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【プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神】読書ノート Vol.06
こんにちは、こおるかもです。
今日は久しぶりにフォーマルな、こおるかもの読書ノートです。
ただ、これまでのように読書ノートをそのまま載せるのではなく、やっぱりもう少し自分で要約や批評を加えながら書くということにしました。その方が少し時間もかかりますが、自分のためにも、読者の方のためにもなると思ったためです。
ぜひお付き合いください。
プロ倫、そう呼ばれるこの名著は、その学術的な評価ゆえなのか、はたまた、そこそこ分厚めの岩波文庫を読めば、いっちょ前になれると信じられているのか、日本の社会学系の学部生の必読書のようである。
ぼくが学生の頃、同じサークルにいた文系学部の友人が、「プロ倫では~~」とドヤッとしていた顔が未だに忘れられません。そのせいか、なぜかこの本を手に取る気になれないまま、先にキリスト教神学や哲学思想史を独学したあと、これを手に取って読む機会を得ました。
その結果、え?と思うくらい短絡的で、結論ありきで非常にバイアスのかかった本だと思ってしまいました。
なので今日はがっつりヴェーバー批判をしていきたい。
プロ倫の要約
まずはプロ倫の論旨の枠組みをザクッと要約しよう。
資産家の中に、プロテスタントが多い。これは、資本主義の成立過程においてプロテスタンティズムの倫理観が影響を与えたからではないか。
例えば、天職(ベルーフ)という考え方は、宗教改革者マルティン・ルターが提唱した。それは、従来はキリスト教徒の最高の職業は司祭や修道士であったが、これからは世俗の仕事に天職を見つけ、励むことも神の意志であると考えたことによって生まれた思想である。これによって、世俗の労働に励むことが善徳とされた。
しかしながら、欲望のままにお金を稼ぐことは従来は悪徳とされてきた。したがって、世俗内の労働であっても、禁欲的な態度が必要である、これを「世俗内禁欲」という。これを提唱したのが宗教改革期におけるプロテスタンティズムの中心的存在、ジャン・カルヴァンである。
この「世俗内禁欲」と矛盾しない形で、「資産の増殖」を合理的に善徳とするために理解されたのがカルヴァン神学において有名な「予定説」である。
従来のカトリック神学では、人が良い行いをすることが、神の救いに与るための「必要条件」である、とみなされた。これは、行為によって救われるかどうかが決まるため「行為義認」と呼ばれる。
しかし、カルヴァンの提唱した予定説では、ある人が神の救いに与っているかどうかは、その人の行いとは無関係に、あらかじめ「予定」されている、という、従来のカトリックとは真逆の教理であった。
しかし、予定説の枠組みでは、どのようにしてある人が救われていることがわかるのかというと、それはその人が現世で善い行いをしているかどうかを見ればよいという。なぜなら、救いに予定されているほどの人間は、現世でも良い行いに励んでいるはずだからである。
つまり、この予定説によって、「善い行い」は、救いのための必要条件ではないけれど、自分が救われていることを確信するために積極的に励行されるようになった。しかもそれは、カトリックのように「どれだけやれば救いに値する」というような目安が明確なものではなく、無制限的な励行である。したがって、「禁欲的に」現世の労働による善徳を突き詰めていくことが励行される。
ところで、18世紀アメリカの実業家ベンジャミン・フランクリンによれば、資本主義のエートス(規範)とはつまり、「信用=利子」である。つまり、資本を効率よく増殖できることは、その人やその人の事業に「信用がある」ということの証左となる。つまりそれは、善徳を積んだことの証左でもあり、そしてそれが予定説と結びつくと、その人が神の救いに与っている証左ともなるのである。
こうして、プロテスタンティズムの持つ、天職(ベルーフ)、世俗内禁欲、予定説、といった倫理規範が、資本主義の精神と合理的に結びつき、ひとびとを資本の増殖へと駆り立て、近代的な資本主義が誕生した。
(以降の議論に不要な部分は極力省き、
逆に本書には出てこない神学的な補足説明を多く含みます)
ということで、ここからが僕の考えるヴェーバー批評です。
ヴェーバー先生、それは違うと思います。
まず第一に、予定説はカルヴァンが初めて提唱したわけではありません。
予定説をはじめて提唱したのはアウグスティヌス(354-410)です。これはひろく知られている事実のため、ヴェーバーも当然承知であったであろうとは思います。カトリックはそれをずっと(意図的に)誤読して、「行為義認」を公式見解としてきたわけですが、それをカルヴァンは単に指摘しただけです。
しかし、そのカルヴァンにとってさえ、予定の教理は彼の神学の中心的な主題ではなく、彼の唯一の神学体系書であるキリスト教綱要(全4編)の第三篇の末尾に簡潔に触れられている程度です。
ところで、ヴェーバーは、本書の「資本主義」の扱いを、「近代資本主義」に限定する、と何度も釘を刺して議論をしています。彼の言う近代資本主義とは、フランクリンが定義したような「信用=利子」というエートスが成立して以降だということですが、それは18世紀の話です。
しかし、これも経済学の分野においてよく知られているように、近代資本主義の始まりは15世紀末から始まったイギリスにおける囲い込みです。簡単に言えば、封建領主が農業より牧羊の儲かるということで、自分の土地から農民を追い出して、単純労働しかできない多くの市民が都市社会に流入し工場労働者となり、資本家に搾取され始めた時代です。
そしてこの時点で、宗教改革も各地で始まっており、すでに14世紀の段階で、例えばイギリスではウィクリフが明確に、「予定説」をあらためてカトリック教会に対して主張しています。
それであれば、この時期にすでに資本主義的なエートスが誕生していてもおかしくないはずです。
このように、ヴェーバーは資本主義の成立過程と宗教改革の時系列的視点に見落としがあると思います。
第二に、ヴェーバーの解釈では、資本主義が「世俗内禁欲」と結びついていますが、近代資本主義は明らかに禁欲的態度とは言えません。
ここはやはり、カール・マルクスの資本論に立ち戻ってみてみるのが早いでしょう。マルクスの資本論によれば、近代的な資本家の始まりはこうである、といっています。
アメリカにおける金銀産地の発見、原住民の掃滅、奴隷化、鉱山内への埋没、東インドの征服と剥奪の開始、アフリカの商業的黒人的狩猟場への転化、これらのものによって、資本主義的生産時代の曙光が現れる。
これのどこが「禁欲」なのか、ヴェーバーは説明できるでしょうか?
資本主義の精神は、基本的には「欲望の解放」であり、欲望を禁じることとは真逆のベクトルにあるように思います。
たしかに、そうした流れの中にキリスト教界が加担した事実はありますが、それはカトリックとて同じであり、プロテスタンティズムに固有の原因があったわけではありません。まして、その中の特定の教理がそれを後押ししたというのは無理があります。
また、ウェストファリア体制以降は、基本的に政教分離が進み、キリスト教は世俗化していくわけなので、高尚な学者による神学理論である「予定説」が、どれほど為政者や一般信者への生活態度へ波及していたかについては甚だ疑問であり、実証的なエビデンスもありません。
第三に、そしてこれが最も決定的だと思うのですが、資本の自己増殖による利益の追求は、この近代資本主義の成立時点ではまだ「悪徳」と捉えられていた、という点です。
1723年に出版された本に、バーナード・マンデヴィルの「蜂の寓話ー私悪すなわち公益なり」というものがあります。これは18世紀の社会状況を観察したものです。
今手元に本書がないので、ある方のブログ記事からの引用を示すと、こんな具合です。
マンデヴィルがそこから引き出すのは、自由放任と現状肯定の、むしろリバータリアニズム的な主張だ。各種の私悪が、公益につながる。私悪を否定すると、かえって公共にとっては害になる。だから――私悪をなくそうとしてはいけない!
たとえば、当時の町はゴミだらけで悪臭まみれのひどいところだった。でもマンデヴィルは、「そういう私悪は、よく考えれば仕方ないことなんだ、ゴミや悪臭なくして都市の経済活動や産業活動ができるだろうか。だから、それを規制したりなくそうとしたりすることは、経済活動否定であり、したがって人をかえって不幸にする。よって、ゴミや悪臭は我慢しろ」とのたまう。
ここに書かれていることは、「私利私欲を追求して経済活動を推進することは、結局市場全体にとって利益となる」として、資本主義経済における私欲の追求を倫理的に正当化しよう、ということです。
逆に言えば、「私利私欲それ自体は悪徳である」、という前提に立っているわけです。これが18世紀までの基本的な精神性であったといえます。
つまり、私欲を追求することが善徳とみなされる現在の資本主義的エートスが誕生したのは、あきらかに18世紀以降であり、その遠因をカルヴィニズムに求めるのはどう考えても無理があります。
なお、それが決定的になったのは、1776年のアダム・スミス「国富論」において、各々が私利私欲を追求しても市場が全体が適切に成長していくことを「神の見えざる手」と表現したことで、もはや私利私欲は悪徳ではなく、積極的に市場の原理に任せれば良い、経済学的に正当化されるようになってからです。
全般的に、ヴェーバーに致命的なのは、18世紀の近代主義や功利主義に代表される時代の精神性の発展と、キリスト教の発展(特にアメリカにおけるラディカルなプロテスタント)を混同して議論している点、そしてそれをあたかもすべてカルヴィニズムの予定説に根源があるかのように、物事を単純化して説明している点にあると思います。
これは、有名なファクトフルネスでも指摘されていますが、人間には単純化本能があり、世の中の様々な問題に、ひとつの原因を当てはめてしまう傾向があります。
ヴェーバーのこの理論は、この単純化本能の典型例ではないかと思います。
そして、これが広く受け入れられている事自体が、読者が単純な理論を好む傾向にあることを示しています。
(投稿後追記)例えば、この予備校のページのように、高校生に対して極端に単純化して通説が流布されているのを見ると、絶望を感じます。
![](https://assets.st-note.com/img/1717881323279-9ClO2eUAv3.png?width=1200)
実際のところ、こうした問題はもっと複雑で、歴史をたどって何か特定の原因に還元する、ということは非常に難しいと思います。
はい、ということで、いかがでしたでしょうか。
個人的に、勉強していてとても面白いポイントがたくさんあったので紹介しました。
読まれた方は、「こおるかもはキリスト教びいきなのか?」と思われた方もおられるかもしれません。
そのため一応書き添えておくと、ぼくはまったくキリスト教を贔屓する意図はありません。尊敬する作家である佐藤優さんの著書を読み漁っているうちに面白くなってきて、人よりもちょっと詳しいだけです。
ただ、ぼくが勉強したところ少なくとも言えることは、近代主義的なヒューマニズムや功利主義というような考え方は、確実にキリスト教的な精神とは真逆のものです。キリスト教は、アンチヒューマニズム、倫理的には義務倫理的な側面が強いものであり、真っ向から衝突しているという理解です。
それなのに、まさか資本主義の精神がキリスト教に原因があるだなんて、どう考えてもおかしいと思ったので、自分の中で考えを整理して、本記事を執筆した次第です。
また、こうした近代主義とキリスト教の対立は、今の世界を理解するうえでも非常に有益だと思っているので、読者の皆様にも興味を持っていただくきっかけになれば嬉しいと思いました。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。
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