その本、あなたに向けて書かれたものですか?
人は本を読み、賢い人の考えを盗む。これは自分に適した本なら良いことだ。そのような読書体験はその人に生き方の善き指針を与えてくれる。対して、自分に適していない本の内容を字面通り受け取るならば、その人は自分自身に必要な筈の助言とは全く異なる助言に突き動かされる危険性がある。その本が直接的な人生の指針を説いた本である程、その指針が極論である程、その危険性は増す。
例えば、とある成功した投資家の書いた自己啓発本をA君が読むとする。その本には、「貯金なんかしなくても有り金全てを使えば結果として豊かになれる。読書なんか大してしなくていい、人生は実践あるのみ。」と書いてあるとしよう。その著者は、一流大学出身で「学校のお勉強」もよくでき、加えて本能的な直感に基づく優れた判断力も持っているとする。対して、A君は学校のお勉強が苦手で、直感的な判断力も殆ど備わっていないとしよう。このように直接的に生き方の極端な具体的指針を与える本の場合、自分の人となりがその著者と著しく乖離していれば、一語一句その本の中で言われている言説を受け入れるのは危険だ。何故なら、「文字通りに実行した」としても、実行者たるA君がその著者とは違い過ぎるので「文字通りに状況が推移する」とは限らないから。A君はその著者とかけ離れているので、手持ちの金銭を使い切ったとしても単に生活が苦しくなるという可能性が大きいし、読書を辞めたとしても何も為せずに単に価値観の更新と進歩が遅れる事になる可能性が大きい。つまり、A君に関しては、その本の内容を文字通り実行しない方が余程豊かで充実した生活を営めると予想できる。むろん、「その著者に近い人間」がその本の指針に沿って行動すれば、成功を収める事ができる事までは私は否定しない。その著者の人生に基づいた極論の人生指針とは、「その著者に近い人間」に対してこそ直接的に有用なのだ。つまり、その投資家の本は、そもそもA君に向けて書かれていなかったのだ。
ここで注意されたいのが、このような自己啓発本やそれに類するサイト自体を全否定する意図は私にはなく、私としては「直接的に生き方を説いた本に関しては、自分自身に適したものをよく選びましょう。また、本の教訓や指針を自分の人生に適用するにしても適用する範囲と程度をよく考えましょう」と言いたいだけだ。しかし、「この本は私の個人的経験や個性に依るところが大きく、この本に書かれている教訓や指針を文字通りに実践するのは危険かもしれません」と断りを入れるのは作家の義務でないとも言えない。その点、デカルトはかなり上手(うわて)だ。
デカルトは、彼の思索探究の道程と方法とを記した主著「方法序説」に於いて次のように述べている。
「(前略)したがって私の意図は、だれもが自分の理性をよく導くためにとらねばならない方法をここで教えることではなく、ただ私が自分の理性をいかに導こうと努めたかを示すことにすぎない。 教訓を与えようとする側の人は、与えられる側の人よりもより有能であると思っているはずであり、ほんのちょっとしたことでもかれらがしくじるなら、それを非難されて当然である。だが、私はこの書物を一つの物語として、あるいはそう言った方がよければ、一つの寓話として提示するのみであり、そこにおいては人がそれにならってよい例もあれば、たぶん従わない方がよい他の多くの例もあるであろうが、私の願っていることは、それがだれにも害を及ぼさずにある人たちに有益であることであり、みんなが私の率直さに満足してくれることである。」
(出典:「方法序説」、ルネ・デカルト著、山田弘明訳、筑摩書房(レーベル:ちくま学芸文庫)、2010年、第21ページ)
この謙虚で緻密な断りを自ら載せるという点で、デカルトは凡百の「自身に満ちた」説教好きとは大きく隔てられた賢者であると言えよう。他者を啓蒙するような著作を行う者として実に理想的な態度だ。
しかし実際には、世の本全てにかく注釈が付いている訳でもないし、付いていない本は全て無用か全く危険だと決めつける訳にもいくまい。ならば、我々本読みはどうすれば良いのかと言うと、我々読者の側が読書に際して発揮する判断力を身につければ良い。「この本の教訓や指針は我が人生訓として良いものだろうか。そうするなら、それはどの程度又どの範囲で自分の人生に適用すべきか」を判断する能力である。
この能力を高める方法は大きく二つに分けられる。
まず第一に、生活の中で自分というものをよく知ることである。自分を知ってこそ「読んでいる本の内容が自分の人生に適用できるか否か、又どの程度適用できるか」を初めて知ることができる。「汝自らを知れ」とはアポロン神殿に記された古代ギリシャの格言であるが、これは能く言ったものだ。そして、「自分」とは「他人」がいてこそ知ることの出来るものであるから、単に「自分だけを見つめる」のみでは己を知る事はできない。自分を知り他人を知る事でこそ真に「自分」を知るのである。
二つ目は、歴史の教科書や万人にとって普遍的な人生訓を記した古典(ー 無難過ぎるチョイスかもしれぬが、論語や孫子やスッタニパータや方法序説(特に第1,2,3,6部)などが良い。しかし、これらの古典もまた、その時代や文化圏の価値観に基づいた普遍的ならざる表現もあるため少しは注意が必要である ー)を読むことである。「本から適切に人生訓を得る為には、まず本から適切に人生訓を得ておきましょう」などと言うと、「お金を集めたければまずお金を集めましょう」という事に近い理不尽さがあるかも知れぬが、こればかりは仕方ない。歴史の教科書からは、現代の自己啓発本を頼る場合に比べて、より普遍的な人の世の理を自分自身に適した形で抽出できる。古典に関しては、確かに長い人類史の中で読み継がれてきたからと言って「完全に安全」とは言えぬが、時代の篩にかけられてきた分、現代の自己啓発本よりも人の道理に普遍的に妥当するのだ。これら歴史や古典を自分の中に集積することで「人生の理(ことわり)の概観」が分かるのである。そして、この概観を自分の中に持っているからこそ、「現代の新刊本をどれ程自分の人生訓として良いか」が分かってくるのだ。
ここまで読書と人生訓の話をしてきたが、最後に一言添えておこう。この稿もまた、「そのまま万人の人生訓」として良いかは甚だ疑問であるから、気をつけて読まれるべき対象である、と。