ぼくの問いとシュティルナーの答え③
今回はシュティルナーの人間観について詳しくみていきますよ。
✍「唯一者」とは何か?
ぼくは「唯一者」です。あなたも唯一者です。
道端に咲いているタンポポも唯一者。ねこも金魚も、オケラだって唯一者なのです。シュティルナー曰く、
「どんな羊、どんな犬でも、「正しい羊、正しい犬」になろうと努めたりはしない。どんな動物にとっても、己れの本質が、一の課題として、つまり、現実化さるべき一の概念としてあらわれることなどない。彼らは、己れを生きつくすことにおいて、つまりは解体し衰退することにおいて、己れを現実化するのだ。それらは、それがあるより他の何ものかであること・また成ることを求めたりはしないのだ」
*EE292、『唯一者』下269。資料で傍点箇所はここでは太字にします。グレー網掛け内でカギ括弧は直接引用を、カギ括弧無しで脚注付きは間接引用を表しています。
ぼくが人間らしさを求めて生きることは、ぼくの肉体を材料に、精神を道具にして「人間っぽいもの」を創作することです。しかし、現実は少し違います。具体的にみてみると、ぼくや猫、あらゆる存在者(物理的に存在しているもの)は与えられた条件(形状や能力、環境など)のなかで精一杯生きて(存在して)、死ぬ(朽ちる)のです。
ぼくの人間としての姿・生き方の古層には、唯一者としての姿・生き方があるのです。
人間と唯一者の違いをはっきりさせましょう。
人間は憧れの対象になりうるが、唯一者はすでに唯一者である。
人間を説明することはできるが、唯一者は説明することができない。
人間は代わりがきくが、唯一者の代わりには何者もなれない。
人間は常に未完成だが、唯一者は最初から完全体である。
人間はエゴイストではないが、唯一者はエゴイストである。
✍「うん?いま、唯一者について説明しているじゃないか!」
厳密にいうと、ぼくは「唯一者」の語義を解説しているのであり、唯一者そのものを説明しているわけではありません。
どういうことかといいますと、シュティルナー曰く
唯一者とは、指示語です。「それ」や「これ」と同じ用法で使います。唯一者を「それ」に置換してかまいません。
*良知力・廣松渉 編『ヘーゲル左派論叢第1巻 ドイツ・イデオロギー内部論争』御茶の水書房、1986年、47項。シュティルナーが自身への批判に応えた論文が45-100項に訳出されています。
まず説明とは、分かりにくいものを誰かに分かるように言葉で説くことです。対象を一般的に知られていること、すでに分かっていることに関連づけて言い換え、対象の内容を記述する作業を「説明する」といいます。説明する作業は、実在と内容を分離する作業ともいえるでしょう。しかし、それは不可能なのだとシュティルナーはいいます。
「概念または述語としての「人間」なるもので、君を言い尽くせない。「人間」はそれ固有の概念内容を持ち、何が人間的であり何が人間であるかを言い表せるにしても、すなわち人間は定義可能ではあっても、その際、君はまったくその埒外にありうるからだ。なるほど君も人間として人間なるものの概念内容に君の持分を持ってはいるが、しかし、君が君として関与するわけではない。それに反して、唯一者はまったく概念内容を持たず、没規程性そのものである。君によって初めて、唯一者に内容と規定が生じる。唯一者の概念展開なぞ存在しない」
*良知力・廣松渉 編『ヘーゲル左派論叢第1巻 ドイツ・イデオロギー内部論争』御茶の水書房、1986年、48項。
ぼくを正確に(学歴からホクロの数にいたるまで)説明しても、それらは完全なぼくではありません。なぜなら、唯一者は「ぼくがぼくである」という存在の仕方、つまり実在と内容の合一体として存在しているからです。
本当に唯一者を知るには、「いま・ここ」にいるこれと直接対面するほかないのです。
✍まとめ
①ぼくは与えられた条件のなかで精一杯生きているだけ。
②ぼくは「いま・ここ」にいる。
では、またご縁をお待ちして。
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