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一石二鳥映画「復讐の十字架」 ネタバレ考察 なぜ敵を許すのか?
許す振りしてとどめを刺す。
芸人のやす子とフワちゃんがSNSで話題になった。
フワちゃんの笑えないリプライからはじまり、やす子の「とても悲しい」で終わる。人気芸人のやりとりとは思えないほど笑いの無いやり取り。
やす子が寛容さを見せた事でフワちゃんは永遠の悪人となった。
福音書「汝の敵を愛せよ」
これを聞いて納得する人は少ない。キリスト教徒でないなら特に。
何で愛さないといけないの?
「悪に善をもって接する事で相手の心を変える為」
相手が変える気なかったらどうすんの?
「他人を赦す事であなたは恨みから解放され、あなたが犯した罪も天から赦されるのだ」※1
……こう言われると少し気になる。
ムカつく出来事なんて忘れたいし、自分だって無実じゃない。
それを赦してもらえるのならいいかもって思う。
でもやっぱり悪人がそのままってのは気に入らない。
大丈夫、それも解決してくれる。
そう「ローマ人への手紙」ならね。
罪を憎んで人も憎む。
映画「THE BATMAN」の冒頭でバットマンはチンピラに過剰な暴力をふるう。
「犯罪者は皆殺しだ」って激しい怒りを感じる。
マルキーも似たところがある。彼は身内に被害が及ぶと激昂する。
親友の話のラグビー選手たちとの乱闘も、ステーキを駄目にされたから。
カートで調子乗ってる若者に壁ドンも、ママを守りたかったから。
これは犯罪被害者としての怒りだ。
映画の後半、父から性的虐待を受けたメガネの男も同じ思いを抱いた。
「この恨みを晴らさずにはいられない」
当然の感情だ。
弓の人ジェレミー・レナーが出演してる「ヘンゼル&グレーテル」にこんなセリフがある。
「復讐しても過去は変わらない-(中略)-でも気は晴れた」
こっちの方が受け入れやすい。少なくとも一人の悪人は消える。
「目には目を歯には歯を」で何がダメなのか?
それだと自分が救われない可能性があるらしい。
人を呪わば穴二つって事?それは困る。
神だけが罪を裁く。
眼鏡の男はこうも言う。
「人は偏見があって無意識に人を裁いてる」
これは二人が受けた二次被害の事を含んだセリフだ。
例えば、金髪の若者がバイクで事故に遭ったとする。カッコもヤンチャ。
それ見聞きした僕らは
「どうせヤンキーが暴れて勝手に事故ったんだろ」って思う。
でも本当はロック好きの金髪が飛び出してきた人を避けたのかもしれない。
偏見がそこまで考えさせない。
マルキー達はそういう偏見で深く傷つけられた。
「実父が、神父がそんなことするはずない」
母親にまで疑われれば、疑心暗鬼にもなる。
誰もが自分を傷つけるんじゃないかと思う。そう思う度に他人にきつく当たる。※2
そんな自分に失望し、自分も信じられなくなる。
その罪を自らを罰し贖おうとする。
だから彼は、尻に棒を突き立て 手にはさみを突き立てる。
一番苦しんでるのは彼なのに。
そんな苦しみから解放される為に赦しが有効だと「ローマ人の手紙」は語る。
「優しさ」と言う呪いをかけろ
ローマ人の手紙は「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。 そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」と書かれている。なぜ敵に優しくすると炭火を積む事になるのか?
要は罪悪感を抱かせたいわけね。
でもそんなの気にしない奴もいる。なら赦すだけ損やん。
今回は損得だけで赦しの利益を考えてみる。
眼鏡の男は老司祭からこう言われる。
「己の罪から逃れる事はできない。死してなお その代償は支払わなければならない」
もしこれを信じるならこういう風に考えられる。
・加害者を赦さない。
→恨みから解放されず、つらい人生を送る。
→復讐の罪は自分が支払う事になり、多くの罪を抱えて生きる。
あんまり自分に得がない。ホントに気が晴れるだけだ。
じゃあ赦す場合は?
・敵を赦す。
→恨みから解放される。加害者は罪悪感に苦しむ。
→罪悪感がない者は死んだ後、その罪を支払う、つまり地獄行き。
→被害者は死後、他人の罪を赦した事で自分の罪も赦される。
どっちに転んでも相手につらい罰を与えることができる。お得だ。
神父が新約聖書一説を読むシーンがある。
「今は、鏡におぼろげに映っているものを見ているが、その時には、顔と顔を合わせて見ることになる。今、私は一部分しか知らなくても、その時には、私が完全に知られているように、完全に知ることになるのです」
これの本来の意味は置いといて、この映画においては神父とマルキーの関係を説明してる。※3
二人が顔を合わせた時、
マルキーはそれまで直視できずにぼやけていた神父の顔がはっきりと見えるようになる。
神父は自分の罪を思い出し、自分を火にかけ自殺する。
キリスト教で自殺は罪深く、生前の罪も自殺の罪も赦されなくなる。
彼の姪の12歳の誕生日に、笑顔の姪を見て彼も笑みを浮かべた瞬間、絶望が顔に現れる。
12歳のマルキーから笑顔を奪ったのは自分だからだ。
これからずっと頭を炭火で焼かれるような罪悪感に苛まれる。
自殺した彼の罪は永遠に許されることなく、更には彼の姪にも心に傷を負わせた。
これほどまでに完璧な復讐が他にあるだろうか?
それでいてマルキーの罪は赦される。
自分の敵を愛するのは難しい。不可能とさえ思える。
でも、その敵が憎ければ憎いほど、優しさと言う名の呪いは強く働く。
マルキーが心の底から赦せたかはわからない。
それでも神父の罪は裁かれた。
備忘録
※1
マタイによる福音書6章14-15節には「あなたが人の過ちを赦すならば、天の父もあなたの過ちを赦してくださるでしょう。しかし、あなたが人の過ちを赦さないならば、天の父もあなたの過ちを赦してくださらないでしょう。」みたいなことが書かれてる。
※2
どこでも受け入れてくる彼女の浮気を疑ったり、止めに来た親友を殴ったりしてる。自分が傷つく事を恐れてる。
※3
新約聖書の『コリント人への第一の手紙』13章12節
この「その時」とは、終末の時、神の国が完全に実現する時を指してるらしい。神の前では罪も隠すことはできないって考えれる。