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「愛する側」が「嫌われたくない」の呪縛から逃れるときは

バランスのとれた恋愛というのは存在しないと思う。
そういう恋愛は憧れるけど、自分の経験でも、周囲をみても、どちらか一方のほうが思いが強いというのはある。

何度も書いてきたことだけど、わたしと夫の関係でいうと
付き合った当初からわたしの彼に対する思いのほうが大きかったように思う。

「愛するより愛されたい」というのはよく言われることだけど、
わたしのほうが好き、という事実のもとではこの言葉は苦しくなるので、
「自分主体で恋愛できる」という発想に転換してここまでやってきた笑


でも、やっぱり「愛する側」はつらいこともあって、
「これを言ってもし嫌われてしまったらどうしよう」という不安を抱くことも、「愛される側」の人に比べるともちろん多かった。

例えば、わたしのはやきもちや嫉妬をストレートに言うのが苦手だった。

「重く思われたらどうしよう」と思ったりして。

でも結局そういう思いが募って結局ばれちゃったりするんですけどね。こまめに解消できたらいいんだけど、そういう「嫌われたら」の思いが邪魔をすることも多かった。

そして、わたしの場合、この思いが解消できたのは実は、結婚してからだった。

もちろん離婚はしようと思えばいつでもできるんだけど、でもやっぱり
付き合って別れるというのと、結婚してて離婚するというのだと
当たり前だが重みがやはり違うと思うのだ。


実は、わたしは、
わたし自身の問題で不妊治療にのぞまなくてはいけないという事情がある。

これは最近わかったことなんだけど、
異変から病院へ行き、どうやら不妊治療をしなければいけないといことがわかったとき、どうにもつらくて、悲しくて、思いのやり場に困った。

もちろん、将来無事に子どもを授かることができるのだろうかという不安はもちろんだが、夫にも同様にその不安を背負わせてしまうのか、ということも悲しかった。

逆の立場で考えたら、そんなこと、気にしないのにね。そんなことで、嫌わないのにね。

一人で婦人科のある病院へ行き、そういう事情を伝えられ、自宅で夫に伝えた。

夫は理解し、「話してくれてありがとう」と言ってくれた。その優しさが逆に無性に泣けた。

こわかったのだ。
もしかしたら、というか、子供のことってその将来によっては確実に人生を左右するものだから(子どもがいない人生を否定するのでは決してない。夫婦二人暮らしという選択肢ももちろん素敵だと思っている)

でもふと思った。ここまで素直に思えたのは、夫と婚姻関係を結んでいたからなのではないかと。
誤解してほしくないのは、付き合っていた間はそういう真面目な話ができなかったというのではない。いつもそういう真面目な話や相談をした時、当たり前に夫は受け止めてくれてはいたのだが、婚姻というその事実がわたしが彼を信頼する気持ちをより強固にしてくれた。

また、こういうのって結局自分の問題で、
いつも自分のほうが思いが大きいというのが自分の勝手な分析からこの不安は生じるものなので、こういうちょっと安心できない面倒なタイプは、結婚というわかりやすい事実に安心し、心を相手にあずけやすいのだと思う。

これからの将来、わたしは多分自分の身体のことや、不妊治療のことなど、付き合ってきたときよりもより一歩深い相談もたくさん夫にすると思う。

そういうのを話しやすくするには婚姻関係だけではなくて、年月を重ねていくことによって絆を深くする「年月」の部分や、お互いへのさらなる「思いやり」とか、そういう強固なものをもっともっと作っていきたいなと思うのでした。これからの目標です。

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