「嫌われる勇気」を読んで(前編)
同僚が良かったと言っていたので、「嫌われる勇気」を読んでみた。
この本は「アドラー心理学」という学問について紐解く内容なのだが、その事前知識すらなく読み始めた結果、世界が変わった!というほどの衝撃を受けたので、noteに記すことにする。
トラウマは存在しない
アドラー心理学では、「目的論」という考え方がある。遂になる考え方は「原因論」と呼ぶ。
例えば、「過去にいじめを受けたから引きこもりになった」といった原因→結果と考えるのが原因論の考え方だが、このように全ての過去の出来事によって結果が規定される場合、いじめを受けた人は全員引きこもりにならないとおかしいと哲人はいう。目的論においては「外に出たくない」という目的を達成するために「いじめを受けた」という出来事を持ち出しているにすぎないと。
本当に引きこもっている人を想像するとも好き好んで引きこもっているとでも言いたいようなかなり乱暴な論理に思えるが、何らかの目的を達成するために「引きこもる」という選択肢を選んでいる、つまり今後の目的次第では違う選択肢を選ぶことも可能になる、という意味で「人は変われる」ということも頷ける。
同様に、感情の支配についても言及している。例えば、「カフェの店員にコーヒーをこぼされて買ったばかりのスーツが汚れてしまったため、大声でウェイターを怒鳴った」という事象に対しても、スーツを汚された→怒った、という因果律ではなく、あくまで目的論で考えている。
全ての悩みは人間関係の悩み
劣等感と劣等コンプレックスは違う。例えば「学歴が低いから、人の何倍も勉強しよう」と決心につながるような劣等感は健全な成長を促すものだが、「学歴が低いから、結婚できない」と言った劣等感を言い訳に使い始める状態は劣等コンプレックスだ。これをアドラーは「見かけの因果律」と呼び、本来因果関係のないところに因果関係があるように見せて自らを納得させてしまう、と。言い換えれば、「学歴さえ高ければ、結婚できる」という可能性の中に生きることができ、「勉強する」という努力をせずに、現状を変える勇気を持たず、今のままでいると言う楽な選択を選んでいるだけだ、と。
これは自分自身にとっても相当耳が痛い言葉だったし、まったくそのとおりだと感じた。
さらに言うと、劣等感も「客観的な事実」ではなく、学歴が低い=劣っていると結びつける「主観的な解釈」によってもたらされるものであり、この世界に他に誰も存在していなかったらそもそも感じることもない、と。人生は競争ではなく、私たちは誰もが違うことが当たり前。しかし、その「違い」を善悪や優劣と絡めることなく、「同じではないけれど対等」と理解する必要があると哲人は言う。他者との違いを比較・競争・優劣に持ち込んでしまうと、たちまち権力争いにとなり「自分は正しい」「負けたくない」といった感情が発生してしまう。人生は他者との競争ではないし、そもそも主張の正しさは勝ち負けとは関係なく自分が正しいと思えばそこで完結すべき話だ、と言うアドラーの主張についても、競争に揉まれる社会の中では到底辿り着けない概念だったと思う。
直面する人生のタスク(課題)をどう乗り越えるか
アドラー心理学では、人間の行動面と心理面について、かなりはっきりとした目標を掲げている。
そして、これらの目標は「人生のタスク(課題)」と向き合うことで達成できる。アドラーは人生の過程で生まれる対人関係を「仕事のタスク」「公有のタスク」「愛のタスク」と呼んだ。
そして、さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとすることを「人生の嘘」と言っていたそうだ。人はその気になれば、聖人君子のような人でも悪いところたくさん見つけられるような生き物で、他人の悪い面ばかりをみて対人関係を回避し続ければ、世界はいつでも危険なものになる。自分のライフスタイル(人生のあり方)を他者に責任転嫁するのではなく、自分で選ぶために必要なのが「勇気」なのだと。
学びが多くて、あっという間に2,000字に到達してしまった。
全5章の本書もまだ2章までしか書けていないが、最初の方が読んでいてインパクトが強かったこともあり、備忘のため多く記している。
続きは後編で書きたいと思う。
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