2024年の振り返り「芝生を育てなおす」
もう1年が終わってしまう。。。
Hai… 今年やるといったことをやらないまま1年が爆速で終わろうとしています。NOTEでも有料記事を書いていこうと思って準備していた「海外就職の話」も永遠に下書きに格納されたまま出てくる気配もない。
>> どうなってんだ自分 <<
最近はオンラインゲームに居座る時間も激減し、極寒のハイスペックゲーミングPCが開くのはNOTEばかり。ここ1年で改めて自己理解したことといえば「私はシリーズものは書けない程のルーティーン音痴」であるということ。ここ数年世界的に流行っているMBTI診断で毎度ルーティーン作業ができない自由奔放な運動家(ENFP)に選出されるだけあります。ENFPの人ってどんな仕事してるの?オフィスワークでルーティーンとかできるENFPとかおるんかな?(失礼なことを。。。
当たり前よ、さようなら
改めて気付いてしまったこと
最近、ちょっと他のNOTEでも書いた記憶がうっすらあるのは、30代後半から兎角「当たり前なこと」に戸惑うようになってきているという話。
特にコロナ以降、「(祖母みたいに)ガミガミおばあちゃんになれるまで平和に生きれる時代は来ないかもしれない」と不安になったり、昨今の選挙と政治家の云々を見ていると「国がずっと国民のために健在な国運営をしてくれそうもないな。。。」とか、ずっと昔から続く当たり前だと思っていたことが本当に来るのか不安になるんですよね。時さえ流れたなら当たり前に訪れることだと思っていたことが来ないかもしれない、しかも結構リアルに。
「そんなさ、心配しても仕方がないことなんだよ」なんていう人は多いし、そんないっぱい考えていたら疲れてしまうよなんて労ってくれる人もいるのだけれど、何かあればすぐにみんな冷静さを欠いてしまうってのも見てきたのも事実。一番記憶に新しいのはコロナのはじめの頃、世の中からマスクが根こそぎなくなった。規律の日本といわれた母国ですら、買い占めが多発して、法外な値段でメルカリにマスクが大量に流れたんだよね。あの時は世界中がパニックだったけれど、日本は元々監視文化があるからか、あることないことみんなが言い合ってお互いを監視し合ったりみたいなことが起きていて、軽い咳喘息持ちの私は相当肩身の狭い思いをした。ワクチンを打つ・打たないでも双方が双方で攻撃し合ってて、仕事仲間が「ワクチンを打つなんて馬鹿だろう!世界はそんなのを摂取しない人が賢い人なんだ、みんなワクチンのからくりを分かっていない!」と毎週私を攻撃してきたっけなーとか。そうやって安心安全だと思っていた世界はちょっとした弾みにいとも簡単に崩れてしまうくらいもろくはかないものなのかもしれない。
自分の身の回りを俯瞰した2024年
そんな色んな世間の変化を見た私たち姉妹の最近の関心事は「食の安全」。日本の食は安全だ!っと小さなころから当たり前のように思っていたし、なんなら海外生活中は日本の食に対しては誇りに思っていました、はい。
でも最近少しずつだけど妹の食へのこだわり?の影響もあって、徐々にその概念が自分の中で変化しているんですね。前提として今の世界、私たちは常に添加物や化学薬品たちと暮らさざるをえないんですよね。でも、それが健康という意味ではとてつもなく危険かもしれない!みたいな感覚です。
一時期エックスかなんかで日本の添加物は日本一でみたいな投稿がバズったのだけれど、果たして評価基準も違う世界と比べてその数が多いのかについては良く分からないから私はそこをヤーヤーする気はなくて。。。ただ、自分の中で理解しているのは私たちの国は他国より賞味期限の基準がとっても厳しくて、かつ潔癖な国民性であり、更に輸入に結構な品目を頼り切っているということ。そこに更に便利と流通の高みを目指した結果が添加物って切っても切り離せない便利なものなんだよなと思うんですよね。要はいいところも悪いところもあるってことなんだけど!
こういった話は医療業界にも言えることで、最近ワクチンの是非とか、日本のワクチン製造会社について不買運動が起きたり、色々アンチ・ワクチンみたいな流行になりつつある。ふっと我に返るのが、一時期あれだけみんなで奪い合ったコロナワクチンの安全が今世界中で議論されていているという事実で、ある日までのヒーローが何か一気に相当悪い物になって制裁を受ける図って感じなんですよね。ワクチンは本来?人の命を繋ぐために開発されたかももう分からないけれど、実際には多くのワクチンが伝染病の拡大を防いできたのかもしれない。(例えばチフスとか?)
ただ最近はSNSの発展もあって、エックスを中心に一部の医療従事者のみなさんが「提供する医療は必ずしも人のためにない」とか「政治とカネの問題で1接種いくら儲かるからザルのように接種させる医療機関があるんだ」とかいう裏話を公表してるので、世間はしばらくはこの話題でお怒りになるでしょうけど。。。でももし次の瞬間、本当に人がバタバタ死ぬ伝染病が流行ったら?たぶん必死になってまたワクチンを奪いあうんだろうな。。。
みたいなことを何かちょっと他人事みたいに俯瞰して考えていると、感情がすーっと抜けていく感覚を覚えたのも2024年だったりして!
なんだかんだ大切なことって自分が何を信じるかを自分で取捨選択する勇気と覚悟だったりして?!だってさ?本当のことなんていうのは結局私たちみたいな国民にはほぼ解き明かすことなんてできないんじゃないかなっと歴史を見ていても思うから!
例えば私たちの親世代まで絶対的だった映像メディアや紙面メディアも結局今や一般市民から面白そうなところだけかいつまむような国有メディアに成り下がってしまって有耶無耶なことには一切触れないでしょう?だからSNSという新しいメディアが発展してああだこうだ情報を公開する人が増えている。しかもそれがマネタイズされるものだからって今の世は大フェイクメディア無双時代になってしまった。それが分からなくて多くの人が良く分からないファクトチェックしないメディアに一喜一憂している。これからは新しいメディアリテラシーが必要になってくるんだろうけれど、世間がそれに追いついていない。そんな世の中で絶対的なとか、真実はとか、社会的にとかなんて「標準」「基準」を追い求めていたら、情報に圧倒されすぎてあっという間におばあちゃんになってしまうよ。もうこんなに複雑化した社会で判断というよりも納得できるのは自分自身が自分自身で落としどころを考えるしかないのでは?なんて突き詰めていったら
人任せに生きていくことやめよう。
自分が後悔しないように生きよう。
これ、当たり前のようなすごいシンプルな話なのだけれど、かなり実現するのが難しい。そんな自分なりの答えに行きついた2024年でした。
自分で判断することの難しさ
過去 <<<<<< 未来
自己判断できるような有効なソースを増やしていく
貪欲に謙虚に自分の幸せに結びつける情報と知識を蓄える
とにかく自分の目指す幸せな人生を因数分解して現実可能にしていく
あとどれくらい続くか分からない未来を自分なりに持続可能に
1年1年に重みが出てきたからこそ瞬間の思いを大切にする
そういう感情がでたのも2024年。
未来を進むには過去の清算をしなければならない、それはもう5年ほどか、コロナくらいからずーーーーっとやってきていることなんだけれど、その続きみたいなのでこのNOTEが誕生している。
「自分がこんな子供時代だったから」とか「どの学校に行ってたから」とか「就職が氷河期だったから」とか「今の子はいいよね」とか過去のことを嘆き悲しみ続けるよりも、「恋愛がうまくいかない!さあどうするよ!」みたいな現在進行形のことに頭を悩ませている方がよっぽどヘルシーなんだ。と思ったら、悩み事が一気に減った。
大切なことは「そんな過去もあったけど、今、そしてこれから自分はどうしたい?」とか「これからどうやって自分の人生を生きてく?」みたいな今とこんにちはすることなんだと分かったら、今までおろそかにしてきたこと。例えば口に入れるものとか、なんとなくダラダラ続けてきた「なんでこの人私のやっていることに全部横やり入れるだけ入れて責任取る気もなく、困った顔してる私を見て少しご機嫌様なんだろう?」みたいな長年の人間関係にすっとお別れを言うことができた。そしてそこまでじゃなくとも、私の幸せを願ってくれないような物や関係とほどよい距離感を考えられるようになったのです。私が幸せになるための会話をもっと探したくなったんだと思うんですよね、明日や1年後の未来にフォーカスを当てて進んでいくことって私の中でそんな感じなんじゃないのかなと今は思っていたりして。
私にとっては、知らない場所をとくにかく「旅」をすること。色んな人を見て触れて話して考えることは、そういうこれからの生き方を後押ししてくれた大切な時間でもありました!
人付き合いのウェイトは重い
人は一人では決して生きることはできないこと。
とっても当たり前のことなのだけれど、都会にいるとついつい忘れてしまうことでもある。誰かがあなたの生活を支えてくれてるからこその利便性にあふれた都会だってことを忘れてしまうのね。24時間ずっといつでも電気がついて、お湯が沸かせて、そして蛇口をひねったら水が出る。10分歩けばコンビニが2個あって、その道には常に街灯が灯っている。家で少しでも危ないかも!と思えばセコムさんがボタン一つで急行してくれる。徒歩10分にある駅は急行が止まらなくて不便に感じて引っ越しを考えた。でも10分毎に当たり前のように電車は来るし、終電は24時を過ぎまである。そして次の朝は何事もなかったかのように早朝から定刻通りに出発するんだ。仮に誰かや何かの原因で電車が遅延したら「ごめんなさい」と車内アナウンスが謝ってくれて、遅延証明書が出てくるんだ。すごすぎるでしょ?一体どれだけの人が私の生活を支えてくれているんだろう?
一方で、あんな狭い土地に大勢の人が便利な世の中を作るためにひしめき合っている。隣の建物との距離はびっくりするほど近く、知らない人の足音や生活音が常に聞こえていたりしても気にならなくなる。麻痺だ。
満員電車は本当にその名の通り満員で、けたたましくなり続けるベルを脇目に一生懸命駅員さんが乗客を車両に押し込んでいる。それはまるでじゃがいもの袋詰め詰め放題のよう。息苦しさを覚えながら無言で進む車内で、たまに人と人同士が小競り合いを始めても誰も止められない。そんな沈黙の修行僧のような気持ちでようやくついた学校や会社は規律で溢れている。ルールや約束事がとにかく多く、年齢や年次で決められた上下関係に気を遣いながら、決まった時間に決まったルールの範囲で自分のパフォーマンスをこなしていくのが人間活動だって思うと、苦しくなって私は今フリーランスの仕事がやめられないのかもしれない。
どんな形であれ、社会活動に必ず付きまとうのが「人付き合い」で、そしてこれは本当に仕事とかプライベートとかを抜きにしても骨を折る作業だ。ときとして人生の明暗を分けることもあるくらい大きいものなのを私たちは良く知っているんだと思う。
アラフォーの人間関係って?
ギブ・ギブ・ギブ・テイク
自分に都合の良い人間関係を良い人間関係だというのであれば、人は常にテイクできる人間関係を良いものとするんじゃないかなと思ったりする。誰だって与え続けて何も得られないなんていうのは我慢できないかもしれない。少なくとも私は令和版マザーテレサにはなれないかなと思うのね。
特に今の時代は「テイカー」「ギバー」などという言葉が一般的になってきて、人は常に自分にとっての損得を考えて人間関係を構築している人が多い印象があって、失うものは少なければ少ないほどよくて、取れるものは取れるだけ取ろうみたいな人も多い。でもそれって損得勘定が都会にいると得に繋がりが薄い分だけ隣りあわせになりがちなんだと思っていて仕方のないことでもあるんじゃないかなーって思ってるんですよね。実際、ご縁の年月が薄い人、仕事だけの付き合いで割り切ってたり、大学だけで仲良しグループみたいな感じのスタンスな人ほど、思えばスーっと消えて、いい頃合いでスーっと抜群のタイミングで戻ってくる人がいたりして。実際、彼らが大切にするのは家族、恋人、そして自分のファーストプレイスだったりする。私がどれだけそこに不満を抱いても、それがその人の価値観なんだもの、今となれば仕方のないことなんじゃないかって包み込める気がしてるんですね。
こういうことに気付き始めると、自分の人間関係を改めて振り返ったり、大切にしないといけない関係性に感謝したり、これからどういう人の周りをまわっていたいのか、自分はどういう人になりたいのかなんてことまでもアップデートせざるを得なくなるなーっと感じたのも2024年という年で。先ほども書いたけれど、適切な距離感というものを考えて実行したのも今年。
それ、好きでやってるんですよね?
基本的な私の性格として、困っている人のSOSを限界まで受け取るタイプで、良く言えばお人よし、悪く言えば「自分」と「他人」の境目を見失いやすい!ここに関しては自他ともに認めるところで、まずはその性格を自分が受け止めて認めてあげることが必要なんだと思ったんですよね。
「自分がしたくてやっているか」
ここがミソなんだなと2024年本当に痛感したんです。さっきも書いたんですけど、なんで私この人と一緒に居るのかしらなんていうマイナスの気持ちが働く相手にも親切ボランティア活動をし続けて、勝手に不快になるみたいな負のフォーメーション、ネガティブのバミューダトライアングルみたいなことにしてるのって、結構自分でやりたくてやってることを脇にポーンっとしていて、何か相手から期待してるからなんじゃないかな?って思うことにしました。要するに、自分は自分、相手は相手、だから相手の行動を私が限定して評価する体制に入ってる自体がナンセンスなんだよねということでした。
基本、人付き合いっていうのは損得勘定で捉える結果になる時点で、マイナスなんだと思い始めたんです。自分がその人を大切にしたいと思えたなら、その時点で自分にとっては自然と親しくなりたいとか、大切な人だとか、信頼関係が一定あるみたいな確信や希望がある。要は自分がしたくてしている人間関係なんだろうを基本にしようと思ったんですね。そのうえでギブアンドテイクが成立していたなら、それはあるある意味人間関係の理想なんじゃないかなーくらいでいいと考えてみたんです。もしそれだったら、私のやったことを刈り取っていく人がいたとしても、あくまでも私の中でしたエキストラなおせっかい的なヘルプは好意でした行為だということにできるから。(仕事とかはちょっと端に置いておきます。。。)
でも実際はそれを言語化して契約できない。だからこそその気持ちのすれ違いというか思い違いが生じて、その結果として、私が困ったときにスーっと消えていく人が一定数存在してしまったとしても「大切の重さの天秤が理想と異なってしまったということなのかな?あらあら、私もまだまだ見立てが甘いわね」くらいの感覚で自己処理できるなという。っで、やりたくなければ次からしなければいいだけのこと。
仮に本当に好きでやっていたけれど、悲しいなと思った!ならば、その感情は大切に抱きしめてあげておこう。そしてその感情を怒りに変えないで伝えてみたら、相手に今度は正しく伝わったりするかもね?と思い返す習慣をつけよう。そして「私はとても悲しかったよ」と伝えてみたらいいんだろうなと思えたんです。仮免いい子ちゃん卒業で、率直に伝えたいくらい大切な人ならチクチク言葉なんて使う必要はないんだと思う。そこから付き合い方をまた再構築したらいいんだと思ったら少し楽になり、現に今手放せた人間関係もあったりする。
大切なのは好きだから自分がやっていることなんだ
ということを自分で意識すること。そして相手から何かをテイクしようとするんじゃなく、自分がギブした保険を掛けるような人間関係はこれからはあまり私の幸せには必要ないということを自分が理解することでした。変化のはじまりはいつも人にはなくて、掘れば掘るほど自分の中にあったりする。人に変えてもらうんじゃなく、自分で何事も変えていきたいと思えた機会だったんです。だから惜しみなくここでも良い情報だと信じたものを、好きで発信し続けることを決められたのかな。(だから有料記事を書き出せなかったのかもしれない?
芝生を育てなおせ
2024年古い芝生は刈り切った
そんなこんなで、私は人間関係という意味でも、生活習慣という意味でも、今までの自分の育ててきた8割型の芝生を刈り切って、華々しく今の時代をトレンディーに生きる素敵な人たちの芝生を見つめても何も感じることがなくなり、より自分らしい生き方にフォーカスできそうな気がしています。
子どもがいないとかそういうことも、顔にできたほうれい線も、おなかのタプタプのお肉も、自分が幸せに生きるために必要だと思えばどうにか変化を起こさなければならないな!といった具合に、他人様のトレンドで一喜一憂しなくなったという感じ。
これは浮世離れするということでもなく、素敵だなと思えること、世界での大きな変化、そしてこれから混とんとするだろう日本経済や政治。税金ゲーム。多くのことに自分事として自分の頭で考えて、うまくキャッチしてリリースして、芝生の肥やしにすること。自分の新しい芝生が枯れないように、そしてフットワーク軽く入れ替えだってできるような、これからにしていけるような2025年にしていきたいなと思っています!
昔のアルバムをめくってちょっとノスタルジーな気持ちになりたいときは、思いっきりそれを自分の責任で開けばいいけれど、そこに今の感情をのせて泣いたりわめいたりすることはやめて、そこから常に自分が脱することができている今を褒めてあげよう!そして自分が今まで積み重ねてきた経験をもっと精製してできた良い物だけを次の世代、次の場所、そして未来に持ち運んでいこう!そんな気持ち。
2025年は動ける年になりますように
このNOTEは私の気持ちや過去を振り返るアルバムのようなところでありたい、2025年もそこは変わりません。ただ、私のNOTEは常にそこから次のステップに気持ちが行くような終わりにすることを意識してより多くのトピックを気ままに書いていく予定です。
マネタイズする気も今のところこんな感じなのでないし、2024年に書くといっていた有料記事もどういった経験をそこにどういった理由で含めていくのかとか、そういうことも全部、自分で考えて納得できたら始めるかもしれないし。ただ海外勤務の話はどうしようかな、需要あるのかな。でも自分はどこかに書きたい!と思っているので、(とてもじゃないけれど、このNOTEを名刺に載せる気にはならないので)たぶんビジネスNOTEアカウントでも爆誕させて書き始めるかも??
今絶賛芝生を育成中なので予定は未定です。
ただ育成するには良い養分を取りに行きたいので、もっともっと精力的に動いていきたいなと思います。今は絶賛、地方移住というか、地方での仕事に関わりたいなと思っているんですけれど、何か私でもできそうな仕事があるよという方は教えてくれたら嬉しいです。
ちなみに毎朝8時半スタート、5時半終了みたいな働き方は、私にはたぶん向いていなくて、パフォーマンスも落ちるに違いない。あとルールと規律となんだかんだで本来の目的を見失っている環境も向いていない。ルーティーン脳死生活ができません。そんなわがままな子拾ってくれるところはたぶんないのかもしれない。。。
今請け負っている仕事は精一杯こなしつつ、私は楽しく働いて、自分の残りの人生の幸せを追求していきたいなーと思います。それがどこかで誰かのちょっとした幸せに繋がれたら、それってとっても素敵なことです。
それではみなさん、良いお年をお迎えください!
HAPPY HOLIDAY & HAPPY NEW YEAR!!!
MAY