悠久なるものとの対峙
○インスタ映えの真理
マジやばあああ!な景色に出会つた。
皆さんはどうしますか?
わたしは、歌にする!
「カシャ✨」は、最後だ。
なにかへの感動の表現方法としての写真は手軽で、記憶を呼び起こす行為としても視覚に頼り色彩を帯びた思ひ出は情報も多く感動を「繰り返し」やすい。
さて、古人はその心の動くさまを「もののあはれ」として言葉におおく残してきたわけであるが、現代の解釈は本居宣長に寄るところが大きいか。
その宣長の「もののあはれ」論について真つ向から自説を述べるわたしの好きなブロガーで国語教師をされてゐた、山口隆之さんは下記のやうに解説する。
もののあはれ=苦諦
これです。ね、シンプルでしょ?そして、宣長以来語(騙)られている「調和のとれた優美繊細な情趣の世界を理念化したもの」とか「外界の事物に触れて起こるしみじみとした情感」といった言葉が全くのウソであることが分かるはずです。
この等式は次のようにさらに分解することができます。
もの=苦
あはれ=諦
ん?全く分からないですと?では、シンプルに説明します。
(中略)私は「もの」という日本語の本質的な意味を「自己の外部」「不随意な存在」「無常なる存在」などととらえてきました。つまり、「もの」とは自分の意思ではコントロールできないものを表すというわけです。もちろん、そこから物体、物質、商品などの「物」という言葉、そして、人間を表す「者」、霊を表す「もの」というような言葉も生まれました。あるいは「もの思い」の「もの」、「物寂しい」の「物」、「〜だもん(もの)」の「もの」、その他古語の「ものから」や「ものかは」など全部説明できます。ま、今日はそこの説明は割愛しますけど。
で、「苦諦」の「苦」の方ですが、これは仏教を勉強されている方は当然ご存知だと思います。今風な「苦しみ」という意味ではありませんね。サンスクリット語の「ドゥクハ」の訳です。「ドゥクハ」とは、直訳すれば「悪い運命」となりますが、そのニュアンスを探っていくと「思い通りにならないこと」自体を表していることがわかります。
そうすると、まさに「もの=ドゥクハ」ですよね。だから「もの=苦」という等式が成り立つのです。
続きまして、「あはれ」です。こちらも現代人には注意が必要です。「あはれ」は「哀れ」ではありません。古い用法を見ると、まさに「ああ…」とか「Aha!」とか「AH!」とかいう、いわば世界的に共通した嘆息、感嘆の音符なんですよね。それは、いい意味でも悪い意味でも、何かを発見した、悟ったというような感じです。
一方の「諦」についても、現代人は既成概念を捨てる必要があります。「諦」は「あきらめる」と読めますので、ついつい「や〜めた」とか「もう無理だ」のようにとらえがちですが、それよりも「悟る」「納得する」というのが本義です。だいいち日本語の「あきらめる」も、もともと「明きらめる」であって、これは本来「明らかにする」「明らかになる」「晴れやかににする」という意味ですよね。
もうお分かりでしょう。これで完全に「あはれ=諦」という等式が成り立ちます。
よって、「もののあはれ=苦諦」。
以上、シンプルでしょう。つまり、両辺とも「世が無常なる存在であって自分の意思ではどうにもならない、ということを悟る、あらためて知る」という意味になるわけです。
そして、それは決してジメジメした感じばかりではありません。予想外の幸運の場合にも用いられます。ただ、人間、特に日本人はジメジメに美学を感じるところがありますから、時代を経て、どんどんそちら方向に純化していってしまった感はあります。それで宣長さんも、テキトーなこと言ってしまったということで。まあ、源氏物語(紫式部)さんも可哀そうなことになっちゃいましたね。
とにかくですね、仏教が伝来して当然「四諦」のうちの「苦諦」も基本的な概念として日本人に浸透していったわけですね。それを和語で表したのが「もののあはれ」だと言うことです。ただそれだけ。
ということで、これから辞書にも事典にも教科書にも、ぜひとも「もののあはれ=苦諦」と記してもらいたいものです(笑)。そうそう、この「〜ものです」の「もの」にも「不随意」な感じが入ってますね。もう完璧でしょう。でも、ゼッタイ私の思い通りにはなりません。まさに「もののあはれ=苦諦」であります。トホホ。
「もののあはれ」とは、まさに「不随意な現象、存在に対して、人間が自らの無力さ小ささを感じ、ため息をつくこと、またその時の感情」、さらに一歩進んで「世の中は無常であり、不随意であり、自分はちっぽけな存在であるという、ゆるがしようのない唯一の真実」を表す語
もののあはれはわたしたちが古文の授業で習つてきたやうな、「調和のとれた優美繊細な情趣の世界を理念化したもの」でも「外界の事物に触れて起こるしみじみとした情感」でもなく、「マジやばあああ」なのである。ちなみに、山口先生は「萌え=をかし」といふことも論じてゐるのでそちらのほうも是非☺️
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○自然に生かされた存在
自己の外部の意外なもの予想外なもの(不随意)、無常なるものと出会つたとき、わたしたちは写真に残したり、絵で表してみたり、音楽にしたりしてその嘆息し感嘆、詠嘆する、叫びや溜め息混じりの思ひを表現してきた。
そしてわたし自身はそれらを歌にして「言挙げ」してゐるわけであるが。
人間が自然の一部、無常なる存在、大いなる悠久の自然と一体であると気づかせてくれるためのひとつのきつかけとして、写真、音楽、絵画、歌がある。さうおもへばこそ、天から授かりし「歌詠み」といふ恵みをこれからも大事に抱へ寄り添つていかう、今さうおもふ。
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2015年の誕生日、
クラシックのコンサートを聴きにいつた帰りに詠んだ歌です。
いにしへや 身にふりかかりたる 雨粒の
われ震はせる 音の響きよ
制作中の歌集『ほしのみや』の目次を載せた記事です♪(v^_^)v