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『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#23
レイトンハウス・赤城明との邂逅
1986年、突如、博教の前に現れた「バブルの申し子」こと赤城明とは何者なのか(百瀬本では、赤木明と表記)――。
赤城明は、もともと「丸晶興産」という名の不動産会社の社長だった。
都心のオフィスビルやゴルフ場を経営し、折からの地価高騰を受け、業績を伸ばし、その後、「ホテルレイトン」を買収した。
六本木のディスコ「トゥーリア」(後に照明落下事件を起こす)の経営
『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#22
日本列島にバブル景気が訪れる1980年代、その手前の70年代後半、博教は刑期を終えて出所し、自身のシノギを見つけるために東奔西走していた。
1979年39歳になった頃、博教は今日は金沢、明日は館山と骨身を惜しまずに不良債権回収の旅に出たお蔭で、ある程度の美味い飯が喰える身分になったが、そんなものでは博教の野望は満たされることはなかった。
そんな時、博教の宇宙に彗星のように現われたのが、株の
『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#21
1976年。
出獄した百瀬博教は正業に就くことはなかった。
かつて用心棒として勤めた、赤坂ニューラテンクォーターには、客として、あるいは裏方の馴染みとして、ときどき顔を出していた。
娑婆に戻って半年後、偶然、勝新太郎が客席に居た。
「お久しぶりです。先日、ニューヨークから戻って来ました」
その昔、錦政会の大幹部だった井上喜人から教わったジョークを博教が飛ばすと、
「長旅だったね、御苦労さん。何
『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#20
第5章 出獄
1974年8月──。
34歳になっていた博教に出獄の日が訪れた。
この日、4人の男たちに迎えに来てもらった。
服も建物もドブネズミ色の世界から、どの方向に走り出そうが、誰も付いてこない巨塀の外側に向け出たことで、博教には視界に入る全ての景色が総天然色で新鮮だった。
「何を食べに行きましょうか」
それが、迎えに来てくれた人の最初の言葉だった。
車を走らせ、市川に着いたのは
『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#19
秋田の獄に暮らして三年四ヵ月過ぎた一日、開く筈のない時間に博教の入れられた独居房の扉が開いた。
「面会だ。東京から従弟の坂本好延さんが来てくれたぞ」
博教は妹に絶対面会に来ないよう何度もハガキを出していたからだ。何事が起こったのだろうと思った。
正座して本を読んでいた博教は白衣をきちんと着直して、まだ一度も行った事のない面会房のある棟に向かった。
ニワトリ小屋のような面会室に入ると、錆びた金
『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#18
昭和44年5月9日――。
二十九歳の博教は、秋田市川尻の獄に下獄した。
明治中期に造られた薄暗い建物を囲む、獄の巨塀は、二十七歳の時、森田政治氏に面会に行った横浜刑務所で眺めたことがあった。
しかし、今度は、自分が入ることになり見上げると、これまで見た塀の倍も高く感じた。「どうだ。ここがお前の暮すアパートだぞ」秋田まで送った押送係の刑事は、そんな嫌がらせを言った。
窓のない小さな独居房に
『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#17
裕次郎との別れ
博教は自分が下獄する前に、どうしても裕次郎に会いたかった。
会って一言でもお詫びが言いたかったのだ。
昭和43年の12月の末、「週刊平凡」の編集長・木滑良久氏のはからいでハワイヘ旅立つ前の裕次郎と羽田空港の一階食堂で会った。
もちろん、博教は全国指名手配の逃亡者なので、公の席で彼を見送ることは出来なかった。
事あれば裕次郎の身を護ろうと思って持っていた「道具」だったが、それ
『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』#16
秋田の行事
召喚状を破って逃亡した博教は日本中を転々とした。
気の休まるような時は一瞬たりもなかった。
1967年の夏、博教は秋田に初めて行った。
いぎという時、一発ぶっ放すつもりの道具を懐にしての見物だが、秋田は話で聞いていた以上に美しい風景がそこここに見えて心を和ませてくれた。
目に映る秋田市の町並は、まるで大掛りな映画のセットみたいだと思った。
二年前までは市電の通っていたという大
『命懸けの虚構〜聞書・百瀬博教一代』 #14
保釈で拘置所から出た夜、迎えに来た父の乾分福井とタクシーで市川の家へ戻った。
待っていた父も母も小言一つ言わずに気持ちよく迎えてくれた。
父は、この頃、TBSテレビの「幕末」というドラマを見ていた。
このドラマは再放送で午後の3時頃に毎日放送された。
この番組のある時間は父は必ず家に居た。
そんな父の横でテレビを見たり、本を読んだりしていると叱られた。
「おい、本を読むの