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どうしてデリダなのか

 私の最近のブームはデリダだ。来る日も来る日もデリダのことを考えている。別に私は哲学・思想系の学生ではないし、かつてそうだったわけでもない。ただの平凡な主婦だ。晩ごはんのおかずと一緒にデリダが私の脳内を占めている。なぜ私がデリダに興味を持ったのか、簡単に紹介したいと思う。

 きっかけは『現代思想 2024年9月号 特集=読むことの現在』の中の石岡良治さんと宮﨑裕助さんの対談「読むことを避けてしまう時代で、それでも本を読むということ」を読んだことだった。


現代思想 2024年9月号 p116

 この中で宮﨑さんは以下のような問いについて考えを巡らせたことを話していた。

AIに本の内容を要約してもらうとか、YouTubeの紹介動画を見るとか、今や実際に自分で本を読まなくても事足りるような手段がいくらでもある中で、それでも読まなければならない理由とは何なのか。

現代思想 2024年9月号 p118

 その通りだ。私はもう本を読まなくてもいい時代に生きているのかもしれない。それでも「読みたい」と思っているし、それどころか「読まなければ」という切迫感さえ感じている。この思いはこれからの私の人生において、時代が変化するにつれて、強くなることはあれど弱くなることは絶対にないだろう。今こそこの問いに向き合わなければいけない。

 宮﨑さんは2024年5月に『読むことのエチカ--ジャック・デリダとポール・ド・マン』という本を刊行されている。その序論を執筆するにあたってこの問いについて考えたとのことだった。ならば『読むことのエチカ』を手に入れないわけにはいかない。私も宮﨑さんと同じ視点を共有したい。

読むことのエチカ 青土社

 さっそく『読むことのエチカ』を手に入れて読んでみた。しかし現代思想の対談を読んだときから想定はしていたが難しい本だ。でも理解したい。この本を難しいからといって放置しても他の本を読むたびに「私はなぜ読んでいるのか」「本当に読めているのだろうか」と疑念が湧いて集中できないに決まっている。元来「難しい」と言われるとますますやる気が出てくる性格だ。なんとかしてこの本を読み解こう。そう決意した。

 ゆえにデリダだ。まずはデリダの基本的な情報や思想史上の立ち位置を調べる。ポール・ド・マンから始めなかった理由は単に副題がデリダから並べられているからだ。デリダを一通り(そんな簡単なものではないことは承知の上で)学ぶことができたら、ポール・ド・マンについても知りたい。

 デリダはフランスの哲学者で、フランス領だったアルジェリアの出身。「脱構築」というのがその思想上のキーワードのようで、ポスト構造主義の一人として認識されることが多い。紹介しておきながら申し訳ないが、現在の私には脱構築も構造主義も端的に説明することはできない。後日またまとめ記事を書くことができたらいいなと思う。

 我ながら行き当たりばったりにかなり大きな山に挑戦することになった。でもなぜか惹きつけられるのだから仕方ない。なぜ読むのか、読むとはどういうことなのか、デリダの言う「読むことの不可能性」とはなんなのか、考え続けていきたいと思う。

 

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