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【読書感想】2025年3冊目「国盗り物語(二)」司馬遼太郎/新潮文庫
pp.461--486 女買い、夕月
美濃からの急ぎの旅のあげくである。普通人なら足腰が木のようになっているべきところだが、この男の顔は疲れもみせない。
(世に、仕事ほどおもしろいものはない)
と思っていた。
それが庄九郎を疲れさせないのであろう。・・・
この気持ちよくわかる。
pp.487--524 香子、小倉山問答、藤左衛門
やはり香子を都から連れてきた甲斐があった、と庄九郎は思った。男子の鉄腸を溶かすのは女色しかない。まして頼芸のような男は閨房のかげからあやつる以外に手がないのである。・・・
同じ男子として、こうはなりたくないなぁ。
pp.525--536 続・藤左衛門
「血は毒のようなものでござる。貧家の兄弟というものは分けあうべき財産がござらぬため力を協せてはたらき、家名を興すもとになります。毒も、この場合は薬、というべきものでありましょう。しかしながら権門勢家の兄弟ほど油断のならぬものはござりませぬ」・・・
全くもって世の常というもの。
pp.537--550 夜討
マキャヴェリは、能力ある者こそ君主の位置につくべきだ、といった。能力こそ支配者の唯一の道徳である、ともいった。このフィレンツェの貧しい貴族の家にうまれた権謀思想家が、自分と同時代の日本に斎藤道三こと庄九郎がいるということを知ったならば、自分の思想の具現者として涙をながして手をさしのべたかもしれない。・・・
能力のないトップについた部下ほど悲惨なものはない。自分は、どうか。常に問い続けてきたことだ。
pp.551--563 上意討
牧谿という名さえ知らぬ肉親よりも、牧谿を知っている他人のほうが、頼芸の身にとって近い。頼芸はたとえば無人島に流されたとして、一人だけの友をえらべといわれれば躊躇なく庄九郎をえらんだであろう。・・・
そうだろうなぁ。僕も。
pp.564--577 雲がくれ道三
人間五十年 化転のうちにくらぶれば ゆめまぼろしのごとくなり
人間など、観じ来れば一曲の舞にもひとしい。──生あるもののなかで滅せぬもののあるべきか。 庄九郎の好きな一節である。のちに庄九郎の女婿になり、岳父の庄九郎こと斎藤道三を師のごとく慕った織田信長は、やはりこの一章がすきであった。・・・
そうか、織田信長のルーツは、斎藤道三だったんだ。
頼芸が、びっくりした。 城内のどこでみつけたのか、庄九郎は墨染の破れ衣をまとい、縄の帯をしめ、頼芸の前に大あぐらをかいてすわっている。 「もとこれ、洛陽の乞食法師」 庄九郎は、悠然といった。・・・「このさきは行雲流水、風月を友にして諸国を歩くさ」 これも、本心である。巨大な事業慾ほど、巨大な厭世感がつきまとうものだ。矛盾ではない。
若い頃、僕も同じようなことを、したなぁ。
pp.578--603 舞いもどり
この美濃では、
「一人出家すれば九族天に生ず」
という信仰習慣があり、たとえば日護上人などもその習慣から僧にさせられ、一族で建てた常在寺の住僧になったのである。余談だが、この習慣はほんの最近まで岐阜県につよく残っており、この県出身の僧侶が多い。・・・
岐阜県の習慣だったんだ。でも僕が出家したとき、祖母の都さんも、その話をしていた。何かつながりがあったんだろうか。
この白雲和尚はのちに還俗して女房をもち、子を生んだ。子の名が斎藤利三。のちに庄九郎道三が可愛がった明智光秀の家老になり、その利三の娘が、徳川三代将軍の乳母で、大奥に威勢をふるった春日局である。つまり、春日局は白雲の孫ということになる。・・・
血は、脈々と受け継がれていく。
pp.604–629 雑話、松山合戦
(将になるほどの者は、心得があるとすれば信の一字だけだ)
約束したことは破らぬ、という信用だけが人を寄せ、次第に心をよせる者が多くなり、ついには大事が成就できると思っている。・・・
人を裏切れば誰からも信用もされなくなる。時間を守ることは、最低限のこと。
pp.630—656 小見の方、雨
古来、領主というものは百姓から年貢を収奪するばかりでこういう政治をする者はまれであった。庄九郎が下層の出身であり、かつ商人の出であったればこそ、そういう感覚も能力も豊かだったのであろう。・・・
斎藤道三は、洪水という危機を利用して、領民のために米を配った。すごい政治感覚。
pp.657--682 姓は斎藤、馬鞭をあげて
歴史が、英傑を要求するときがある、ときに。──
時に、でしかない。なぜならば、英雄豪傑といった変格人は、安定した社会が必要としないからだ。むしろ、安定した秩序のなかでは百世にひとりという異常児は毒物でしかない。・・・
今は不安定の時代だろう。だから、異常という毒物が救世の薬物となるときだ。
pp.683--695 わが城
「ではなぜ築城なさいます」 「馬鹿どもへのこけおどしよ」・・・
このいま、僕がいるこの社屋のことも、僕は斎藤道三と同じように考えている。
pp.696--709 木下闇
こういう場合、庄九郎は頭をつかわない。頭脳というものがいかに感覚をにぶらせるものかを知っている。すべて、かんである。かんの命ずるまま、反射的に跳ねあがり、右ひだりに駈け、跳びあがり、刀をぬき、斬り、飛びさがる。・・・
養老孟司の本にも同じようなことが書いてあった。意識は感覚を鈍らせる。何も考えないと、うまくいくことがあるというのは、本当だ。
「そうみえるなら、不徳のいたりだ。人間、善人とか悪人とかいわれるような奴におれはなりたくない。善悪を超絶したもう一段上の自然法爾のなかにおれの精神は住んでおるつもりだ」・・・
生まれきたそのまま、「あるがまま」という意味だろうか。
pp.710--750 二条の館、月の堂、紙屋川
「天」
「そう。唐土には、そんな思想がある。王家が古びて時代を担当する能力を欠くようになれば、天命革まり、天は英雄豪傑を選んで風雲のなかに剣をもって起たしめ、王家を倒して新しい政治を布く。これを革命という。革命児には本来、主人はない。あるのは、ただ天のみ」・・・
「革命児には本来、主人はない」。この言葉、いいなぁ。
pp.751--775 若菜、織田の使者
むろん、憎悪だけでなく、愛情もつよくなるようで、どうも四十を越えれば自制心のたががゆるみ、愛憎ともに深くなりまさるものらしい。・・・
僕の場合は、ここ数年だから、50を過ぎてからかなぁ。愛憎が深くなったのは。
pp.776--788 美濃の蝮
かれはつねづね、 「人間とはなにか」 と考えている。なるほど、善人もいる、悪人もいる。しかしおしなべて、 ──飽くことを知らぬ慾望のかたまり。 として見ていた。・・・
自分の中でもその「蝮」がうず巻いているのを、感じる。
庄九郎とほぼ同時代のヨーロッパの戦国時代に出た策略家ニコロ・マキャヴェリは、五カ条をもって定義している。
一、恩を忘れやすく
二、移り気で
三、偽善的であり
四、危険に際しては臆病で
五、利にのぞんでは、貪慾である
と。むろん庄九郎は、このイタリー半島のフィレンツェの貧乏貴族の名も思想も知らないが、まったくの同意見であった。
まさに、この通り。自分も他人も、関係はない。
pp.789--801 淫府
韓非子には、「人の君主たる者は、家来に物の好きこのみを見せてはならぬ」というくだりがある。家来がすぐそれに迎合するからだ。・・・
僕は柔道が好きだが、これに迎合してくれれば、酒の会は減り、みんな健康になるではないか。
pp.802--814 漁火
「人の一生も、詩とおなじだ」 と、庄九郎はよくいった。人生にも詩とおなじく、起承転結の配列がある、と。 「なかでも、転が大事である」 と、言う。 「この転をうまくやれるかやれないかで、人生の勝利者であるか、ないかのわかれみちになる」・・・
僕にとっての「転」って、なんだろう。一番大きかったのは、大切な人との出会いだったと、今になっては思う。
pp.815--827 三段討
「あれが、武略の原型でもあるし、人生の原型でもある」
「あのようなものが?」
と、桃丸はおどろいた。単にいたずら半分に思いついた手が、人生万般に通ずる機略のモトだ、というのはどういうことであろう。・・・
いくさは、「わな」を仕掛けるということが大切。
pp.828--840 英雄の世
「これ吉法師(後の織田信長)、その姿はなんじゃ」
素っぱだかであった。だけでなく、漁村の漁師がよくそうしているように、股間のものをわらしべでむすんでいる。・・・
昔はそうだったんだ。
pp.841--852 尾張の虎
「おれは天下をとるのだ。天下をとるには善い響きをもつ人気が要る。人気を得るには、ずいぶん無駄が必要よ。無駄を平然としてやれる人間でなければ天下がとれるものか」・・・
無駄にも色々あるけど、僕の柔道もそういうものかもしれない。
pp.853--865 蝮と虎《とら》
庄九郎のやり方はちがっていた。兵の賭博性よりも計算性に富んでいるといっていい。疲労を小出しにし、体力をあとへあとへと残させて、最後に、
──かならず勝つ。
という機をみつけて、どっと体力を放出するのである。・・・
こういう戦い方、好き。企業もじっくり時間をかけて強くしていきたい。
pp.866--878 濃姫
精力漢の信秀は嫡子庶子ともに十二男七女という子福者で、この信長は次男であった。・・・
ほんと、すごい精力。
pp.879--892 京の灯(第二巻読了)
悪い、というのが男の強さをあらわす一種の美学的なことばで、庄九郎には不快にひびかない。 「美濃どころか、近江、越前、尾張、三河、遠江、駿河、どこでもわるい。天下第一等の悪人ということになっている」 破壊者なのである。・・・
変化は厭われる。変化を起こしたものも、厭われる。しかし変化し続けなければ、世の中はよくはならない。
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