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人が動物に変わる……映画『動物界』の超現実と寓話(ネタバレ有感想・考察)

考えたことがあるだろうか。
もしもあなたが、人でない生き物に変わるとしたら……
それも、タヌキが頭に木の葉を乗せて煙がボン、ハイ今日からこの動物です!変身完了!といったような、“話の早い変わり方”ではないとしたら……。

ポスターヴィジュアルと予告編を目にして以来楽しみにしていたフランス発のスリラー『動物界(原題:Le regne animal)』がいよいよ日本で公開となった。
予告編で観た世界観と題材をハリウッド映画的な文脈で噛み砕けば『バイオハザード』的なSFアニマルパニック映画になりそうなものだが、私はそんな一筋縄の予測は全くせず、どんな難解さ、アート表現が来てもフラットに浴びるべく直前まで何の予想もせずに無の精神で映画館へ向かった。
何せフランス映画だからな。
(※伝わりにくいかも知れませんが、私はフランス映画が好きです)

新宿ピカデリーさん『動物界』ポスター。麻辣ポップコーン美味しかったです

今回は、今もまだある複雑な余韻を敢えて言葉で残しておくべく、映画『動物界』の個人的感想・考察を書いていく(一部Filmarks、X投稿文に加筆)。

※冒頭のあらすじを書いてから、警告文を挟んでネタバレを含む文章となります。


■冒頭のあらすじ

車中で愛犬と触れ合いながら憎まれ口を叩き合う、高校生くらいの少年エミールと父フランソワ
ある場所に向かっている彼らだが、あいにく交通渋滞に巻き込まれていた。
突如、人々のざわめきが起こる。
暴れる一人の男が取り押さえられている。その腕には、大きく広がる褐色の――

※この先、登場人物や展開に触れてのネタバレ有り感想・個人的な考察となります。ネタバレ注意!!



□現実的に突き放し、しかし精神を突き刺す生々しい寓話

「人間に突然変異が起こり、動物へ変わってしまう」
物語は、そんな現象が起きはじめて2年が経過したフランスを舞台とする。
動物化した人間は「新生物」と呼ばれ、変異は病と見なされているようで、動物化を遅らせる投薬治療や入院隔離等、医療によって対応がなされている状況のようだ。

映画はこの“動物変異”に関して、原因がこうだとか、これはこんな意味で起きているといったような「理由」を突き止めたり多くを語ったりはしない。
この観客に他人行儀を貫く、解決によるストーリー閉幕を目的としない、突き放した不可思議の完走がフランス映画らしくも、そこが良い。

しかし、序盤から、冒頭でいきなり巻き起こる“専用らしき医療機関めいた車警察らしき組織に護送・鎮圧される暴れる鳥男”の騒動と、それをさしたる事ではないように溜息を交わす人々から勿体ぶる事なく
「世界はこうなって久しいですよ」
をいきなり突きつけ、観客に
“スクリーン内の世界もかつて、わけも分からないままこの状況に放り込まれた”
という劇中の人々の状況を追体験させてくれる。
冒頭のこのシークエンスに心を掴まれ、激しく動揺した。
いきなりでありつつ、前述の描写から即座に
・医療が対策している事(病気の症状?)
・警察の護送体制が整っている事
・あんな鳥男を見ても溜息レベルの人々
という視覚情報が、この世界ではあんな動物人間の存在が日常となって久しいのだと一発で理解させてくる。そして暴れて押さえつけられた鳥男から、
・動物化した人間は危険ないし理性がなくなるのでは?
とうかがい知る事もできるのだ。

映画は、この衝撃的な人々の変容がボディホラー的でありつつも、モンスターパニックものでも、動物人間元に戻そうぜ部隊の冒険を描くでもない。
動物化した当事者やその家族・社会の差別・恐れ・寛容また分断といった、人間社会のゆらぎを中心に据えた心理的SFドラマである。

近年のパンデミックで、世界の様子にも、スーパーマーケットの客のモラル一つにも、少なからず似た人間性の混乱やニューノーマルを目の当たりにし続けた私にとっては、とても生々しい要素の投影された“恐れと排除と現実逃避の寓話”に映った。

□徐々に生まれ変わる肉体、薄れる人間性の恐怖と哀しみと、先にある「答え」と


記事の最初にも書いたが、本作における動物への変化は一瞬で変身完了!となるわけではない。
形のない自覚症状から、客観的違和感を経ながら、やがて仕草や外見を変え、言葉や精神さえ失っていく……滲むようにしてゆっくりと進行していくものだった。

人体が獣の特徴を呈していく様は、動作や容姿のショッキングな視覚的変異だけでなく、急に力持ちになる、体臭が増す等の体質、五感と感情の異変でも、多角的に段階的に描かれており素晴らしい。

このへんの丁寧な描写は、筋力にはじまり精力等の変化から、剛毛が生え、壁歩行ができ、最後には
“優れた存在の遺伝子を残す”本能
が、マッドサイエンティストの
“素晴らしい研究なんだから成就させねばならない”という狂気
とシームレスに同調していくクローネンバーグの伝説的異形ボディホラー『ザ・フライ』に匹敵する。
子供の頃初めてあの映画を観た時に感じた恐ろしさ、グロテスクさ、何よりも、心を失っていきながら、心が無くなったというそれすら分からないという哀しさと、非常に近い感覚を受けた。

動物になりかけの人や、ほぼ完全に動物になってしまった人という「段階の違い」。
鳥、爬虫類、軟体動物、昆虫など「変異先の違い」。
そしてもしも人間の歯が牙に、瞼が瞬膜に変わるとしたら……といった様を映像で見せるヴィジュアルはいわずもがな。

徐々に動物(オオカミ?)化していく主人公エミールの状況に並走していく中で、はじめは新生物が潜んでいそうな怖さと不安を感じる、鬱蒼と茂る無人の森の闇が、映画の展開に伴い、人のいない安心できる暗がりに感じられる没入感に、“動物化”の追体験としてじわじわと打ちのめされた。

□「交わされた最後の心と言葉」の結末と、その先の世界に馳せる思い

動物化を隠し通す事に限界を迎えたエミールと、息子の様子にそれを悟ったフランソワはラスト、保護してくれた警察に暴行を加えて逃亡し、車で森までたどり着いた。
(この映画は、冒頭の渋滞に始まり「父子のドライブシーン」を折に触れて様々に重ねていく構成なのだが、映画の最後も“最後の”ドライブである)

クマに成り果てても息子を識別できた母の事をフランソワに伝え、エミールは森へと飛び出す。
すぐそこまで警察が迫る中で、エミールは新生物として父の、人の元を去っていった。

このラストに思い出した日本人も多そうなので書いておくが、類似のテーマや似たキャラクター設定の作品に出会う度折に触れて言ってきたし考える、私は日本の某狼子供アニメの描いたものが倫理的に――おそらく人間に関する監督の美化したいものや倫理観・責任感と私のそれらが大きくずれてて――受け入れられない。
(人気作品なのも知っているし、勿論可愛い感動作として受け止めるセンスのあるたくさんのファンを否定はしない)
このアニメーションの結末に似て異なる、美学的対極にあるとさえ感じているのが、森で保護された姉妹を描く『Mother』である。こちらはエンディングまで通して大好きな作品だ。

動物として生きることを選んだ息子を、文明の外に見送る――『動物界』のエンディングは、例の狼アニメのたたみ方と似ていると思いつつ、“決断”の本質が異なる。それは人と獣の交差する「因果」の面での差である。
これ以上は余談かつ映画を観た人なら感じられると思うので省くが、『動物界』のエミールの決断と父フランソワの決断は、双方にとって因果のない理不尽の中で彼ら自身が選んだ形、として、私はとても好きだ。

だが私にとって、物語の余韻はエミールとフランソワの別れだけにとどまらない。
劇中の範囲だけでない、あの世界のその後だったり、現状として、社会のそこかしこで何が起こり得るかをありありと想像させるリアリティが想像力を止めさせてくれないのだ。

たとえば、新生物に人権や救済、保険での医療を認めるかどうかといった新法律
もっと言うと、動物と人間を分けて考えるキリスト教的な考えに基づく新生物への宗教的弾圧。また、新生物を特別視したり信者として囲う崇拝的新宗教の出現
(ある特定の信仰において地位のある者が、ブタやヘビなどその信仰上穢らわしいとされている動物に変異した時にどうなるか、等も、不謹慎ながらどうしても考えてしまう“起こり得る出来事”である)
もっと身近なものなら、自分や家族の変異を動画として残そうとする配信者
これまでの歴史で家族のマイノリティカムアウトに際して起こったような、家庭崩壊や自殺といった悲劇
伝説へのこじつけ。
新たな美的感覚と(性的・恋愛的)新生物愛好の人間のようなクィア、動物化願望、敢えてはっきり言うが、新生物ポルノ。それへの二次的差別や、表現の自由問題。
いわゆるケモナー嗜好者が新生物を人身売買するダークウェブや、新生物化した我が子をその市場に売る親。
一部の国での薬用利用、食肉としての検討、ペットや闘わせる娯楽の是非と、付随する交配の是非……とか色々。

考えついては自分でもキツくなるものもあるのだが、本当に、考えても考えても止まらない。
逆に、すぐさま特効薬が開発され、あの世界から動物化が無くなる未来だってある。

……これはまあ、私が『シン・ゴジラ』の片隅のシーンでゴジラ保護派vs駆除派の騒ぎとか、『パシフィック・リム』の某国の寄生虫成金やアートセンスから来る美術転用とかが大好物であり、ああいう描写があると、世界への民俗学的掘り下げの解像度の高さにめちゃくちゃ引き込まれるという癖があるので、映画がメッセージ性として込めた思考の余地とかじゃなく、私の単なる妄想の拡大でしかないけれど。

でもそもそも、劇中描かれる有識者があの医療者しかおらず、あの世界での説と映画の宣伝文句で“動物化はパンデミック(感染爆発)”と言われているだけで、我々は(ひょっとしたらたらあの世界の人々も)動物化を引き起こす感染の正体(ウイルス)も原因物質も感染経路も示唆されていないはずだ。

――新生物は人類の、種としての更なる進化のさきがけである可能性はないのか?
社会的でなく野蛮な力、欲望、衝動を我々は動物のようだと、「獣性」と呼び、恐れ醜いものだと考える。
なのに、肉を裂く鉤爪や体表を覆う甲鱗、細やかに光をたたえる毛皮、空を横切る翼が――ヒトと文明にまつろわぬ野性の肉体が――こんなにも美しく、神々しく見えるのは。

これが、我々人間の超越への遺伝子的憧憬から来る感情なのだとしたらそう、新生物は――。

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