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探究学習とチェックイン

先日、久しぶりの帰省が思わぬ長期滞在になった。

3月17日に岩手を出発する予定を組んでいたのだが、仕事の調整がついたので予定を前倒して16日のうちに移動。

そして、茨城の実家で16日の地震を迎えた。

私のスマホには岩手の緊急地震速報が届いて、茨城の緊急地震速報が届いて、リビングのテーブルの下に潜り込むほど揺れて、停電した。

3.11の時を思い出した。
あの時も、高3で卒業式を終えた私は実家にいて、ちょうど遊びに来ていた友達と一緒にリビングのテーブルに潜り込んだのだった。

でも、あの時と大きく違うことがあった。
それは、岩手や東北に大切な仲間たちがたくさんいるということ。

大切な人たちと離れている状態で、緊急事態が起こるということがいかに不安かを思い知った。

その後、東北新幹線が事故で運休していると分かり、急いで帰宅手段を探して、21日に帰る予定が25日に延びた。

1週間以上家を空けるなんていつぶりだろう。
途中、泊りがけの出張もあったのでずっと実家に滞在していたわけではないが、いつも1~2泊の弾丸帰省ばかりだったのでだいぶ長く過ごした実感だ。


高校時代の恩師と再会

ただ今回、副産物というか、よい副作用のようなことが起きた。

実家にいるついでに、高校時代の恩師である中山先生に連絡を取ってみたところ、ちょうど都合がついてお会いできることになったのだ。

しっかり会話したのは大学時代に母校で教育実習した時以来だろうか。
社会人2年目あたりで同窓会をした時にちらっと会ったが、それでも私が紫波町に来る前だから、5年以上経っている。

私にとって、探究学習の楽しさを教えてくれた大切な人であり、中国史を専門とする中山先生のマニアックすぎる世界史の授業のおかげで、ずっと嫌いだった「歴史」に興味を持てるようになったり、人間関係の悩みを相談したこともあったり、学業面でも生活面でも大変お世話になった恩人である。
本人に伝えたことはなかったけど。笑


学びたい私を開放してくれた「探Q」

私の出身校は、もともと普通科国際科に分かれていたところを、私たちの入学年度から一括募集することになり、2年次にスタンダードコース・アカデミックコースのどちらかを選択するという形に切り替わった。
私たちがアカデミックコース1期生だったわけだが、県立高校進学校ながら、かなり前衛的な取り組みをいろいろと始めたタイミングだったように思う。

象徴的だったのは、スタディツアーと名前を変えた秋の修学旅行。
旅程の半分以上はシンガポールの大学に滞在し、現地の先生から英語で講義を受け、自分たちも調べてきたことを英語で発表し、現地の大学生と交流する時間もあった(ように記憶している)。

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2009年秋、ナンヤン工科大学にて

この一括募集・アカデミックコース創立に際していろいろと先進校へ視察したそうで、結果的に、先生方肝煎りのような形で始まったのが高2の1年間をかけてクラス横断的に開かれた「探Q」という授業だった。

簡単に言えば、生徒それぞれが自分で興味あるテーマを決めて、分野の近い人とゼミをつくり、教科担当の先生や外部講師の力を借りながら探究学習をして、最後は論文という形でまとめる。

ちなみに私は大学でゼミが始まった時、これって探Qでやったやつじゃん、と思った。
それくらいクオリティの高い探究学習だったと思う。

高校から自転車で行ける距離にある筑波大学の先生からもサポートを受け、研究を手伝ってもらったり、大学図書館を利用できるパスをもらったり、大学で発表してフィードバックをもらったりできるよう体制が整えられた。

当時私は日本の政治に興味があって、最終的に論文のテーマとして選んだのは「国債」だった。
それまで誰にも言ったことがなかったけれど、自分が心から「知りたい!」と思えるカタいテーマだった。

義務教育期間からずっと、勉強=ダサい、みたいな周りの風潮に流されて、どんなに頑張って勉強しても「ぜんぜん勉強してないんだけど~」と言わなきゃいけない雰囲気に無理やり合わせながら、悶々としていた

勉強すること学ぶこと、「知らないを知ること、「なぜ?を深めることが、本当は好きだったから。

だから、「探Q」で自分の興味分野をとことん調べたりゼミで真剣に議論できたりすることが本当に嬉しかった。
学ぶということに正面から向き合って、プレゼンして、それを論文というカタい文章でまとめて人に読んでもらえるという経験はものすごく大きかった。

カタいことって、ダサくないんだ
学ぶことって、隠さなくてもいいことなんだ
と、初めて思えた瞬間だった。

これがあったから、その後大学受験に向けての受験勉強も頑張れたのだと思うし、自分のやりたいことや、興味・関心を突き詰めることこそが「自分らしい生き方」なのだと今思えていることの大きな要因だと感じる。

卒業間際のクラス写真(最上段右から先生と私)

余談だが、パソコンのデータを遡ってみたら「探Q」と名のついたワードファイルが出てきた。

何かの回答が書かれていたのだが、問いの内容が書いていないので推測すると、高2で探求が始まるときに「あなたの探Q活動の目的はなんですか?」みたいなことを書かされたのだと思う。

これを読んで、私はやっぱり「書く」ということを大切にしてきたんだなあと感じた。

探Q活動の目的。
それはよく、「大学受験で役立つから」と言われます。しかし、探Q活動の本質はもっと深く細かなことだと私は思っています。
文章を書くことがメインとなってくる探Q。この“書く”ということは、言葉を持つ人間にとって基本となる行為でもあり、実はとても難しいものでもあります。
単に“書く”のではなく、言葉を選び、組み立て、論理的で分かりやすい文章へと作り上げていくのは、意外と難しいもの。だからこそ、小論文などが課題として出されるのです。
探Qでは、普段の勉強では学べない、例えば国際問題等々、多少難解なテーマについて考えをまとめ、それを文章に書き起こす。それを通して自分の中の“気づき”のようなものを他人に伝えることができるようになります。
したがって、探Q活動の行きつく先は「自分を表現する方法」を広げる、ということなのかもしれません。

2009/06/04最終更新


ちゃんと繋がってきた今

そんな中山先生と再会して、現在は次の赴任校へ移りながらも、相変わらず探究学習やプロジェクト学習の一端を担って前線を走り続けていることを知った。

学校近くの商店街と連携して、地域活性化のようなプロジェクトを生徒たちと一緒に進めているのだそう。

年賀状等で、私が岩手にいること、地域おこし協力隊をしていたことなどを把握してくれていたようで、ぜひ話したいと思ってくれていたらしい。

私自身も、頭でっかちで正論ばかりぶつけていた高校時代の自分ではなく、自分の足で歩くと決めて紫波町に移住し、葛藤や失敗を繰り返しながら地域で暮らしている今の自分として中山先生に再会できたことがとても嬉しかった。
(当時は暫定的な夢が「政治ジャーナリスト」だったなあ、と思い出した)

卒業アルバムのメッセージ欄

やっぱり私の人生の目標は、こども(次世代)の育ちに関わることであるし、自分自身がこどもたちにとって面白いロールモデルの一人になりたいと思っているから、探究学習プロジェクト学習を現場で頑張っている先生とのご縁をこのタイミングで紡ぎ直せたことは非常に感慨深いし、ここに繋がってきたんだなあ、とじんわりした。


場に「チェックイン」するさとのば大学の文化

少し前の投稿で、この4月から、日本のおもしろい地域でのプロジェクト実践とオンラインツールを用いた対話型講義のハイブリッドで学ぶ「さとのば大学」の事務局として正式にジョインするということを書いた。

さとのば大学との出会いや期待、私が果たしたい役割みたいな話は、改めてちゃんとまとめたいと思っているが、今回中山先生と話したことはまさにさとのば大学と同じベクトルの話で、やっぱり最高のタイミングで導かれているのだなあと感じた。


ちょうど今回の帰省のタイミングで、さとのば大学事務局の全社ミーティングのようなものが開催され、私もそこへ参加できることになった。

普段はみんなリモートで働いているが、現地に集合できる人は対面で、と半数以上が集まる形になり、(オンラインでは会っているけれど)その場に集まった全員と初対面することになった私。

4年以上の付き合いながら初めて対面する方もいて本当に嬉しかったし、それぞれの内面メンバーシップを確認する場面もあり、これから正式にメンバーとなる上でとても有意義な場であった。


さとのば大学の事務局や受講生・卒業生のコミュニティで、とてもいい文化だなと思うところが「チェックイン」というコミュニケーションである。

ホテルに宿泊する際に手続きをする「チェックイン」のように、その場に参加する手続きを踏むようなイメージ。

とあるゲストハウスにチェックイン

1人30秒~1分程度さらっとしゃべるだけなのだが、今の体調や気分その場に期待することなどを二言三言共有することで、本人の参加意識も上がり、周りの理解も促進されてその後のコミュニケーションが円滑になる気がする。

特に、オンラインのコミュニケーションでは相手の雰囲気などが分かりづらい。
顔色が悪く見えるのが、単に部屋の照明が暗いからなのか、体調が悪いからなのか、ということが分かるだけでもコミュニケーションの取り方が変わってくるなあと実感している。

伝える、ってやっぱり大事だなあと。


自分の「価値」は自分で伝える

というのも、以前こんなことがあった。

職場のパートさんで手術をしたほど大きな持病を抱えている人がいたのだが、外見上は全く分からなかったし、人当たりも良く、責任感の強い人だったので、きっとこれまでバリバリ働いてきた人なのだろうなと私は思った。

一方で上司は、仕事が少なくなると彼女の体調を気遣って
今日はもう帰ってもいいよ
と声をかけ、
彼女も「ありがとうございます」と言って早退していた。

だから、彼女が
早く帰れと言われるのが辛かった
という理由で1年もしないうちに辞めてしまったのは衝撃的だった。

上司なりの配慮が、本人には
病気というレッテルを貼られ、自分が軽く見られている
と感じさせる声掛けになっていたのだ。


私が上司だったら。
あるいは彼女本人だったとしたら。
どうすれば良かったのだろうと深く考えさせられた。

確かにパートタイムで働いていると、働いた分しかお給料はもらえない。当たり前だけれど。
早く帰ったらその分稼げないわけだし、有給だって多くはないから、正社員の早退パートの早退はかなり違うものである。

それでも、今考えると、彼女が自分の価値を他者に委ねてしまっていたところが、上司とのすれ違いを生んでしまった原因なのではないかと感じた。


かつて私もそうだったが、特に日本人において、人に評価されることでしか自分の価値を認められず、自分のスキルや経験、人間性などの水準自分から提示することが苦手な人は少なくない。

「他者に認めてもらう」ことがどの程度必要か、という議論は置いておくとして、やっぱり、自分で決めなければ、他者には認めてもらえないと思う。
少なくとも、自分のことを理解してもらうためには、伝えることを怠ってはいけない。

そう考えると、彼女の場合、
私はこういうことができる人間なので、この仕事は責任をもって任せて欲しい
とまず伝える必要があったのではないか。

その上で「体調が優れないときは自分から相談します」などと取り決めておく、という術もあったはずだ。

そこには、パートも正社員も変わりないと思うし、持病のことだって、あまり関係ないのではなかろうかと思った。


自分のことを話すのは、ちょっと勇気が要ることかもしれない。
でも、慣れてくると、だいぶ生きやすくなる(と私は思う)。

ワークショップもチェックインから

だれかの事情を、他人が推察することはかなり難しい。
特に、目に見えない痛みやしんどさは、本人にしか分からないものだ。

私も片頭痛とともに生きているが、薬を飲んでもどうにもならず、今すぐ横になりたい時もあれば、痛みを我慢してでももう少し頑張りたい時もある。

かつて2年間一緒に働いた男性の先輩は、私が頭痛薬を飲んでいるのを見ると
あ、今日痛い日なんだね。しんどい時は言ってね
とだけさらりと声を掛けてくれる人で、私はものすごく救われたのを覚えている。

それは自分のできないこと苦手なこと体調や特性のマイナス面にも言えることだけれど、反対に、できること得意なこと自分の価値なんかも、しっかり相手に伝えられるようなコミュニティづくりがしたいと改めて感じた。

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