暴力的現実を克服する人間の姿を思い描けるか?
ケアとしての教育理論の足元にこの問いが横たわっている。
✍子どもたちに伝えられること。
たとえば。
パリで起きた同時多発テロ事件(現地時間2015年11月13日)をうけてフランス政府は、過激派組織「イスラム国」が拠点とするシリア北部ラッカへの空爆を強化した。各国首脳が「テロとの戦い」を決意し、連携して取り組む姿勢を見せた。こうした国際社会の動きと裏腹に、中東・アフリカ・欧米・アジアなどの地域(80か国以上)から若者たちがイスラム国に加わっている。現在ではイスラム国の成員(約3万人)の約半分が外国人で構成されているという。国際社会が連携して取り組む「テロとの戦い」は、「自国の若者との戦い」ともいえるだろう。
子どもたちはテレビやインターネットの報道、または報道に対する周囲の大人の言動から「自国の安全と利益、自国民の生命を守るためなら「テロとの戦い」は当然であり、イスラム国へ加わった自国民はテロリストと見なして同様に戦う」大人(社会)の態度を目の当たりにしている。そこから、「自分が生き残るためならば暴力も仕方がない」、「みんなが平穏に暮らすためにはある程度の暴力は必要だ」という隠れたメッセージを子どもたちは受け取っているのではないだろうか。
こうしたメッセージは、子どもたちがテロリズムの原因やそれに加わる人々の背景を自分で自由に考え、感じることの可能性を阻み、テロを起こさざるを得ないほどの怒りと悲しみで傷ついた人々を気遣い、癒したい気持ちの発露をタブーとしてしまっているのではないか。
確かに、私たちの生活は暴力によって支えられている。自分が誰かを身体的・精神的・社会的に傷つけたり、逆に誰かに傷つけられたりする。特定の人々の豊かさのために特定の人々が追い詰められ加害者・被害者となっているような構造的暴力(貧困・飢餓・孤立化)もある。さらに、私たちの産業活動・商業活動による生態系の破壊もまた自然への暴力といえる。したがって、私たちの誰もが暴力の加害者であり、被害者として生活しているのである。平穏な日々は暴力によって支えられている。
このような暴力的現実について、私たちが子どもたちに伝えられることの総和が「人間はエゴイストである」ということでよいのだろうか。
✍ケアする。その瞬間。
いかなる暴力的現実においても傷ついている誰かと対面したとき、愛するものと出会えたとき、私たちはその人(もの)を個としてケアしてしまう瞬間がある。言い換えるならば、体裁や道徳、法を度外視に「あなたの苦しみを和らげたい。あなたの孤独に寄り添いたい」気持ちが自ずと湧き起る瞬間がある。「自分に何ができるだろうか」と自分を省みる瞬間がある。
私たちは全体として暴力的現実を生きながらも、「私とあなた」という関係の隙間のなかで他者や自然を慈しみ、反省し、新しく生きている。「私とあなた」という関係の隙間に、「人間はエゴイズムである」という見方を越える契機があるのではないだろうか。いっぽうで、そこには自分のエゴを越えたくても、越えられずに悶え苦しむ人間の姿もみえるはずだ。
私たちは、これからも暴力的現実を生き続ける。エゴイズムを抱えて生き続けるしかない。それと同時に、全体から見れば隙間といえるような「私とあなた」という関係にケアの空間が広がっていることを知っている。
私たちは友人と笑い合い、誰かに恋をして家庭を築いたり、あるいは風に舞う桜の花びらをみて悦んだりして、ケアする存在である人間の可能性を未来に託し続けているのではないだろうか。
私は、教育が「私とあなた」という関係に生起するケアの瞬間に懸ける営みであってほしいと願う。個々人が暴力的現実を、自己のエゴイズムを直視し悲しみ、怒り、葛藤する。そのような耐え難い不安定さと苦しみを引き受けつつ、一人ひとりが「私とあなた」という関係に新しく築いていくケアの空間を教育が、教師が歓迎すること。そのような教育、教師とはどのようなものだろうか。