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【読書感想】2024年93冊目「城塞(中)」司馬遼太郎/新潮文庫


pp.513--538 真田父子、紀州九度山

九度山における最大の寺院は、慈尊院という古刹である。次いで名のある寺として、「善名称院」という文字のふんいきのいい寺号をもつ寺がある。昌幸・幸村の父子が九度山にいたときは、この寺はなかった。じつはこの寺そのものが真田屋敷で、・・・

西国を歩いて旅していたときに、慈尊院へ立ち寄ったことを思い出した。司馬遼太郎を読んでいたらと思うと、ちょっと悔やまれる。僕は歴史の授業が苦手だった。今、こんなにも司馬遼太郎にのめり込んでいることが、不思議なくらい。作家との相性というものがあるのかもしれない。

九度山付近の朝焼け。高野山を歩いて登った時に撮影した

「左衛門佐(幸村)は」  昌幸はさらに言葉をつづけた。 「とうてい、この軍略をおこなえない。まず大坂城中の者が、そなたの才を信用せず、そなたの申すがように動こうとはしない。人間というのは過去から現在までの世間における履歴で事をなせるのだ」・・・

自分のこととして省みたい。

pp.539--576 九度山退去、大阪入城、明石ジュアニー

大将は一軍の信頼と尊敬をかちえて視線を無用にうごかさず、言葉を変えず、その軍令はつねに簡潔で、往けと退けの二語しか必要のないという存在である。往けといえば千万人がいっせいに死地にむかってうごき、一兵にいたるまで進むことに自儘な疑いをもたせないという人物以外に、戦さの大将というものはつとまらない、・・・

同じことを、耳にタコができるくらい言い続ける。社員には一度や二度でなく、何度でも。そうすることで、やっと彼らは動き出す。粘り強く、辛抱強く。信じる道を続けていくだけだ。

pp.577--614 道犬斎、又兵衛、海からきた男

時の勢いが、豊臣家から去ったのだ。と、おもわざるをえない。勝敗というのは軍勢の多寡ではなく、時の勢いをひっかついでやってくる側が勝つ。・・・

会社でも、プライベートでも、いくら頑張ってもうまくいかないこともあれば、ふとしたことで、物事が進んでいくこともあるから不思議だ。「時勢」というものは実際にあるのだろうと思う。

pp.615--654 長曾我部殿、天下騒然、駿府出立

旗の色はあざやかなるがよし。黄なら黄、赤なら赤という意思を天下に示すことである。徳川家はどうあっても豊臣家をほろぼす。この意思の色彩をクッキリと原色をもって世間に示すことが肝要・・・

方針は誰にでもわかりやすい言葉でいう方がいいに決まっている。難しい言葉で格好をつけても、伝わらなければ意味がない。

pp.655--695 岡崎、名古屋城、党争

家康ほど、この時代の人間で健康に気をつける男はなかった。老人にとって、疲労が溜まるのは大禁物である、とかれはつねづねいっていた。・・・徳川新天下をささえているのは、本多正純のような謀臣でもなければ譜代大名でもなく、阿茶局以下の家康手まわりの侍女たちであった。彼女たちは家康の脚に灸をすえ、腰を揉み、さらに夜になれば、家康が寝息を立てるまでその皮膚をさすりつづけてやる。といえるかもしれない。・・・

父は確かに経営者として周囲から認められていたが、最大の懸念はその健康だった。取引先からもそれは指摘されていた。組織の長たるものは、健康に留意しなければならない。長が守るべき最大のものは、自らの命なのだ。家康は、そういう点で、先進的な考えの持ち主だったのだと思う。僕も、僕の命を支えてくれている、ある人に、とても感謝している。

pp.696--731 攻守、新宮行朝、奈良

「戦法は、こうせよ」とは、家康はいわない。命令者である家康が、命令内容を言わないのが、かれの若いころからのくせであった。受領者に言わせるのである。

会社でも、部下に対して、上から目線で命令するばかりではなく、まず部下に考えさせるということをやらなければならない。

pp.732--768 渡辺了、霧の陣、茶臼山

世間はおそらくどちらが徳川家の顔か、惑うであろう。惑わせることが家康のねらいであった。・・・

僕もよく使う手。相手に自分の真意を知られては、駆け引きはうまくいかない。面白くない。あえて逆のことを言って、相手を惑わし、そうして自分の思う方へ引き込んでいく。

pp.769--820 於千、鴫野・今福、冬ノ陣、真田丸

諸将は、敵を攻撃することよりも、むしろ後方への気づかいのために神経の大部分を費わねばならなかった。・・・

こういう状況を自沈というべきか。企業でも、業績が悪くなるのは、社外の要因よりも、むしろ社内的なことの方が多いように思う。一枚岩になっていなければ、困難は乗り越えられない。

pp.821-- 城南の戦闘、坑道作戦、右大臣秀頼ひでより

餌でもって男子の志を釣ろうとなさるおろかしさ、申しておきまするが、この左衛門佐さえもんのすけ(真田幸村)は、たとえ日本国の半分を割きあたえられようとも、この御城を退きませぬぞ、左様に申しあげられよ、・・・

真田幸村のこと、好き。徳川家康が、裏切りを強要するのに対して、こんなことを言えるなんて。今は、自分さえ良ければそれでいいという世の中。恩というものについて、僕たちはもっと考えなければならない。

pp.857--903 大筒、桜門、常高院、泗川しせん

政略も戦略も、淀殿がにぎっていた。婦人に戦闘指揮権がにぎられている戦いなど、古今にあったであろうか、と幸村はおもっている。 (淀殿が死ねば、秀頼公の御運はひらける)・・・

蛇のようにまとわりつく母親がある。僕もずいぶんこれに悩まされた。だから出家もしたし、歩き旅にも出た。

pp.904--953 総濠そうぼり、使者、人馬往来、黒鍬

家康はこの一事によって、かれの七十余年の生涯とその歴史上の存在印象を一変させてしまうほどの悪印象を後世にあたえようとは、思いもしなかった。・・・

静岡駅に降り立った時に、僕はいつも一抹の寂しさのようなものを感じる。あれだけの長い間続いた江戸幕府の創始者がいたところとは思えぬほど、寂れて見えるのは何故だろうか。世の中は、必ずしも善人によって支配されるということはない。むしろ、悪人こそが、支配側にまわるものだということを、この時代の人たちも知らされたのであろう。

pp.954--1001 お玉、主馬しゅめ往来、退隠、駿府の茶菓(中巻読了)

主家である豊臣家にすれば、家来が主人をだまそうとは思っておらず、たとえだまされても主人の恥にはなりますまい・・・

この「恥」という概念が、徳川家康にはなかったと言える。

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