、ゾエ、ごはんー!」
食卓のセットまでしてくれたラドレがそう声を張るのを聞きながら、鍋を洗う。湯と筅で汚れを落とし、ヒーターで水気を飛ばしていると、お嬢ちゃんが「あなたはなにを飲みます?」と冷蔵庫からこちらを振り返った。なんだか、夢みたいな光景だ。
「アイツと同じの」
「あらあら、なかよしさんね。どうやってなかよくなったの?」
「……なんでだろうな。成り行き?」
「ふふ。いい旅ですね」
その旅にはキミもいるんだぞ、と言おうとした途端、ゾエが「大変、社長が泣いています!」と大声を上げたのでそちらを見れば、「泣いてないんだが?」と弱々しい声で主張するラドレが、眼鏡の下に両手を入れてうつむいていた。くうんくうん、と、切なげに鼻が鳴っている。
「泣いてる! 泣いてる!」
そう言って妹のように彼を揶揄うゾエもまた、泣きそうだ。
「まあどうしたのあなたたち、ショクチュウドク、ですか?」
「ちょっと王、今から食べようってときに食中毒って言わないで」
「中毒になりそうって意味ならそうですね! よっ、陛下のお料理上手!」
「うっ……あの、はずかしいので、はやく食べちゃいましょう……」
この輪に、俺もいるのか。いや、俺が加わろうとすれば、いつだってこの輪に入ることができるのだ。ここは俺に向かってひらかれていて、まっすぐ果てへ向かって一本続くだけだった俺の人生を、それだけじゃない図形へと変えてくれる。
こんなの、思ってもみなかった。俺はひとりだった。俺は孤独だった。でも、この身がちぎれそうなほどそう思えていたのは、それまでひとりぼっちで生きてきたわけではなかったからだ。絶望のまま逝かないでほしいと誰かが呪ってくれたからだ。そのままでいてはいけないと誰かが願ってくれたからだ。
匿名のままでいないでくれ。俺の救世主たち。俺だけが覚えているのは、つらい。
ゾエと一緒に寝ないのか? と問うと、「気を抜いて眠りたいでしょう、特に旅の初日は」という返事。
アイツと一緒に寝ないのか? と問えば、「ベロベロエンエンは禁止と言ったのに」と、溜め息。
ベッドの中、声が響かないほど近くで、もうからい匂いのしないお嬢ちゃんはあまい香りで俺を惑わせ、同時に俺の中から躊躇いも湧き立たせて困らせる。なかなか治らない傷からあふれる滲出液のように、俺の傷を治すように促しながらも、キミは俺が傷ついたという事実そのものでもあって、いつもそのせいで俺は『襲えない』。たぶん彼女は、俺が自ら手を出せないことを察していていつも自分から誘うのだろうし、初めてのときも、「はずかしい」と言って自分のせいにして、それから「抱いてください」と自分の責任としたのだ。
違うと言いたかった。ほんとうは、いつも抱きたい。愛している。なのに俺にはそれができない。庇護対象ともいえる歳の差の他者であるというモラルや、友の想う相手だという遠慮などは、どうということはない。そんなのは俺が好きだというただその一点で突破できるものだ。
ただ、順番の問題なのだ。すべての憂いの根源は。真っ当に、順番通りに……それさえ守れれば、俺は胸を張って先に進めるはずだった。祝福すらされるはずだった。なのにそれを成せなかった。そして、成せなかった立場で俺は大手を振るふりをしてここに立っている。お嬢ちゃんが言っていた『擬態』を、その対象を、俺なりの言葉に落とし込むなら、それは『正義』だ。俺は真っ当なふりをして、正しいことを成し正しいことを発言する人間だという擬態をして、ここにいる。ここにいて彼女を抱いている。
俺は彼女を好きだからこそ抱きたいのだ。抱いたのだ。抱いているのだ。そうでなければ俺は今いる幸福な地点に食い込めなかったのではないかという危惧が、常に俺の心を逼迫して、本当に『焦れて』いるのはあの男ではなく俺なのだという事実を啓示して憚らない。俺のなにもかもをを照らしつくそうと演算機が動き始めている。俺はその結果を見たくないのに。
やめてくれ。それをするのは、あの男でなくてはならない。俺が証明できなかった『俺』を証明するのはあの男なのだ。自分というものは自分にしか証明できないはずなのに、俺はそれを望んでしまっている。
矛盾し錯綜する俺そのものが発生する根源は、遥か昔のゼロ地点。はじまりはあの子のせいだ。あの子と一緒にいた俺のせいだ。あの時間軸が、俺の現在と未来をめちゃくちゃに荒らし回って、むちゃくちゃに抱き締めている。あの男すら巻き込んで。
*
ものすごい泣き声がきこえた。ギャンギャンと耳を劈くそれは幼子のそれであろうと、俺は知識だけで判断してだだっ広い庭園にその姿を捜すが、なかなか見当たらない。そろそろ門限も近いというのに。
それは、休暇中の同期が『イチゴのケーキ』なるものを差し入れてくれたというので、演習終わりに皆で集まって食べてみようと寮に急ぐ最中の出来事だった。人間界の食べ物なんてそうそうお目にかかれないし、そういうのは専ら市井の、特に金持ち連中の娯楽だ。一般的なコミュニティから程遠い場所で生まれた俺にはそれがどういうもので、どうやって口に運ぶかわからないが、きっと興味深いものなのだろう。楽しみとはちょっと違うが、まあ経験のひとつだと思って『イチゴのケーキ』を予定に組み込んでいたのだが、どうやら頓挫しそうだ。しかしそれも仕方がない。なにか幼げな生命体が泣いているのだ。その存在を察知したからには保護なり捕獲なりして上に報告しなくてはならない。
それにしてもすごい声量だ。並々ならぬ肺活量と体力の予感に、俺は『ソレ』がもしかすると幼体ではないのではないかと恐れながら、慎重に周囲を捜索する。この辺りは協会の研究所の敷地だ。とんでもない怪物が出てくる可能性も考慮して、見つけられる前に見つけて優位な体勢を取ろうと意識を研ぎ済ませる。庭園に咲く濃い花の香りが嗅覚を鈍らせ、視覚は迷路のような植え込みばかりで頼りにならず、俺は耳だけでその声を辿った。そろそろ姿を捕捉できそうな気配に、狩りに対する昂りのようなものを感じる。得物はどうしようか。今は剣とナイフがある。大きければ剣で、小さければナイフで威圧して……と考えていると、ふと誰かにマントの裾を引かれた。まずい、見つかったか。命の危機を感じて振り返るが、そこには誰もいない。いや、下だ。視線を下げると、そこには、ちいさくて真っ白なイキモノがいた。
「ああん、ああん、ああん……」
それまでギャンギャンと泣いていたそのイキモノは、俺の顔を見ると途端に声音を変え、そのちいさな肩を何度も激しく上下させる。狼狽える俺を他所に、ソレは懲りずに泣き続けて……。
「えーん、えーん、えーん……」
ものすごく、丸くておおきな涙の粒だ。真珠に似ている。妙なところに感心したまま動けずにいると、その泣くしか能がないと思われたちいさなイキモノは、言葉を発した。
「にいさま、どこ!」
兄様。この個体には兄がいるのか。目を真っ赤にして、白いソレは痛切に俺に訴えかける。
「にいさま、どっかいった!」
自分で口にした言葉に、更に悲しくなったらしいソレは、「わーん!」とひと際大きな声をあげると、俺に向かって腕を伸ばした。まるで天に向かって咲くかのように。
「だこ、してー!」
ほとほと困り果てるとはこのことだ。俺は腰の剣に添えていた手を解くと、そのイキモノを、抱き上げることにした。屈んでみると、そのちいささがよくわかる。「ほら」と手を差し伸べると、ソレは追突するかのように俺の胸に飛びついてくる。その身体をこわごわと腕に抱いて立ち上がると、その羽根みたいに軽い生き物は「たかいね」と言って、今度はそっちに気を取られたのか、泣き止んだ。「おっき、ね」……子どもは移り気なのだと、そのとき知る。
「……お嬢ちゃん、どこから来た?」
恐らく女性体なんじゃないかという予想からそう呼びかけてみると、ソレは「おじょうちゃんない!」と激しく首を振った。「にばんめ!」
「二番目……?」
上にきょうだいがひとりいるという意味だろうか。
「じゃあなんて呼べばいい?」
「んん?」
「キミは、誰ですか」
「にばんめ」懲りずにソレは言う。指を二本立てて。「おおじ」
王子。……王子だと?
確か、数年前に双子の王子が生まれたと聞いた。ただしくは新シリーズの双子の王種が生産されたということなのだが、まさかコレが、そうなのか。その顔を覗き込むと、以前目を通していた開示書の通りに魚目の有蹄類のようだった。……もしかしたら俺は、うっかり運命を拾ってしまったのかもしれない。
「じゃあ、王子って呼ばれてるんだな」
顔をべたべたと触ってくるそのイキモノに問うと、またしても首を横に振られた。
「にばんめ!」ちいさなピースサインを、ソレは懲りずに胸に掲げる。
「二番目って呼ばれてるのか……それはなんというか、あんまりだな……」
双子に番号をつけるなんて、優劣を明らかにしているようなものだ。そもそも胎生ではないのに、片割れを兄と呼ぶのも不可解だ。おそらく聖職者どもがそう吹き込んだのだろう。
「あまんり?」
「いや……なんでもない。じゃあ、なんて呼ばれたい?」
「むん?」ちいさな頭が、くるんと傾ぐ。「むーん?」やわらかい巻き毛が、俺の手の甲をしゃらりと撫ぜた。
「いみあるは、ない」
「どういうことだ?」
「おっきのひと、わたくし、ほんとのなまえ、よぶない。おっきのだれかとだれか、おはなしするとき、にばんめ、いうなのね。だから、おっきのおにいちゃんも、よぶはいみあるないなのな」
つまり、この子は状況から察して『二番目』であることを自覚したのだろう。だとしたらなんとも惨い。しかしあいつらならそうするだろうなという納得感もあって、俺はこの子の置かれている状況に対して激しい怒りを覚えると同時に、ひどく同情心を煽られてもいた。生き残れるかもわからない、残すつもりもない個体を量産して、なにが聖職者だ……。その憤りが示す通りに、『二番目』の境遇は俺と同じだった。俺は当時の協会の新規格であった『騎士シリーズ』の生き残りで、王となる存在の騎士になれなければ処分される運命にある。
「……姫」
ふと思いついて、俺はその尊称を口にした。初めて自分の耳でも聞いたその音は、彼女にそぐわしい、実に可憐な響きをしていた。
「俺はキミのことを、『姫』って呼ぶよ」
「ひめ」
胸を指さされた彼女は、俺の言葉を繰り返して、俺をじっと見つめている。彼女になにか新しいものを与えられるのは、俺だけなのだと思えてならなかった。
「そうだ。……俺がキミを王にする」
「おうってなになの?」
まだなにも教えられていないキミ。もしかしたら、教えられないままでいるかもしれないキミ。俺は勝ち残って、生き残って、このちいさな姫君と一緒にすべてをひっくり返してやる。双子として情報が公開されているのだから、秘密裏に処分するなんてことはないだろう。名目上でも運命と戦う機会が用意されているはずだ。
「キミが大人になったら、きっと契約をしよう」
「けいやく?」
「一緒に、どこまでも、行きたいところに行こうと約束すること」
しかし俺の言葉はまだよく理解できないらしく、ちいさな拳を細かく齧りながら、この子は……姫は、その大きな目をきらきらと瞬かせている。この無垢な睛に波乱を見せるのは忍びないが、生き残らなければ、死ぬのだ。そのために俺はこの子を利用し、この子にも俺を利用するように教えよう。「生き残ろう」と囁いて、俺は彼女を高く高く空に掲げる。きゃっきゃと喜ぶ無邪気な主君と俺は、ピンクと紫の空の下、契約ではなくただの約束を交わした。
「おにいちゃん、おなまえ、なに?」
「ああ、×××だ」
「×××おにいちゃん、きしさまなの? かっくいいけん、ある」
そう言って、彼女は俺の腰元を短い指でまっすぐにさす。まだ見習いもいいところだが、手入れだけは欠かさないその一振りは、俺の代わりに気恥ずかしそうにその柄をきらめかせた。
「……そうだよ」
俺はまだ、ほんとうの騎士ではない。ちいさな嘘をついたその瞬間、姫は花ひらくような笑顔になった。
「かっくいい、すき!」
「そうか」
「わたくしも、おっきなったら、きしさま、なる」
「そうかい。それもいいな」
でもそのためには、まずは生き残らなくてはならない。まだなにも知らない彼女の手をとって、指先にキスをした俺は、「では、姫。イチゴのケーキはいかがでしょうか」と運命のエスコートを開始した。
*
細い指が俺の歯列にかかる。はやくこの魔法を解いてくれと期待するのに、彼女は「また呼んでる」と囁いて笑う。ああ、俺には彼女の名前が聞こえない。そして、彼女が呼ぶ俺の名前が聞こえない。綴りも発音も響きもわかるのに、この身体のすべての機能が『俺たち』を認識しない。こんなの、ほんとうにほんとうの呪いだ。そのことに気づいたのは、彼女に「なぜしているときだけ名前を呼ぶのか」と問われたときだった。
「ねえ、きもちいい?」
生殖器で繋がり合うことを指して、彼女はそう問うてくる。途端に背筋がぞわりとしたのは快楽と、恐怖からだ。息だけで「きもちいいよ」と返しながら、俺は彼女の身体を掻き抱く。肉体は、確かに極上の快楽を得ている。しかし俺には、『彼女を抱いている』という実感に乏しかった。いっそのこと、無い、といってもよかった。それを見抜かれたんじゃないかという恐怖が快楽のぶんだけ膨らんで、爆発するように狂いそうだった。正気でいたいという願いと、存在証明の焦りでおかしくなりそうだった。
俺の、俺の姫。俺の俺だけの姫。俺だけの。……唸り声を上げながら焼け焦げていく俺という存在。加速する絶望。の、なかにきらめく嫉妬。どうしてアイツが。どうして俺は。あの子を暗闇のなかに突き落としてしてまで生き残りたくなかったのに、利用しろと教えたはずなのに、どうしてあの子は……。
まって、と細い悲鳴がする。俺の胸にしがみついて、お嬢ちゃんは嘆きに似た声に喉を反らせる。この瑕疵ひとつないうつくしいからだの奥底にひそむあの男という存在に対する赫怒は、血のように赤々とかがやいて、俺は目が眩むようにして正体をなくす。嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ……怨嗟をぶつけるかのように、俺の肉体は俺のこころに操舵権をゆだねて暴れ回る。お前さえいなければという呪詛が血とともに全身を駆け巡り、俺は一個の衝動そのものへと変化する。救いを求めて奪った唇のむこうで、彼女の喉が震えている。×××。俺の名前だ。彼女が口にする俺の名前だ。そのちいさな舌に咬みつきながら俺は泣いていた。誰のことも恨みたくないのに。俺はアイツのことが好きなのに……そう嘆いた瞬間、俺は唐突に悟った。
俺だけの××はもうどこにもいないのだ。
彼女と繋がったまま、その落雷に呻吟を上げて俺は力尽きる。過負荷から解き放たれた肉体とリンクする思考もまた、滑らかに照るかのような生々しさを湛えていた。脱皮し、再誕する孤独。しかしその新しい孤独の質感は、けして悪くはない。祝福するかのように、「いた!」と俺を見つける声が胸に鳴る。
「……そうだな。いなかったけど、もういるよ」
あの男がいたからこそ、あの子は今ここに生きているのだ。この孤独はほんとうにひとりぼっちだから感じるのではなく、この三人が生きていることにより生じるものなのだ。そしてこれは三人が平等に感じているものに違いなく、かなしく思うことそれ自体がかがやかしい絆であることを……俺はまだ認めたくない。だって過去で野垂れ死んだも同然の俺がまだ、救われていないのに、今を生きる俺だけが幸福を享受するなんて。
ああ、俺はなにより先に俺自身を救済しなくてはならないのか。
「なあに、なんの話……?」
俺のことを覚えていない彼女が、あの子の対岸で俺の素肌に触れる。つめたい手。かつてはふくふくとあたたかかったちいさな手。たぶん、そうであったという記憶が絶えず俺の内側をちくちくと切り裂き続ける。でもきっと思い出というものは、今を生きる俺たちの胸を突き続けるからこそうつくしい。俺を怨嗟の海から引きあげるのはその至上のうつくしさと、あの男のすこし頼りない手であるはずなのだ。
「なんでもないさ。……そろそろ寝ようか」
ふたたびあの子を胸に抱いて、俺はその背中を叩く。するとそのうつくしいイキモノは、「もう。わたくし、子どもじゃないよ」と拍をとる俺の手をそこから引き剥がすと、大事そうにその胸に抱き込んで目を閉じた。
「そうだな。そうだったな……」
最初からずっと二番目じゃなかった俺の一等星。いつかキミが「お嬢ちゃんじゃない!」と俺に怒ってくれる日がくることを夢見て、俺はひとり胸にイチゴを掲げて乾杯する。そのときにはあの男にも祝福してほしいと、俺はもう願ってしまっていた。そしてじつのところ、あのときお前が用意したケーキの上の立派なイチゴを、俺は食えずじまいだったのだと、いつかは笑って伝えたい。
End.
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