【586/1096】「断れない」に含まれるもの
私は、何かを断るのが下手であった。
今も断り上手ではないが、まったく断れなかった頃から比べるとはるかにましにはなっている。
昔は、街を歩くとティッシュやチラシを断れずに山のようにもらってしまい、それをまた捨てるのも出来ずに、クローゼットの中に大量に持っていた。
いらないけど、もらわないと、この配っている人は困るだろう(仕事が終わらないから)と思うと、断るのはかわいそうと思ってもらってしまう人だった。
自分の都合よりも他人の都合を優先すると、断るというのは難しくなる。
あるとき、何かの研修を受けて、小さい頃に自分に断るという選択肢を与えられなかったので、自分には断るということは許されていないと無意識に刷り込んでいたことに気づいた。
この断るの中には、拒否する、逆らうというものも含まれていた。
私にも断る権利はある。断ってよい。
それを認識したら、少し断れるようになった。
ティッシュを全部もらうことはなくなったし、ポイントカードも「いりません」と言えるようになった。
かなりしつこかったア○ウェイの押し売りを「そういうのは迷惑です」ときっぱり断れたときは、私、断れる!!と自信を持った。
モノを断るのはこのようにできるようになったけれども、人からの頼み事や誘いを断るというのは、別だった。
洋服を買いに行って、たくさん試着してしまったら、何かひとつは買って帰らないと・・・となったし、自分は苦手な人でも、声をかけられると断れずに一緒にお茶してしまう、というけっこうそこはあっさり断ってもいいのでは?というようなことも、「してはいけない」とプログラムされていた。
これは、断って嫌われたくない、いい人でいたいという願望があって、断れなくなっていたことに気づいた。
そのときだけしか会わない店員や、たいして親しくもない人から嫌われたとして、いったい何の不利益があると言うのか・・・と思って愕然としたが、「誰からも好かれるように努力せよ」という刷り込みにより、無意識に断らないようにしていたのであった。
そこに気づいたら、そういうシチュエーションになかなか出会わなくなった。
でも、なんか、「断る」というと、ウッとなるものが残っていて、これは私はいったい何が引っかかっているのだろうかとじっと観察を続けてきた。
そして、けっこう最近気づいた。
それは過去の私の怒りであった。
断る私が許されているのであれば、なぜ、私はあのとき、あんな酷い目に遭わなければいけなかったのかという説明がつかない、そんなことが許されてよいわけがない。
その理不尽を飲み込みたくないという、自分への防衛。
それが、「断れない(断らない)」ということだったのだ。断っていい(拒否、拒絶、逃避も含む)なら、なぜあのように酷い場面で、私はあれを受け入れたのか。
もし、そうだとしたら、あれは私が受け入れたくて受け入れたことになってしまうのではないか、というその恐怖と絶対にそれを受け入れてはならぬという心の叫びであった。
そのとき、身体が硬直し、声も出せず、まったく動けず、解離してその場をやりすごしたのであるが、それは命を守るための防衛行動だったとセラピーを重ねて、今はそう理解している。
だから、あれを私の意志で受け入れたということはない。
けれども、断ってよいと自分に許可を出したら、あれを「ほら、やっぱりそうなんじゃないの」と私の責任にさせられる、それは死んでも嫌だと言うのが、私の「断れないの正体」だった。
命を守るための防衛行動と、断れないはつながっていなくて、私の中にバラバラに存在していたので、「断れない」をよーく観ないとそこに辿り着けなかった。
断れないというよりも、「断ってよい」権利を自分に完全に与えないようにしていた。ある意味では、自分を守るために。
まあもうその守り方はしなくていいよ、ということなのであるが。
というわけで、すごくスマートに上手に断る人というのがいるので、見習って身につけたいと思う今日この頃。
では、また。
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