吉村萬壱『クチュクチュバーン』
注意!!!以下、ネタバレ(物語の概要、引用文)あります。
僕が最初に読んだ吉村萬壱の小説は、『ボラード病』。たまたま本屋で見つけ、「ボラード」の正体が知りたくて買った。修士論文を書いていた時期だった。村上春樹にどっぷり浸かっていた時期でもあり、他の小説の文体とテーマを薄情に感じて全く読めなくなった。沼から抜け出す動機をくれたのが吉村萬壱だった。
「なるほど、これがボラード病か」
吉村の小説を読むと吐き気がする。癖になる吐き気だ。癖になる吐き気は危険だと思った。この沼に足を踏み入れたら最後、引きずり込まれるだろう。
ある時、Amazon Unlimitedで吉村の『臣女』が無料だった。あの吐き気を思い出した。気のない振りをしてダウンロードした。読み終えた後、僕は沼の淵まで来ていた。そして、つい先日『クチュクチュバーン』に手を出してしまった。彼の処女作『国営巨大浴場の午後』が併録されている。
僕は自分の足で沼底を歩くことに決めた。
✍吉村萬壱?
1997年、「国営巨大浴場の午後」で京都大学新聞社新人文学賞受賞。そして今から18年前、『クチュクチュバーン』で第92回文學界新人賞、2003年には『ハリガネムシ』で第129回芥川賞を受賞した。
(詳しくは以下のリンクをご覧ください)
吉村萬壱が公立学校の教員を長年勤めていた人物だったと知って驚いた。暴力そして血生臭い死の場面を書き連ねる彼が、学校文化の出とは・・・。
学校が苦手な僕が想像するに、彼の作中から漂う陰湿で窮屈な空気や逃げ場の無い絶望的な場面の数々は彼の生きてきた学校文化から醸成されてきたものではないだろうか。目の前の子どもたちが送り出される社会の血生臭さを、そこで出会う人間たちの残酷さを精確に描きだして子どもたちに警告しているのかもしれない。或いは、教員たちの手によって丁寧に成形されてしまった子どもたちにむけて、「君たちの真の姿を見せてやる」というメッセージかもしれない。いやいや、吉村は自身の創作活動と賃金労働とを明確に区分しており、教育問題や子どもたちの将来は眼中に無かったのかもしれない。
物語は、著者が生きてきた現実と分かち難く結びついている。吉村の著作を紐解いていきながら、彼が見ている現実を覗いてみたい。
✍「クチュクチュバーン」という“音”
本書の題名は、音だった。
「クチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュクチュ」
そして、爆発音。
「バーン」
何の音か。
人類を含む生きとし生ける生命体の、最終形態へと変態していく瞬間の音である。地球最後の産声である。
生命がたどり着いた姿は、美しさからは程遠いものだった。ソレの目的は単純明快、食べるか自死するか。目的達成のために形態として、機能として必要なものは多くない。
「このような複雑で暴力的な手続きを経て獲得された新しい人類の形態は、虫のようなものだった。体の中心はまん丸で、直径は数センチほどだ。そこから蜘蛛のような長い脚を十本生やし、コソコソと素早く移動した。こういう個体が何千億、何兆も存在する。彼らは豊かな感情を有し、盛んに泣いたり笑ったり怒ったりして生活していた。小さな口を持ち、「キーキー」と鳴く。」
約束された死への道程を平坦で滑らかなものにすること、生死の境界線を可能な限り細く引くこと、生から死への移動を滞りなく済ませること。生命が永年休まず、怠らず、真面目に極め続けた多様性と複雑性の探求。本書はその最終決算の物語である。
✍愛し合い、殺し合い、共食いをする
場面は、勢いよく転回していく。
理解が追いつかないのは、物語内のルール、世界観が常軌を逸しているからだ。また、登場人物に多くを語らせることもない。そもそも、彼らにはまとまった話をする機会は皆無なのだ。
彼らは登場し、回顧している間に呆気なく殺される。或いは、自身の変態の波に飲み込まれ、思考する能力と発語する器官を失う。それ故に、登場人物から得られる情報は少ないのだ。瞬間の生死の物語が淡々と記述されている。
「人々が愛し合い、殺し合い、共食いをする。」
人間の生き死にをここまで単調に描かれると、感覚が麻痺していくのを感じる。「あれ、僕まだ生きている」「結構、簡単に死ねるのかもしれない」「人間性の極みは、愛し合い、殺し合い、共食いすることだよね」
本書の読後感は、ディストピア小説を読んだ後の純な絶望感というよりも、「やっぱり?」という安堵感である。予期していた通りのことが起こって、安心するのだ。ひた隠しにしてきた性癖を暴露されたおかげで、今後は胸を張って自慰にふける事ができる気がしてくる。
人間、やっぱりこうでなくては。