見出し画像

「べらぼう」 権謀渦巻く権力争い

現在、放送されている大河ドラマ「べらぼう」は、前にも書いた様に新しい試みがされていますが、大河ドラマらしさも忘れてはいません。

「べらぼう」では、江戸のメディア王となる蔦屋重三郎の生涯を描いていますが、同時に江戸中期の幕府内での権力争いも描かれており、大河ドラマ特有の重厚さが、ストーリー全体を引き締めています。

将軍家(田沼意次)と御三卿

「べらぼう」で描かれている当時の将軍後継者は以下の通りとなっています。

将軍家と御三卿


ドラマで描かれる権力闘争は、直接的には御三卿VS田沼意次によって行われます。御三卿とは、御三家よりも将軍家に近い血を持つ特別な家系であり、将軍家の血筋を守る為に作られた家系です。

初代の家康時代から将軍継承の原則として、「長幼の序」が絶対的な掟として存在していました。

その為に、吉宗は、後継者として優秀な次男に比べて若干難のあった長男である家重を指名します。

そして、吉宗が退いた後に、長男である家重が将軍家を継承し、家重の次男である重好(しげよし)が分家という形で、清水徳川家が作られます。同時期に吉宗の次男である宗武(むねたけ)が、田安徳川家を、そして、四男である宗尹(むねただ)が一橋徳川家を形成して、ここに御三卿と言うシステムが完成します。

「長幼の序」から、この御三卿の序列は、筆頭が田安家であり、次に一橋家、そして清水家が続きます。

御三卿の一つである清水家は、江戸城清水門内で田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあったために清水徳川家と呼ばれるようになります。

ドラマでは、落合モトキさんがこの重好を演じていますが、この清水徳川家は、初代の重好に実子が居なかったことから、後に将軍家となる一橋家から養子をむかえ家としては存続しますが、吉宗が定めた当主に実子が居ない場合には、家督が継げないというルールがあることから実質的には初代で将軍継承権を失います。

一方、実質的な御三卿筆頭である田安徳川家は、江戸城内の田安門の近くに屋敷があることから「田安家」とよばれるようになります。この田安家は、先代の吉宗の意向を最も強く引き継いでいる家で、御三卿の中では、一番保守的な家柄でした。
1771年(明和8年)に、初代の宗武が死去し、五男の治察が、田安家当主となります。(長男から4男までは幼少で死亡。)

しかしながら、この田安家も当主である治察が、賢丸(後の松平定信)の養子入りした年の1774年に死亡し、田安家は、将軍後継から外されることとなります。

また、田安家の次に将軍後継者の権利を持っている一橋家においては、ドラマでも描かれていますが、生田斗真さんが演じている一橋家の二代目当主である徳川治済(とくがわ はるさだ)に、1773年に嫡子である豊千代(後の第11代将軍である家斉)が誕生します。

賢丸(後の松平定信)の養子入りの謎

当時、御三卿の筆頭である田安家の将軍継承権者としては、5男で当主となる治察、六男の松平定国そして七男の賢丸(後の松平定信)がいました。

六男の松平定国は、1768年(明和5年)、伊予松山藩8代藩主・松平定静の世嗣・熊太郎が夭折すると、幕命により久松松平家(松山)へ養子に出され、後に伊予松山藩9代藩主となります。

これは、伊予松山藩が、徳川幕府の親藩(徳川家の血筋が入っている藩)であることから、その血筋を守るための措置としては妥当なもので、何ら不自然さはなく、その意味では権力争いとは無縁のものです。

次に、ドラマでも描かれている田安家七男・賢丸(後の松平定信)は、幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていました。

実は、ドラマ「べらぼう」の第4話では登場していないのですが、この時に第10代将軍であるで家治には家基(いえもと)という嫡子がおり、田安家が将軍家となる可能性は全く無かったと言われています。

この家基の誕生にも、田沼意次が関連しています。
田沼意次は、家重に仕えていた御側用人の頃から、大奥がバックについていたと言われています。

第10代将軍・家治は、将軍としては珍しく、朝廷より嫁いできた御台所(正妻)である倫子とは仲が良く、側室を置いていませんでした。二人の間には、2人の子を授かりますが、嫡子となるべき男子が生まれてきませんでした。

この状況に危機感を抱いたのが、田沼意次であり、意次と親密な関係であった大奥老女であるドラマでは冨永愛さんが演じる「高岳」でした。そして、二人が、家治に側室をあてがい、将軍家の血筋を保持することを計画します。

この頃の大奥は、血統の保持システムは完成されたものであり、高岳により選出された「知保の方」が、嫡子である家基を生みます。

したがって、田沼意次にとって第一に考えることは、将軍家の血統の保持であり、田安家の当主問題など些末なことであり、賢丸(松平定信)の事などどうでもよい問題であると。

つまり、田沼意次が、賢丸(松平定信)を江戸城から排除する理由さえないということです。

では、誰が、この養子入りを画策したのか?

ドラマのストーリーとは大分違いますが、消去法で、残るのは、ただ一人、一橋家当主の徳川治済しかありえません。

後の世に伝わる賢丸(松平定信)の養子の話は、寛政2年(1790年)に一橋治済が尾張家、水戸家(御三家)の当主に語った「白河藩藩主・松平定邦が溜詰への家格の上昇(幕府内での大名の序列上昇)を目論み、田沼意次の助力により田安家の反対を押し切って定信を白河松平家の養子に迎えた」という言葉が独り歩きしただけであると思われます。

田沼意次の悪評

更に悪いことに、田沼=悪者=賄賂というイメージが、広がったのも、伊達家仙台藩七代目当主・伊達重村に原因がありました。

この伊達重村は、田沼意次に対して猟官運動(官職を得ようとして、力のある人物に働きかけること。)をした大名の中心的な人物でした。

この伊達重村は、磯田道史さん著の「無視の日本人」という本の中にでてくる人物であり、同書を原作とした映画「殿、利息でござる!」の「殿」がこの伊達重村です。

伊達重村は、己のプライドを満たすため、領民を苦しめてまで贈収賄に挑む暗君。「べらぼう」の蔦重の目線的に言うと「馬鹿くせぇ田舎もんの殿様だな!」と考えられていました。

このために、田沼意次の悪者イメージは、必要以上に膨らんでいきました。これは、現在のアンチによるアイドル叩きと同じ様相であると言えます。

気候変動と政治改革

伊達重村の猟官運動は、確かに当初は、伊達家仙台藩家老が、幕府内で高位の座を得ること、其の為に、なんとしても少将から中将に昇進したい、として幕府に「手入」するよう依頼したのが始まりでした。

しかし、後に、田沼が老中になり幕府改革を断行中には、田沼意次が行う財政改革を積極的に取り入れるために、この「手入」が行われるようになります。

また、この時に金銭等を手渡(手入)したのは、田沼意次だけではなく、老中筆頭の石坂浩二さんが演じる松平武元。そして、冨永愛さんが演じる大奥老女「高岳」は、なんと、桜田御用屋敷内の自邸増築を、重村に依頼したと言われています。

つまり、この当時、賄賂は通常の政治交渉の一つの手段であり、今日ような意味合いはあまりありませんでした。何よりも、田沼意次の通常の生活は、粗末な着物に、貧弱な食事をしており、我々が想像するような悪者のイメージとは程遠いものでした。

そんな田沼意次が目指したのが、財政改革でした。

この幕府の財政改革は、田沼意次だけでなく、先々代の吉宗公など代々の将軍が行ったことでした。

そもそも江戸幕府の財政には、大きな欠点がありました。それが、「米」を経済の中心に置いていたことでした。

しかも、江戸中期になると大阪の米所に米が集められ、商人たちが、マネーゲームよろしく米の価格を上下させており、幕府が統制できないほどの権力を商人が握ることとなります。

しかしながら、それでも幕府は、「米を売ること」を前提に、財政のやりくりを考えていました。

更に、この米高は、気候変動に大きく影響しています。其の為に、財政は常に不安定な状態にありました。つまり、相場の格言にある「卵は一つのカゴに盛るな」にあるように、幕府の財政を米のみに頼って、卵を一つのカゴに盛っており、リスク配分がされていなかったのです。

其の為に、田沼意次だけでなく、多くの大名たちも、米のみに頼らない経済政策を模索していました。

そこで、田沼意次は、不安定な「米」ではなく「金」つまり貨幣経済に移行することにより、幕府の財政を立て直なおそうとします。

しかしながら、武士の間では、金儲けは卑しいものがすることであるという考え方と江戸幕府初期からの「石高制」を一気に改革することは容易なことではありませんでした。

従って、田沼意次は、新田開発や蝦夷地開拓による米の増産をしながらも、金山、銀山の開発そして、大阪の銀貨幣と江戸の金貨幣を統一することなど徐々に貨幣経済へと舵取りを行います。

田沼時代の終焉

財力のある商人たちから、税(運上金・冥加金など)という形で金を吸い上げ、それを全ての階級に再配分することにより、更に、経済は発展していきました。かくして、田沼時代が始まります。

しかし、「金」を中心とした貨幣経済を維持するには、経済規模が大きくなれば、同様に金貨や銀貨を増やすことが必要となります。

日本は資源がないと言われていますが、17世紀には、日本の銀の産出量は、世界の1/3から1/4あったと言われています。これだけの量があれば、日本国内で、金銀により経済を回していくのには十分でした。

しかし、戦国時代に武器の購入により、この銀が国外に流出します。江戸時代になると、銀と金の交換比率の違いから、今度は金が海外へ流出し、幕府はその対策として質の劣る小判を改鋳したこと,その結果,貨幣の価値が下がり物価が高騰してしまいます。

また、江戸中期になると金山及び銀山の鉱脈が枯渇します。これにより、貨幣経済を回していく金銀が不足することとなり貨幣経済が限界へと近づきます。

更に悪いことに、浅間山、アイスランドのラキ火山等の噴火とエルニーニョ現象による気候変動(冷夏)により米の不作が続き、江戸四大飢饉の一つである「天明の大飢饉」が発生します。

この「天明の大飢饉」では、東北地方の農村を中心に、全国で推定約2万人が餓死したと言われており、農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化し、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と8千軒以上の商家が襲われ、無法状態が3日間続きます。その後全国各地へ打ちこわしが波及し政権が不安定となっていきます。

この飢饉の時に、唯一餓死者が出なかったのが、松平定信が当主をしていた白河藩でした。後に、この功績が認められ、一橋家当主の徳川治済の推薦により老中に就任することとなります。

そして、止めが、世継ぎである家基の急死と田沼意次の改革を推し進めるのに最も必要だった将軍・家治の死亡でした。

通説では、家基の急死は、一橋家当主の徳川治済と田沼意次が暗殺したのではとも言われていましたが、その急死直前の状況から、毒殺ではなく盲腸炎による敗血症であることが確実視されています。

これらの不運により、田沼時代は、終焉します。

2023年NHKドラマ10『大奥 Season2』では、この一橋家当主である徳川治済を、一見優しそうですが、実は冷淡で非道な権力の亡者として描かれており、仲間由紀恵さんが、この治済を「怪物」として演じています。

「べらぼう」でも、生田斗真さんが、不穏な演技をしていますが、実際には、徳川治済がしたことは何もなく、ただ、座して待ち、そして、最後に実子である家斉が第11代の将軍となったことだけです。つまり、「子をなした」事だけだったのです。

しかし、敢えて徳川治済を「怪物」と呼ぶとすれば、息子の家斉が15歳で将軍となった後に、大奥と結託して、特定されるだけで16人の妻妾を持たせ、53人の子女(男子26人・女子27人)を儲けさせ、その内の成人まで育った28名を有力大名に養子として送り込み大名を統制したことです。

しかし、家斉の後に、4人の将軍が就任しますが、家斉の死後僅か27年後には、江戸幕府は崩壊し明治維新により日本の近代が幕開けすることとなります。

徳川家将軍継承

以上、歴史を見てみると、「怪物」や「英雄」の様な一人の人物だけでは、歴史は動きません。いろいろな人が、それぞれの想いで生き、お互いに影響し合いながら、歴史が綴られています。

改めて、この歴史の大きさや強さを感じさせられます。


いいなと思ったら応援しよう!