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"当り前の奇跡"に どれだけ感謝できるか

You wake up in the morning, then open your eyes, and you can see things around you. Even that is a miracle.   Radhanath Swami

朝起きて眼を開けると、自分の眼でものが見える。それすらも、奇跡なのです。-ラダナス スワミ-

Youtubeで聴いた内容からの引用。どの動画だったかは忘れてしまったのだけど、Radhanath Swami(ラダナス スワミ)という、アメリカ人のスワミ(日本でいうとこのお坊さん)の話の一部で、聴いてからずっと心にも記憶にも残っている言葉。

何でかっていうと、私はこれ実感を以て体験しているから。

私はどうも生まれつき目が悪かったらしい。3歳だか4歳の時、保育園の視力検査で「弱視になりかけていた、強度の遠視」という診断を受けてから今日まで、ずっと眼鏡がお友達。(時にはコンタクトもするけれど)

当時眼科医の先生からは「あのまま気づかずにいたら、視力矯正出来ないところまでいっていたかもしれない」と言われたそう。つまり、ほとんど視えないままで生きていかなければならなかったかもしれないということね。

「あのお星さまきれいだねぇ」と指をさしても、違う方向を見ている私をみながら、「どうしてだろう?」と母親は思っていたそう。ちゃんと視えてなかったのね、星も指も。もしかしたら、私はこの時まで、家族の誰の顔もはっきり視えていなかったのかもしれない。

お陰様で、今では裸眼でも1.2くらい視える。ただ、私の眼の奥の筋肉は裸眼でものを見るために物凄く力を使う(変な表現だけど・笑)そうで、なるべく裸眼でものをみないようにずっと言われている。

遠視自体は+3.8のところまでゆるやかになってきたけど、眼鏡での補強をせずにいると強度の近視になる可能性もあるそうだから。確かに、裸眼でも視えるんだけど、ずーっと眼鏡なしでいると眼がものすごく疲れる。眼の奥の筋肉が、焦点を合わせるためにキューーーーンと一生懸命緊張してるのが何となく分かる。だから、眼鏡には感謝しているし、今は自分の顔の一部だとも思ってる。

勿論、眼鏡が嫌だった時期もある。メガネザルって呼ばれたり、「ケントデリカっとのやつやってー」て言われたり。(注:眼鏡を顔の前から少しづつ話していくと、眼鏡に映る眼が大きくなっていくやつね。これが分かる人はきっと同世代よね・笑)

お洒落のために、コンタクトしか嫌‼と思っていた時期もあるし、眼鏡が必要な自分の眼に嫌気がさしたこともある。眼鏡をかけなくてもいい眼をもって生まれた人を、羨ましく思ったことだって数えきれない。

それでも、「視える事に対する感謝」は、多かれ少なかれ常に私の中にある。視えなくなっていたかもしれないことを知っているから。

毎朝眼をあけると、私は部屋の中が視えて、クリスの顔が視れて、自分の今日の表情を視ることも出来る。これは、毎日私に与えられている奇跡。

生涯与えられ続けるかも分からない。いつか失くすかもしれないし、衰えていくかもしれない。当り前のようで、ちっとも当り前じゃない、物凄い奇跡を、私たちは毎日毎瞬与えられている。

視ること以外の、聴こえる事や話せる事。歯や舌があるから味わえて、内臓が機能して、歩ける足があって、触れる手があって、感じられる神経が働いていて、人間として沢山の体験や経験を日々出来ていること。

この全てがどれも、当り前のようで当たり前でない有難い奇跡であること。ラダナス スワミのあの一言は、有難い奇跡に慣れすぎていた私に、この気づきを再びもたらしてくれた。「当たり前」なんてないということ。日常はいつでも"有難い奇跡"で溢れていること。その一つ一つに心を向けてみると、自分がどれだけ恵まれ祝福されていているかを思い知らされる。

そうすると、感謝が沸いてくる。「ありがたいなぁ」ていう感情と共に、胸の奥が開いていくような、解けていくような、そんな感覚になる。

コロナウイルスの世界的な蔓延の影響から、「当たり前が当たり前でなかった」と気づかされた人は多いはず。私もそう。友達と自由に心置きなく、隣に座りながらお茶するとか。帰りたい時に日本に帰れるとか。あれは当り前ではなかった。物凄く有難い奇跡を、日常的に体験させてもらっていただけ。

今は今で、こうして想いを綴れる場所がある。noteというサービスを運営してくれている人々がいて、読んでくれる人がいて、実際に会ったことはなくてもコメントをくれる人もいる。危険に身を犯されることもなく、ゆっくりと出来る部屋があって、ネットがあって、パソコンがあって、動く指と視える眼と考えられる脳があって。。。数え出したらきりがない程の"有難し"の連続で今この瞬間は成り立っている。

"当り前"のような奇跡に、どれだけ日々心を寄せて感謝出来るか。これが日常的に自然に出来るようになると、心の幸福度が確実に増す。日常の中に奇跡が増える。「現実を生きながら毎瞬奇跡を体験する」っていうのは、こういうことなんじゃないかなと、今の私は思っている。

この記事を最後まで読んでくださった方がいたら、是非ノートとペンを用意して、いくつか思い当たることを書き出してみてください。出来たら10個くらい。多ければいくらでも。ただただ思いつくままに書いてみる。いっぱいあるはずだから。そして、自分の中にどんな感情が沸いてくるか、感じてみてください。

きっとみんなそれぞれに、素敵な気づきや学びがあるんじゃないかな💕





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